今日は午前中に相思社で三人の患者の方たちの相談をお受けし、そのあと水俣病第一次訴訟勝訴40周年パーティーへ行ってきました。
午前中の三人の患者の方は、時間をずらして来ていただき、お一人30分~1時間かけてお話をしました。それぞれに水俣病の症状をお持ちで、日常生活に支障をきたしている方です。今になって症状を訴えるこの方たちの受け皿と将来がとても心配です。水俣病という病気は一生治りません。この被害は、健康を失った人にしか分かりません。
「しびれがきつかっですよ」「頭が痛くて朝1~2錠、毎日欠かさず飲まんとおられません。お医者さんにはやめたほうがいいち言わるっとですけど、飲まずには生きられんとですよ」「耳鳴りは気が狂いそうになるときもあります」
ある方の話は発展し、障害を持った息子さんに対する悩みに至りました。相談内容は時に水俣病以外に及ぶこともありますが、これは線引できるものではありませんし、すべきではないと思っています。
私に話したからと言って何も解決するわけではないですが、水俣病をきっかけに、その人が抱える闇や悩みを吐き出す場所、安心して迷惑をかけあえる場所を作っていきたいと思っています。
午後からは「水俣病第一次訴訟勝訴40周年パーティー」に参加しました。
参加した人たちは、初期の水俣病患者や支援した市民(実は水俣病だったということが今(2010年)になって分かっています)、裁判に関わった弁護士・学者、写真家などが参加しました。
この裁判を提訴した原告団の団長は当時「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」と宣言をしました。その言葉を初めて聞いたとき、私は少々オオゲサネと思ったのですが、原告の方たちお一人お一人の声を聞き、その言葉がオオゲサでもなんでもなかったことを知りました。
社会的・職業的・地域的マイノリティな存在だった初期の水俣病患者。差別や偏見の中で、チッソ城下町で、声をあげることが今よりも難しかった時代。
公式確認から13年もの間、被害に耐え、隠れるように暮らしてきた患者たちの思いは、この裁判で溢れだし、多くの人たちが水俣病という犯罪を知るきっかけにもなりました。
この裁判の過程では、チッソに対して弓を射った自分たちが、裁判に勝ったところで地域で生活を取り戻すことは難しい、台風のときの逃げ場のような場所がほしい、という患者たちの不安の声があがりました。
原告の濱元二徳さんの言った「じゃなかしゃば」と石牟礼道子さんの言った「もう一つのこの世」を水俣に作ろうということで持ち上がったのが「水俣病センター相思社構想」でした。濱元さんと石牟礼さんの言葉は同じ意味を持ちます。
私にとってのもう一つのこの世は、生きづらさを抱えた人や社会的少数者が、迷惑を掛け合いながら生き生きと生きて行ける場所。原点に出会ったパーティーでした。
初期の患者と今声を上げた患者。すべての人に開かれた相思社を目指します。
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