「冷静に」のうしろにあるもの

2ヶ月経って、ようやく少し静かな気持ちで思い出せるようになったこと。「冷静に」の後ろにあるもの。誰だって、何歳になったって、いつからだって、声を上げていいということ。

7月の環境大臣と水俣病患者の再懇談の席で、憤る私たちに向かって官僚が、「冷静になりましょう」「建設的に話をしましょう」と言いました。それで一瞬、背筋が凍りました。

冷静にさせないのは、今まで話を聞いてこなかったのは、誰か。建設的に話をしてこなかったのは、誰か?

そもそもなぜ加害者に「冷静に」と言われなければならないのか。 この言葉に黙らされたら、誰もなにも主張できなくなると直感し、「誰が冷静にさせないの」「冷静になることだけが良いことじゃない」「話をさせて」と反論しました。そのとき、私の援護射撃でヤジを飛ばし、拍手したのは女性患者たちでした。彼女たちのそれにどれだけ励まされたか。励まされることが、こんなにも私を強くすることを知りました。

再懇談に同席した知事は、私たちに「常識的に」「一般的には」と言いました。「私たちの要望を長年放置して、その間に多くの人たちをあの世に逝かせてしまって、今この瞬間も苦しみを負わせつづけて、そっちのほうがよっぽど『常識的』ではないじゃない」と言い返しました。このことに対しても、「冷静に」へも、もっとうまい語彙とか返しがあったはず。

5月、マイク切り後の「謝罪」の場で、環境大臣が再懇談の約束をして以降の2か月間、10回にわたって環境省と交渉しました。

誰でもどれだけでも発言できるよう、「離島への訪問」かつ「時間無制限・人数無制限」を国に強く求めました。国からは何度も時間を値切られました。だけれども私は、大臣は何日だって水俣に来ていい、患者が苦しんできた時間に比べたら数日なんてあっという間だと思い、交渉に交渉を重ねて、私たちの団体に2日間、他の団体に1日の合計3日間を得ました。

再懇談の当日、会場には多くの女性がやって来ました。

症状を抱えながらの長年のケア労働(家事や介護・育児・夫の世話)のつらさ、結婚や離婚のハードルの高さ、認定・未認定の補償の差、水俣病が治る薬を開発してほしい、震えがひどすぎて島外の病院へ行けない。相思社の仏壇に位牌をお預かりしている友人の水俣病による最期を伝えた女性もいました。

書いてきた原稿を読む人、遠方に住む7-8人の女性患者たちからの手紙を代読する人、時間や言葉遣いを気にしない人たち。

深い悲しみの中で怒り、泣き、叫び、ときに症状によって大きく体をけいれんさせながら訴える、身近な人たちの言葉に私は圧倒されました。

再懇談で女性患者たちの姿を見て、誰だって、何歳になったって、いつからだって、声を上げていいと知りました。

思えば私は彼女たちのそういう話を聞いてこなかったし、だから、彼女たちも話さなかった。大臣の前で声をあげた彼女たちの水俣病としての「当たり前の苦しみ」への想像力を、私は今までどれだけ働かせることができたか。

花見、旅行、総会、忘年会、環境省交渉と、年間に楽しいこと、厳しいこと、たくさんの行事を抱えながら、団体を盛り上げ支えていくために、多くの患者が尽力しています。

女性たちはその後ろで、いつもせかせかと男たちのため、友人のために働いていました。

私は、支援した裁判を闘った原告(恩師の溝口秋生先生)や相思社の相談業務の中で出会ってきた患者たちからはその苦しみを、十分とは決して思わないけれど、それでも聞かせてもらってきました。

一方の患者団体の事務局としての私は、業務としての団体の仕事を回すことで精一杯。語らない女性たちの声をどれだけ聞くことが、聞こうとすることができただろうかと思います。

一方で(がつづきますが)、「大臣が仏壇の前で仲間たちの位牌に謝罪したことで、胸がすっとした」という言葉を聞きました。「国にチッソに、自分の連れ合いがどんなふうに死んでいったかを聞かせたい」という言葉もありました。これはいずれも男性の言葉で、どう理解したらいいかは難しいけれど、加害者としての国を糾弾したいという一方で、彼らは普段、大臣を「親父」と呼んでいて、だからそういう人が自分たちのところに来て、話を聞いてくれるということは、慰めでもあり、癒やしでもあるのかもしれないと思います。あと、補償より謝罪のほうがずっとハードルが高いという慰安婦の女性たちのケースがあると友人に聞きました。

