11/4(月・休)相思社50年記念講演-安田菜津紀さん講演会

【11/4(月・休)10:30-水俣市もやい館にて-相思社50年記念講演-安田菜津紀さん水俣講演会 写真で声を刻む-水俣という地に立って-】
安田菜津紀さんはこれまで国内外でさまざまな差別や命の線引きを見つめてきました。そしていま安田さんは水俣でも、抗ったり暮らしたりしている人や土地を写し始めています。
ここにともに立ち、安田さんの目やカメラを通した水俣、そして社会を見つめてみませんか。

※以下のPeatixから、お申し込みいただけます。
https://yasudanatsukiminamata.peatix.com/view
※前売り券は1,000円に設定。高校生と介助者は無料です。誰でも参加しやすいように価格なので、余裕のある方はカンパ(寄付)お願いいたします。当日券は1,500円です。
※地元の産物を楽しめるマルシェを同時開催します。
※前日(11/3(日)は水俣市月浦の「おれんじ館」で映画上映およびトークイベントを開催します。こちらは来週お伝えします。

水俣で安田菜津紀を応援する実行委員会が立ち上がり、いろんな10人が意見を出し合って。。。見てください! 素敵なチラシができました。

【安田さんと初めて出会った、2023年9月1日】

その日は関東大震災が起きた日で、1923年からちょうど100年のその日、私はどうしても、関東にいたかった。
私は、水俣で「被害」を多く感じていました。だけれども。

相思社に入って間もなくして、私は朝鮮半島の人たちと出会いました。それは直接ではなく、患者の人たちの言葉の端々からや、整理をする資料の中から。チッソが、水俣が、日本の人たちが、植民地時代の朝鮮半島の人たちに何をしたのかを知りました。
チッソの創業者である野口遵の「労働者を牛馬と思え」とは、水俣病を専門にする人の間で有名ですが、植民地でのチッソは、朝鮮人を牛馬以下として扱いました。
私は、被害側にいると思っていた自分が、実は加害の側にもいたことを知りました。

そのうちに、関東大震災が起きたとき、国が朝鮮人や中国人を敵視する通達を全国に出したこと、それを信じた民衆が、多くの朝鮮半島や中国の人たち、地方出身者や言葉が不自由な障害者を殺したこと、そういうことが目に耳に、ゆっくりと入ってくるようになりました。
水俣の人間として、祈りたく、謝りたく、そういう気持ちがこみ上げました。

そして昨年夏、私は東京へ向かいました。8月31日、文京シビックホールで行われた追悼大会は、文字通り「大会」で、人であふれていました。
証言を聞き取ったり資料を保管したりする人たちの話を聞いて、初めて関東大震災で何が起きたのか、私が知らなかったことを知りました。遺族の挨拶に、「虐殺された一人ひとりに家族がいたのだ」という当たり前のことに思いを馳せました。
そして、「資料が見当たらないから」とその事実をなかったものにする政府の態度は、「被害は小さい」「水俣病はなかった」と言い始めるかもしれない水俣の未来を私に想像させました。
そして、ステージで言葉を発するだれかの声を聞いた瞬間、いつもいつもつらくなったら連絡をする、在日コリアンの友人のことを思い出し、ハッとしました。彼女がこんな流言のせいで亡き者にされたらという最悪な想像をして、感情があふれて止まらなくなりました。
きっと在日コリアンの友人がいなかったら、心の揺れ方はもっとずっと違ったと思います。自分の想像力のなさを思うとともに、多様な出会いの重要性を思います。

その後、横網公園の追悼碑前集会、「家族史のなかの恐怖の記憶」をテーマに崔善愛さんが三人のゲストを迎えた「関東大震災・朝鮮人虐殺を覚える9・1集会」、荒川土手での「ほうせんか」の追悼式など、スケジュールが許す限り、祈れる場に行きました。

9月1日、炎天下の朝、私は横網公園の追悼集会へ行きました。そこには関東大震災時の混乱のなかで、命を奪われた多くの朝鮮人を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い、震災50周年を記念して1973年に立てられた碑がありました。
そこで50年前から開かれている日本人が虐殺した朝鮮人や中国人のための法要に、参加しました。
碑の前には、遺族がいました。民族衣装を着た女性が舞い、追悼の言葉がつづきました。炎天下の中、本当にたくさんの人たちがただそこに、再会をよろこんだり、祈りながら佇んだりしていました。

追悼集会が終わり、たまたま現地で会った京都の蒔田さんに誘われて腹ごしらえ。公園を出たその路上で、一緒にご飯を食べに行こうと合流をしたのが、安田菜津紀さんと彼女のパートナーや多様な友人たちでした。
お昼に食べたもんじゃ焼きのおいしかったこと。その時間の楽しく豊かだったこと。前日から心が塞がっていた私は、その空気に良い意味で飲まれ、悲しいことも、つらいことも、一旦横に置いて、しっかり食べて、そしてたっぷり笑いました。

私の心は、ゆたかな昼食をはさんでほぐれていました。ゆるやかな気持ちのままで、午前に追悼集会が行われたと同じ公園へ向かいました。
到着した公園は、午前の追悼集会から一転、信じられない光景でした。
一つの団体が、虐殺を否定する「真実の慰霊祭」というものを始めようとしていました。朝鮮人に対する誹謗中傷が聞こえないように、抗う人たちが声をあげていました。
そこには緊急的に柵が張られ、慰霊祭に抗う人たちとの間に大勢の警官隊や都の職員が立ちました。
そのものものしさと、大勢の人の大声に、私は驚いて、しばらく立ちすくんでしまいました。
でもたまらなくなって柵を越え、警察に「行ってきていいですか」と聞いて主催団体の人たちに会いに行きました。
私は、虐殺を否定するのは怖い顔をしたひどい人たちだと思い込んで行ったけど、彼らは普通の顔をして、むしろ無邪気な振る舞いをしていました。何も考えていないようで、拍子抜けしました。かるくって、うすくって。自分の思い込みがはずかしくなりました。
団体にいる何人かに話を聞いたら「虐殺はなかった」「自分はレイシストなんかじゃない」と言いました。特によく話をした20代の人は、「自分の曾祖父さんは朝鮮人が井戸に毒を入れるのを見た」「日本人を誤って殺した自警団は、ちゃんと仕事をしたということ」と言いました。彼らの持つ空虚さに混乱して、虐殺は、こういう人の手で行われたのかもしれないと思いました。

そこで、安田さんとは、はぐれてしまいました。
だけれども、安田さんはそれ以来、何かがあると声をかけてくれ、そして私も何かがあると、声をかけるようになりました。
彼女の活動を知るたびに、遠い世界にいるはずの誰かを身近に感じたりするようになりました。
おかしいことは、ちゃんと「おかしいよ」と言って、必死に声をあげている人たちの小さな声を大きくしようと必死になって。よどみなく出る言葉たちの粒には、その人たちの声が重なる。
あきらめず、抗う姿がそこにあり、わたしもあきらめないと思った瞬間があって、彼女を水俣に呼びたいと思うようになりました。

あれから一年が過ぎました。
今年、関東大震災から、朝鮮人や中国人の虐殺から101年だけれども、日本の植民地支配や、朝鮮半島や中国からの収奪があっての虐殺で、その延長上に今があるのだと改めて思います。
そして水俣病事件も、101年前の漁民のたたかいがあって、公式確認があって、そして今があるのだと。
あの虐殺と水俣を、重ね合わせて互いを覚え続けたいと思います。
ほんとうは、今年の9月1日に書きたかったこと。

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