この間色んなことがあって、発信や報告をしなければと思うのに。茂道からの帰り道の夕陽がきれいで、今日出会った人を思い、書きます。
水俣のとなり町で生まれた方が一年ぶりに相談にやってきました。たった一年なのに、随分印象が変わっていました。時々顔を見せ電話をくれる患者の人たちが、六年前と、三年前と、一年前と比べてどんどんと症状が重くなっていき、私は途方に暮れています。
今日来た方は、水俣の魚を多食し、水俣病特有の症状を有しているにも関わらず、「対象地域外」ということで何の補償の対象にもならなかった方です。納得がいかず、その体を押して今、闘おうとしています。
来られた途端まくし立てるように話し始めました。「どこへ行っても、話を聞いてもらえんのよ」と言います。
メモを取るために、少し冷静になるために、数回席を立ち、また仏間に戻る度に目に入るお位牌の患者たちは、この光景をどんな風に見ているでしょう。
闘いの最中に逝った生命、自分が水俣病と知ることもなく狂い死んだ生命、二歳という若さで生命を絶たれた生命、生まれてくることすら出来なかった生命、原因究明のために犠牲になり明らかになった事実をひた隠しにされた猫たちの生命。
「被害者手帳」取得者が発表され、水俣病は「終わり」「解決」へ流れていこうとしています。
その裏側に、彼らの存在があります。彼らの抱える苦しみの元を、私も、隣の人も、その隣の人も、持っています。作ってきたはずです。
一年半前の相談記録を引っ張りだしてみました。この方の地元では、昔「山野線」という鉄道が走っていて、多くの行商人が水俣から日々魚を売りに行っていました。当時、列車の全車両に魚の匂いが充満していたという話はよく聞きます。
去年の聞き取りと、今日の話しから…
「母は、作った米や野菜を売るために水俣へ行った。物々交換や、帰りには水俣のめごから余った魚をただでもらってきた。商品にならないような魚もたくさんあったけど、煮たり焼いたりして食べた。
食事時には、ちゃぶ台に大鍋が「どん!」と置かれ、俺たち子どもは鍋の中の魚を争うように毎日魚を食べた。イワシ、ガラカブ、アジ、チヌ、ボラ、アサ リ、ビナ、カキ。イワシ、アミ、サバ、タコ。塩漬けにしたり、母が天井に吊ってショケにして保管をして、畑仕事や山仕事に行く時はそれを持って行って、 炙ったり焼いたりして食べた。肉を食べることはなく、タンパク源は魚だけ。イリコを干したものを常にポケットに入れておやつで食べた。
少し大きくなったら俺は漁村に働きに行った。月に二十日は泊まってシャクやボラ、エビを獲った。
俺たちにも小さい頃から症状がある。耳鳴りは恐ろしかも恐ろしか。耳にはもう何十年もセミが住み着いているよう。時にはカーっとなる。精神的にも おかしくなって。耳が聞こえにくいし、聞こえても理解のできん。箸を落とす、食べ物を落とす。からすまがり、手足のしびれと感覚の鈍さ、つまずき、頭痛、 めまい、ふらつき、立ちくらみ、手足のふるえ、肩こり、腰痛、味がわからない。頭痛薬は毎日飲み続けている。特に若い頃からある手や、ふくらはぎから足先 にかけてのからすまがりは翌日筋肉痛になるくらいひどくって、夜中には耳鳴りとセットで孤独も孤独。足先のしびれもしょっちゅうあるし、酷くなる一方。
なんとか認めてもらわないとと思って、県職員に、山野線でめご(魚の行商)が沢山魚を売りに来たって言うと『そんなのは関係ないですもんね。公的な書類が必要なんです。領収書を持ってきてください』と言われる。
そんなこと言われても、誰が50年前の領収書を取っていますか。もし、めごが領収書を書いてたとしても、魚が染み付いているから猫が食いついてしまって 捨ててしまう。漁村での居候が証拠になるかと思ったけど、住民票を移してないし、住まわしてくれた第三者の証明はあっても『公的』じゃないからダメと。漁 師じゃないから船員手帳も航海日誌もない。
俺らは、水俣の人たちの魚を俺たちもみんな食べているのに、なんで対等に扱われないのか。探して探してやっと突き止めためご(行商)は、もう死ん じゃってた。証明を出せない被害者の俺らは大変で、「もういいです」と言うのを県も国も待っている。国民に対しては、ここまで枠を広げましたというアリバ イづくりをしている。『対象地域の枠を広げました。広げました』っていうけど、だけど条件が厳しい。証拠証拠と言うならば、じゃあ俺たちが食べていないと いう証拠を出してくれ。そんなことを言うと堂々巡りかもしれないけどね。
俺はもう、認められるかは分からない。でも、これから水俣病だと出てくる人たちの石杖にでもなればと思ってやる。そうしないとやれない。
「認定申請をする」、「裁判をする」。今日は、彼が闘いを決めた日でした。いつも、ここで、彼らと共にいよう。夕陽を見ながらそんなことを思いました。
そして、決して他人ごとではない。
今日本で起きていることの50年後を、彼は、生きています。
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