でももう日和ったりしません。
福島の方たちは「先人の智恵を」といいますが、水俣だって何が解決したわけでも乗り越えたわけでもありません。だから教訓なんてものは伝えられないけど。
でも経験してきたことはある。仲間として、あった事実を伝えたい。
そして、今福島は水俣と同じ経験をたどっていることを改めて実感します。
福島の原発事故直後、福島から来られる方をご案内しながら、初めて「福島もそう!」「私もそう!」とこんなにも経験を共感できる方たちと出会ったことが嬉しく、でもすぐにこれはとても哀しいことなんだと気付き愕然としたことを今日また思い出しました。
そして夜。水俣からも大勢が集い、飛び入り多数で総勢31人。わいわいがやがや。
シンポジウムや飲み会ではいろんな話を聞きました。
福島で「いわき未来会議」「ふくしまキュン❤キュン❤大学」「南相馬 花と希望を育てる会」「女子の暮らしの研究所」「スタ☆ふく」をされていたり、避難先の北海道で「自主避難者自治組織桜会」をされている総勢11名の方たちがプレゼンをしてくれました。
補償金を巡っての諍い、避難地域と自主避難地域との間での葛藤。子どもでも妊婦でもない女性(18歳以上ママ未満の女性)へのケアの薄さ、「食べるか食べないか・避難するかしないか・放射能を気にするかしないか」常に迫られる選択とそれによって生まれる分断。
「焼酎・水俣あかり」を中心になって作った愛林館は沢畑さんは、「一緒に作った人たちは、水俣病について、天皇制について、日本の戦争責任につい て、米国 発のグローバル経済について、といった分野での意見はバラバラだけど、せっかくの農地を荒らさずに活用したい、唐芋を加工したい、特産品を作りたい、と いった気持ちは同じ。だから、その面で協働作業をして、商品ができた。こういう形で、小さく協働を積み重ねているうちに、多様性を認める社会が福島でもで きて行くのだと思う」とおっしゃる。
希望の先には死神が、という友人の言葉。昭和30年代、高度経済成長期の日本は希望で溢れていた。そして水俣病は起きた。
確かに個人ではなく大勢が持つ希望ほど恐ろしいものはありません。
それでも私達は生きていかねばなりません。希望じゃなく、小さな芽ができることを信じて、水俣も、福島も、忘れずに、関わり続けます。
明日は同じ団体の方を考証館へご案内します♪