水俣市の35年
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目次
1.はじめに
2.報告の概要
3.凡例
4.フィッシュボーン図
5.水俣病事件のなかの水俣市を見る
水俣病前史
(一)この時代の概要
(二)主なできごと
(1)チッソの進出
(2)チッソ社会資本の支配
(3)海の汚染
(4)奇病が発生
(三)まとめと残った問題点
(四)資料
原因究明期
(一)この時代の概要
(二)主なできごと
(1)初期の原因究明
(2)水俣病患者互助会の結成
(3)有機水銀説の登場
(4)不知火海漁民闘争
(5)見舞金契約
(三)原因究明期の総括
(四)資料
空白期
(一)この時代の概要
(二)主なできごと
(1)サイクレーター
(2)原因物質メチル水銀の確定
(3)胎児性水俣病
(4)安賃闘争
(三)まとめと残った問題点
(四)資料
責任追求期
(一)この時代の概略説明
(二)主なできごと
(1)水俣病対策市民会議の結成
(2)政府の公害認定
(3)市民運動
(4)患者互助会の分裂
(5)明水園開設
(三)まとめと残った問題点
(四)資料
認定問題期Ⅰ
(一)この時代の概要
(二)主なできごと
(1)ヘドロ処理問題
(2)未認定患者への対応
(3)ニセ患者発言の波及
(三)まとめと残った問題点
(四)資料
認定問題期Ⅱ
(一)この時代の概要
(二)主なできごと
(1)県債発行
(2)水俣病事件への取組み
(3)未認定患者への対応
(4)埋立地完成
(三)まとめと残った問題点
(四)資料
6.添付資料集
1.はじめに
水俣病事件に対して水俣市がとってきた姿勢・対応を資料収集し、時系列で整理しその主な事柄の特徴と概要をまとめる。水俣病事件は日本全体を揺るがしたと言っても過言ではない。そしていまなお、事件としての解決や展望について、全体的な了解が得られたということになっていない。
ここでは水俣病事件の全貌は未だ明らかになっておらず、医学的・社会的・政治的にも総てが確定した事実とはいえない状態であることを前提とする。初期には漁業補償が中心となり、その後は水俣病患者の補償要求運動が中心となってきた。そしてそうした動きに促されたり・反対したり・同調したりすることによって、水俣病事件が被害者と加害者の問題に収まらず、社会的な公害問題となり、現在では環境問題までと展開している。
これらの構造のなかで、独立的な行政単位とはいえひとつの市の対応を、政治的・社会的な行政責任論だけで語ることは不可能ではないだろうが、この報告では主眼としない。責任という言葉ひとつをとっても、庶民の言葉としての責任と行政の言葉としての責任では、大きく異なっているだろう。そういう意味でこの報告では、事実を巡ってのそうしたズレや、それが相互の感情や態度をエスカレートさせてゆくことを見てゆくものである。もちろん個々の事実に対して、水俣市・市議会等の対応や発言は収集し一定の評価を加える。
一つ注意しておきたいのは、現時点から見て不当なこと・妥当なことという評価をもって、当時の事実に対する評価にはしないということ。これではせいぜい「れば・たら」式の反省をもたらすだけであって、現在を生きて動いている水俣市・市民・患者等の指針とはなりえないからである。
こうした資料収集の視点だとしても、水俣病事件に関わってきた水俣市・市議会および市役所職員にとっては、決して聞き易い叙述ではなく批判的なものに受けとめられるだろう。それは水俣病事件の構造が先に述べたように、被害者・加害者の対立と補償問題であったことによって、関係者を敵・味方の二項対立的図式に当てはめて動いてきたからである。こうしたことの背後には「行政は住民の幸せを最大限に保証するものでなくてはならない」という極めてプリミティブではあるが素朴な感情があり、行政への期待と裏腹をなしている。
水俣病事件をめぐるそれぞれの当事者が生存しており、残っている問題もあるということから、この報告の位置は客観的なものではなく、現時点で、ひとつの見方から収集・整理されたものである。現時点での水俣市の水俣病事件への取組が、広く社会的に「水俣病の教訓」を伝え人間の幸せにつながっていくか、はたまた行政的な危機管理の成功例に収まるか定かではない。水俣病事件の本質がなにであったかは重要なことだが、それを確定して行動をおこすというのではなく、水俣病事件を考え続けていくという視点で行動を起こすことによって、水俣病事件の本質が見えてくると考えたい。
2.報告の概要
時系列として対象としたのは、1908年チッソが水俣村に進出した時から1990年までである。