大臣の謝罪がどれだけ難しいことか、患者たちは身を持って知っておられるのかもしれません。

私はまだほんとうにうまく理解できないし、その理解が正しいかも分からないのですが、もしかすると女性たちもその両方の意味で、大臣の前だから言いたいことを思いっきり(かは、分からないけれど)、言えたのかもしれません。

思えば、今まで大臣との懇談出席は毎回患者代表と事務局のみで発言時間は3分でした。患者代表は今に至るまで男性で、事務局長も、私(女性)になった最近まで男性で、団体として大臣懇談の場に女が立つことはありませんでした。

人数、時間無制限にしたことで、初めて女性が来て、たくさんの時間を割いて話をした。

うちの患者団体は、設立から50年経っています。闘ってきた長さは65年、50年、30年、15年と、人によっていろいろです。

声を上げたタイミングやそれまでの立場や地域があるし、いろんな種類やレベルの要望があって、運動の間に死んでいった人たちも大勢います。

私は、そういう長くて広くて深い彼らの歴史の隣に、事務局として、未熟な自分がいることへの申し訳なさをもって、過ごしてきました。

でも今回みんなのために懇談の時間を得る交渉を粘らせてもらうことができ、女性のヤジや拍手にも励まされ、「申し訳ないと思わなくていい」と思い直しました。

私が気にすべきは、私自身の年齢や未熟さではない。集中してやるべきは、患者が安心して声を上げられる環境を作ることなんだと思い直しました。

そして週末は、朝はやく起きて、同僚の坂本さんと、大きな車で水俣、津奈木、芦北と水俣病の患者さんたちをピックアップ。計石港で自力で動ける患者さんたちと合流して、大きな船に乗りました。一行は御所浦島へ向かいました。

船の中では、女性たちが黒飴やミルク飴やマヌカハニー飴を配ってくれます。うまい! となりの患者さんが、「わしはあんたに何もでけんけん、飴なっとやらんばん」と、女性たちからもらった飴をカバンのポケットに滑り込ませます。いやいやこちらこそですよ、泣いちゃう。

凪いでいて、まったく揺れず、エンジン音の中で、手の震えや足がつる、頭痛やめまいの症状のこと、厳しい経済状況、近所の誰々さんの認知が進んだ、誰々さんが入院した、熊本県知事の相次ぐ心無い発言などを、みんなが口々に話します。

到着後、待っていてくれたのは、御所浦の患者さんたち。陸と島の人たちが協同し、きつい体を押して、痛み止めを飲みながら何度もともに行った5月から8月末の間の交渉の思い出と、これからの見通しについて話し合いました。

8月末、15年要望を続けたことが一つだけ通り、でもそのことが微々たるもの過ぎてみんなで憤りました。

「そんなもんはけったくれ!(蹴れ!)」と怒る患者もいて、再度話し合い。

話し合いが終わり、お魚三昧のお昼ご飯、女性たちが口々に「『虎ちゃん』にな水俣病がでたもんな」「見た見たー、たまがったなー!」「まっこて、水俣病が取り上げられるなんかなぁ」「おら、うれしゅしてうれしゅして」「あの人たち(第一次訴訟原告)がおって、今うったちがおっとよな」と、それぞれに感慨深げでした。 ※虎ちゃん=朝ドラの『虎に翼』

1923年、水俣の漁師が海を汚染するチッソを初めて訴えた年から100年(この年の漁民闘争の汚染原因は水銀ではなくカーバイド)、そして、そこにいる人たちも参加した不知火海全域の漁師が初めてチッソを訴えた1959年から数えても65年。

不知火の人たちはまだ闘っているんだなと考えていたら、「石牟礼先生もいつか出らすどか」とヒロイン予想。水俣で石牟礼先生は、中学の国語教師だった「石牟礼弘さん(道子の夫)」だけど、津奈木や芦北では道子さんを言うらしい。新鮮。

私は出勤時間によって朝ドラを観られたり観られなかったりで、「水俣病」の登場は、ちょうど観られなかった日…。残念。

私たちがどんなに声を張り上げたって、その大きさは変わらないとも感じてきました。だけれども、マイク切りのあと、私たちを励ます声があふれた。

大切なのは、その声を周りのみんながキャッチして、広げてくれること。それは、周りの人たちにしかできません。

そして私も誰かが叫んでいるときに、その声をキャッチし広げる役割を担いたい。

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