人権主任の先生へ水俣病を伝える!

今日は、荒木洋子さんと二人で、教育事務所へ水俣病を伝えに行って来ました。

 

聞いてくれた方たちは、県内の小中学校の人権主任の先生64人。

私達に与えられた時間は、①永野30分、②荒木さん30分、③二人への質疑応答15分。この短い時間の中で、私たちは必死に水俣病を伝えます。

まず永野が、はじめに水俣出身の自分の経験、水俣病の概要と相談業務の中での経験を語ります。

私はこういった会に呼ばれると(地元でない分緊張するので)、出来る限り当日の座席表や相手の名簿などを入手し、漢字の読み方などを聞いておきます。今回の方たちの学校名は珍しい名前ばかり。きっとその地名には、その土地の特徴や住人の暮らし、思いが由来として反映されているんだろうな、あとで調べてみようと思いながら、読み仮名をふりました。こんなことをするのには目的があります。途中から相手の方たちを巻き込むためです。本当は、「あなたは水俣病事件についてどう思いますか?」と尋ねたいのですが、時間がないので、水俣病事件についてクイズ形式で質問し、ランダムに先生たちを当て答えを尋ねていきます。

お昼すぎの眠い時間、先生たち、ウトウトしています。名指しで質問をされると本当にビックリされるのです。ハッとして、姿勢を正して応えてくれます。その気持ちが嬉しくて、私の緊張はほぐれ、勝手に一体感を覚えます。修学旅行に来た子たちに同じ事ように名前を呼んだりイジったりすると、「なんで名前知ってんの?」「オレかよ~」ってとこから、話を聞いてくれるようになります。情報収集は結構大切です。

そして次に荒木洋子さんと対談形式でのお話。永野が質問をし、それに答えてもらう形で進めました。

荒木さんは昭和8年生まれ。昭和20年代に原因不明の脳性麻痺で弟さんや妹さんを三人も亡くしておられます。洋子さんのお母さんは、流産を経験しておられます。水俣病研究班の報告によると、昭和16年から患者が出ていますので、「おそらく亡くなった弟妹は水俣病だった」と洋子さんは言います。そして昭和29年、まだ公式確認の前にお父さんが水俣病を発症、その後、別の弟や妹、お母さんが発症、そして、ご自身も発症。水俣病第一次訴訟の原告となった生存している一家の全員が水俣病と認められました。

現在まで家族の介護を続けていますが、生きているご家族は妹さんだけになりました。自身も身体の不調を持つ中で、洋子さんは、原田正純さんに頼まれ掘り起こし検診のために自宅を開放したり、運動に積極的に参加しました。今も相思社を支えてくれています。そして、そこから離れた「日常」も必死に生きてきた洋子さん。その中で差別や偏見を耐えた洋子さんの証言は、息を飲むものでした。

そして、打ち合わせにはなかったのですが(笑)、「この二年で6万5千人の申請者が出た水俣病事件の現状をどう思うか」について尋ねると、「当たり前と思う。もっともっと患者はいるはず」「○○(近い方)は、40代だが視野狭窄で既に車の運転ができず、仕事帰りに病院へ行ってタクシーで帰るため生活費が苦しい」「親戚に症状を持っているのに社会的立場があって申請できないものがいる」などの話をしてくれました。私も、この人達の存在が心配で仕方ありません。

そして最後の質問コーナー。ここでは炭鉱住宅で育った先生が発言。荒木さんへ、「運動に参加すると『水俣病』という事がバレるだろう。どうして荒木さんは運動に参加したのか、それを支えたものは何か」という質問。

そして永野には「水俣病患者へ向いていた差別の矛先が転換した契機はいつで、どんなことからか」という質問。

それぞれの答えはちょっと長いのでまた今度…おやすみなさい。

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