水俣病ということで言えば、1956年5月1日の公式確認以降であろう。しかし、それまでのチッソと水俣市の関係を見ておくことは、日本の近代化や企業城下町の形成を前提として水俣病事件が起きたと考えるならば、必要不可欠である。よって1908年~1990年を次のように六つに分けて作業する。
作業の中心は水俣病事件に対しての水俣市の対応であるが、ある程度は主要な水俣病事件の歴史を追っていく。また行政機関としては、水俣市単独の行動を見ることは難しく、熊本県・国(主に厚生省・通産省、後には環境庁)との関連を考える必要があるが、これらの点は作業量が膨大になるので最小限にとどめた。
①1908年~1956年「水俣病前史」
水俣にチッソが進出して以降、土地・水利権・港湾・公有水面埋立・海の汚染・アセトアルデヒドの生産・空襲・朝鮮チッソからの引き揚げ・猫おどり病・奇病等のファクターで、企業城下町の形成と行政の関係を見ていく。
日本の近代化という視点からすれば、江戸時代以来の村落共同体を色濃く残す不知火海の寒村に、巨大な近代企業が出現することによって、新しい秩序が形成されることを意味する。この時代を作業に入れた大きな理由は、フォルクロアとしての水俣を懐古するというのではなく、近代化のなかで無くしたもの・得たものの収支決算をすることによって、こんにち曲がり角をむかえている西欧型近代化を、再点検する契機になりうると考えたからである。
②1956年5月~1959年12月「原因究明期」
この時代の主要なテーマは原因究明である。「奇病」が発見された時の住民不安に対応している水俣市の対応と、原因物質がある種の有機水銀であると評価が固まっていく段階からの水俣市の対応の変化が特筆すべき点である。事件へのチッソの関与が明らかになるにつれ、水俣市・市議会での原因追求がトーンダウンし、ドンドンとチッソ擁護の決議・発言が見られるようになる。
最初は患者よりも漁民が当事者として躍り出ていた。この段階は調停案によって収束する。患者互助会と結ばれた見舞金契約が象徴的。この時代は水俣市も、良きに付け悪しきに付け積極的な関与が見られる。
③1960年~1968年1月「空白期」
医学的にはほぼ原因究明がなされたが社会化されず、補償金・見舞金で漁民・患者は救済されたことになった。漁民闘争での一方での補償、他方での逮捕・起訴によって、漁民は不知火海を以前のような海にする力量を失っていく。サイクレーターによって水銀汚染は終わったとされたが、実際にはこの後も有機水銀の排出は続く。小児マヒとされていた胎児性水俣病が証明される。次の時代に続く新潟水俣病の発見。
また直接水俣病事件とは関係がないが、チッソでの大闘争・安賃争議が起きる。街を二分した争議は、雇用関係のみならず住民の生活に直接の影響を与える。59年不知火海漁民闘争と反安賃闘争は、55年以来の高度成長日本にとって農民・漁民・労働者の分解と再編の象徴であったとも言える。
この時代は名前が示す通り政治的には空白に等しい。しかし患者たちにとっては言うに言えない痛恨の期間であった。このズレが後に「怨」の旗に表現されたような、水俣病患者の被害補償で満足できない心性を形成することになる。
④1968年1月~1973年7月「責任追求期」
水俣病対策市民会議が結成される。チッソのアセトアルデヒド工程は操業停止する。それを待っていたかのごとく、68年9月に「水俣病の原因はチッソの排水」と国による正式見解が出される。これを巡って患者互助会は激しく議論し分裂する。大部分は国に一任し、少数はチッソを相手に損害賠償を提訴する。また市民や市当局の間では、こうした混乱に対して病名変更の市民運動が起きる。背景には反安定賃金闘争のような市民分裂を避けようとしながらも、患者運動を排除する方向で動く。この時代の対立は患者対チッソが主なものであった。
⑤1973年7月~1978年7月「認定問題期」
認定=協定書というシステムが完成するが、認定申請する患者とチッソ倒産を回避しようとする行政の間での対立が激化する。この時代は患者対チッソという対立ではなく、患者対行政(熊本県・国)という対立が浮かび上がる。水俣市は認定に対しては権限もなかったが、積極的に住民としての患者の側に立つことはなかった。前期から引き続いている病名変更市民運動が、水俣市も巻き込んで「水俣病名改称のための実態調査」や「署名運動」になっていく。また水俣湾の埋め立て・ヘドロ処理を巡っても、市民対患者・支援者の対立が起きる。
⑥1978年7月~90年3月
