マイクが遮断された日のこと

22時半過ぎに放送のテレビ朝日の報道ステーション、松﨑重光さんが取材を受けました。環境大臣への陳情で、重光さんが水俣病でのたうち回って死んでいった妻のことを話している最中、環境省がマイクを切ったことに関する特集です。以下から観られます。
https://youtu.be/AB7zY9_h6Ak?si=fnv1t0QVI2YSVCSO

この50年以上、何があっても前を向き、夫婦で水俣病をたたかってきた松﨑さん。妻の悦子さんは昨年4月に、痛みの中でのたうち回って亡くなりました。
患者がどんなふうにして死んでいくのか、自分はそれをどんな思いで看取ったか、チッソに、国に県に市に伝えたいと、その機を待っていました。
そして5月1日、環境大臣への陳情の場が設けられ、そこに、松﨑さんと向かいました。
一団体3分と定められた、その枠を前に、何度も練習をしたことすら、今では悲しく感じます。

伊藤信太郎環境大臣は会場に、5分遅れてきました。大臣の遅刻のあいだ、その穴を埋めるようにして、木村熊本県知事が、一人ひとりのもとを回って名刺を渡して時間稼ぎをしていました。
遅れて到着した伊藤信太郎大臣は冒頭に「現地に来て皆さんの話を聞くことことは重要な機会。聞くことができてうれしい」「一人一人の話を丁寧に聞く」と言いました。
8つの患者団体の人たちが、一人ひとり、言葉を述べます。最高裁判決はどのように活かされたのか、3分が経ったとき、マイクがプツリと切れました。次の人が特措法の話をしたときもそうでした。私は何が起きているのか分かりませんでした。

そして重光さんの番。どんな思いで連れ合いであり戦友であった悦子さんを亡くされたかを訴えました。
悦子さんは女島の海に生まれ、9才から大人の中で働いた女漁師でした。父を早くに亡くした悦子さんは、多くのきょうだいの親代わりとなりました。結婚後も、重光さんと漁をして、そのきょうだいを、そして3人のこどもを育て上げました。
チッソが噓をつき、それに国と熊本県、多くの科学者が協力し、メチル水銀という毒を流しつづけました。
「我々はそれを知らずに一生懸命海に出て、魚を目いっぱい獲って市場に卸し、その魚は熊本県中に売られていった。毒入りと知らず、水銀漬けの魚を食べるだけ食べて、水銀で全身焼けきってしまった。
妻が痛いよ、痛いよとのたうち回っても、私は何もしてやれなかった。海に生まれ、海に生き、その海で苦しみながら、浄土へ行った」
といっている途中で環境省は「3分です」「話をおまとめください」と言ってすぐ、マイクのスイッチを切りました。
大臣はSPに囲まれて、すごく遠くに座っていたから、声は届かなくてなりました。重光さんは絶句しました。その顔が、今も頭から離れません。
重光さんからマイクを受け取って、叩いてみてオフになっていることがわかりました。「マイクはないけど最後までしゃべっていいんですよ」と重光さんに声をかけたら、マイクを通せずに、
「あなた方にとっては、たいしたことではないのでしょうね。
でもね、患者はみんなこうやって死んでいきます。腹が立つを通り越して、情けがないです。
自民党の皆さんは私らを棄てることばかり考えず、我々を見て、償う道を考えてください」と言いました。たったそれだけです。それだけの言葉です。だけどマイクは切られていたから、重光さんの言葉は宙に浮きました。

1970年代はじめから、重光さんと悦子さんは戦い続けてきました。ともに闘ってきた同志を亡くし、悲しみに打ちひしがれている重光さんの痛みを、3分経ったからマイクを切る、という対応。
時間ですと言われた瞬間の、重光さんの絶句の顔が頭から離れ忘れません。
そのときの映像はここから観ることができます。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rkk/1149996

「中立の立場」を主張する水俣市長も、「患者に寄り添う」という熊本県知事も、それを制止しませんでした。市長はただまっすぐに前を向いて微動だにせず、木村県知事は下を向いていました。他の団体の人たちが、必死に制止してくれました。「私たちの時間を使って」と言ってくれました。そうやって、たった3分を譲り合ったのです。
全員が話を終える間際に、後ろの官僚が次々と手渡したメモ。伊藤環境大臣は「胸が締め付けられる思いです」と言いながら、そのメモを数秒凝視し、それから話し始めた言葉があんなに空虚だったのは、彼自身の言葉ではなかったからなのだと書きながら気づきます。

最後に私たちが詰め寄ったとき、環境省の職員は「不手際だった」といい、環境大臣は、「マイクを切ったという認識はない」といいました。「認識はない」と聞いて、あぁこの人は、重光さんの話を話を聞いていなかったんだと、それで私は気が付きました。

私は、網元気質、誰でも迎え入れ、与え、豪快な笑顔で空気を変えてくれる悦子さんが大好きでした。大きな苦難に、彼女の工夫でもって立ち向かっていました。いつも私たちに感謝の言葉と態度を示してくれたけど、周りを、私を支えてくれていたのは悦子さんでした。夫のおしりを叩き、運動を牽引する悦子さんの存在がなければ、きっと、私の景色は変わっていたでしょう。そして実際に、悦子さん亡き後、私の景色は変わりました。

会が終わって、握った重光さんの手は、冷え切っていました。それで別の男性を誘って一緒に温泉に行って、それからお家でビールに焼酎を入れたものを飲んで「あんたが俺のかわりに怒ってくれたけん、俺は怒鳴らず済んだよ、ありがとうね」、とニコニコしながら言うので、泣きそうになりました。
水俣病が起きたあとも、安全と言われた海で曝露を受けながら漁をして、きょうだいやこどもを育て上げた悦子さんの最期がどんなふうであったか、この時を待っていた重光さんが、理不尽な目に遭いながらも、それでも目の前にいる相手を労う。50年以上の闘いのなかで、重光さんは、こうやって周りの信頼を得てきたのだと思います。

そして今日、目が覚めたのに、体がかたまって痛みで動けずに、丸一日ベッドにいました。大切な人を傷つけられたときに感じた痛みがつづき、自分の心をどうとかしたら良いだろうかと思って。人に(というか天使だなあの人は)、心から話を聞いてもらって、ちゃんと、聞いてもらって、それで少しとけました。
ああいう場には、もう行きたくないと思います。大切な人が冒涜されるのを、もう二度と見たくはありません。声を荒げたくもない。でも、患者が行く限りは。

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