この時代は県債発行をにらんだ新次官通知で開く。これによってチッソ・県・国の間の利害関係は調整される。これ以降多くの訴訟が提起されるが、いわゆる被告の基本方針に影響は及ぼさない。主要なテーマは「軽症患者の救済」となる。運動主体の力量が低下する一方で、新しい動きとしての不知火海調査団・水俣生活学校・水俣大学・水俣病歴史考証館・市立資料館・環境創造みなまたの企画等が登場する。つまり水俣病事件が当事者間の争いごとではなく、社会問題に普遍化されていることを表している。実際的な争点としても未認定患者救済-「和解」は残っているが、社会的には「水俣病の教訓」をいかにして実現していくのかが重要となっている。
3.凡例
(1)用語の統一
同じ意味の用語はできるだけ統一した。
○日本窒素肥料株式会社→新日本窒素肥料株式会社→チッソ株式会社は、通常の使用では「チッソ」としてある。
○現在はチッソ水俣工場は、チッソ株式会社水俣製造所である。これも時代を通じて「チッソ水俣工場」と略している。
○正式には反安定賃金闘争であるが「安賃闘争」と略している。
○1969年に提訴された熊本水俣病損害賠償請求裁判は「一次訴訟」と略してある。
(2)註について
本文中に(註○○)とあるものは、その章の最後に番号順に一覧してある。さらに手に入り難い資料については、巻末にその資料を各章番号と註番号を下部中央につけて添付してある。なおその場合は註の最後に(資料○ー○○)と記載してある。
(3)文中の人名は基本的に敬称を略した(引用文はその限りにあらず)。
【水俣病前史】
(一)この時代の概要
水俣は熊本県の最南端に位置する。水俣周辺には縄文時代より人が住み数多くの遺跡が残された。文献上は延喜式(905年)に地名が見えるのが最初という。近世に至ると肥後、薩摩の国境に接し、軍事的にも要衝の地となった。また近代にはいると、最後の内戦となった西南戦争で戦火に見舞われている。
地理的には九州の西海岸にあり、天草諸島によって形成される内海、不知火海に面し、古くより港が開かれている。陸路は山に閉ざされていたため、交通の手段としては船による海上ルートが一般的であり、かつては沖縄など琉球諸島などとも交易があったことが指摘されている。
チッソ進出以前の水俣における産業としては、およそ250年間続いたといわれる製塩業、背後に控える山地よりの木材の移出などがあった。水俣川の下流では、木材、竹材、木炭などを搬出する船でにぎわい、また内陸の牛尾金山へ石炭を輸送する荷馬車業が栄えていた。「水俣市史」によると、1898年当時、村戸数2543、商業379、工業222、飲食店27、漁業84となっており、残りは農業と考えられるが、その頃から月浦一帯でみかん園、山手に茶園が増反されている。
また水俣周辺は、不知火海東岸としては変化に富んだリアス式海岸を有し、山が海岸線まで迫っており平坦地の少ないところである。特に水俣湾は恋路島、明神崎にはばまれた二重構造の内湾を形成しており、冬でも季節風が遮られ穏やかな海である。湾内には至る所に漁礁である瀬や藻場が点在し海岸線にはうっそうと茂道松が茂っていたという。そのためイワシやアジ、タイなどの回遊魚の産卵場となっていた。また海岸線の浜では海藻や貝類が豊富であった。そのため規模は小さいが好漁場を形成し、海との付き合いの深い地であった。
こうした村に1908年(明治41年)、日本カーバイド商会(後のチッソ)が進出した。当初は漁業用のカーバイドを生産する工場として、資本金100万円で発足している。チッソが水俣に進出してから水俣病が公式に発見されるまでの時期を大別すると次のようになる。
まずチッソが水俣に進出以後、第一次世界大戦勃発(1914)までの時期である。この時期はまだまだチッソの事業は確固たるものにはなっておらず、経営も不安定な時期である。事業化した石灰窒素も販売が思わしくなく、一時は三菱資本下に従属したり、鉄道院に工場を買収してもらい、それを借り受ける形で事業を継続したりしている。この時期はまだまだ旧水俣の地主支配層との軋轢も多く、チッソの事業活動に対して間接的な妨害なども見られ、一般住民の間でもチッソに対する感情もまだまだ冷たいものがあった。
次に第一次大戦の頃から第二次世界大戦の敗戦までの時期である。第一次世界大戦によって輸入が途絶え国内硫安の価格が高騰したことにより、チッソは空前の好景気の下、資本の蓄積を果たしていく。18年には旧塩田跡地を買収し、新工場を建設した。20年には資本金は2200万円まで増額され、「10割4分の配当を行い・・・一斉に金時計組が増え・・・半期間で資本金の全額をもうけたという狂気じみた景気であった」(註1)。その後も資本金を拡大すると共に、発電所の新設、新特許の買収による事業の拡大を続け、26年には年産7万トンの合成硫安を製造し、日本の全生産量の過半数のシェアを占めるに至る。こうしてチッソは日本有数の肥料会社としての地位を確立した。こうした発展の背景には、富国強兵という農業の近代化に必要な大量の窒素肥料生産という国家的要請があったことも忘れてはならない。
この時期20年代以降は社宅の整備、港湾の改修、会社診療所の開設、消費組合水光社の設立など会社設備をつぎつぎと整備すると同時に、水俣川の水利権取得、百間薮佐地先の埋立権の取得、工場用地の買収など次々と水俣の社会資本を支配下におさめていった。25年にはチッソ出身の町長や町議が誕生するなど、水俣の行政への直接の進出が始まったのもこの時期である。
またこの時期、アセチレン有機合成化学の分野への進出も始まった。32年にはアセチレン有機合成の要に位置するアセトアルデヒド・酢酸製造工程を自力で確立し、それ以降酢酸の合成、無水酢酸、酢酸ビニル、酢酸繊維素、酢酸エチル、酢酸スフ、アセトン、ブタノールなど化学合成品を次々と製品化していった。41年には日本で初めてアセチレンから塩化ビニールを製造することにも成功している。このアセトアルデヒド、塩化ビニールの製造過程において触媒として使用された水銀が、後に水俣病を引き起こすことになる。こうして確立された技術は、朝鮮における興南工場で大規模な生産に移されていった。
さらにこの時期から軍部と結びつき植民地朝鮮への進出を開始し、より国策企業としての様相を強めていく。1910年、日本は韓国を併合して植民地とし、朝鮮総督府をおいて朝鮮人を支配した。総督府の庇護のもと、日本からも数多くの企業が朝鮮に進出している。事業欲に燃えるチッソは、国内における電源開発の技術を買われたこともあり、朝鮮への進出を強力に押し進めていく。以後チッソは朝鮮総督府の権力を背景に住民を追い払い、警察権力の後ろ盾で土地買収を進め、当時総合化学工場としては東洋一の規模の興南工場を建設している。こうした進出の背景には、土地買収の際代替地や金銭買収についての約束の不履行、ダム工事などの難事業に多くの朝鮮人や中国人を動員し、多数の犠牲者を出すなどしている。植民地における事業のやり方は、戦後の水俣における事業経営の中にも色濃く受け継がれていくことになる。
チッソの企業としての地位の確立は、水俣におけるチッソの社会的地位も向上させていった。それまで「会社勧進・道官員」という言葉に象徴されるようなチッソ従業員の低い位置が、「会社行き」というより高い位置へ変化していくのもこの時期である。チッソへ勤めることが一つのステータスとなり、名誉になっていくのである。
敗戦から1956年までの時期は、戦災からの復興期である。敗戦まぎわの45年3月から7月にかけ、水俣工場は数回にわたる爆撃で壊滅的な被害を受けた。敗戦後は、財閥解体の対象となり、チッソは水俣工場を唯一の工場として再出発する。同時に全体の8割に及ぶ海外資産を全て失った。
戦後復興にあたっては、政府の全面的な支援を受け、45年10月には硫安、12月にカーバイド、翌46年2月酢酸、同年8月に硝酸というように早々と生産を再開している。その後生産技術の改良、刷新を行い、年々生産規模の拡大を果たしていった。50年資本金4億円だったチッソは、5年後には3倍の12億円まで増資している。こうした復興の背景には朝鮮戦争による特需景気も大きかった。
当時塩化ビニールの成型に不可欠な可塑剤DOPの原料となるオクタノールは輸入に頼るしかなかった。チッソは戦前軍部の要請で航空燃料イソオクタンを製造した技術を利用して、52年アセトアルデヒドからオクタノールを誘導するのに成功している。その後DOPも製品化して市場を独占することになった。こうした技術の開発に支えられ、需要を賄いきれないような状態で増産に増産を重ねていく。54年にはすでにアセトアルデヒドの生産は戦前のピークを上回っており、急速に総合化学工場としての地位を確立していった。
50年には元水俣工場長を務めた橋本彦七が水俣市長に当選した。この時期はまさにチッソの水俣における政治的、経済的支配が確立した時期でもある。
(二)主な出来事
(1)チッソの進出
1906年(明治39年)野口遵は鹿児島県大口村にチッソの前身である電力会社「曽木発電」を創設した。この会社は近くの鹿児島県大口村の牛尾金山へ電力を供給するためのものであった。当時牛尾金山の動力源は石炭であり、水俣港から水揚げされた石炭を金山まで輸送する馬車引きが、水俣にはかなり存在していた。ところが金山の動力が曽木発電にとって変わってしまったために、これらの馬車引きは全て廃業に追いやられてしまった。
また水俣は250年もの間優良な塩を生産することで知られ、その多くは島原方面に移出され、主にソーメンの製造に使われていた。水俣市史によると、チッソの進出以前の水俣の主要な産業のひとつであり、近在の農家の数少ない現金収入の副業でもあった。当時塩田は34町余り、年間数万俵(1斗俵)が製造されており、近在の農家約200余軒の人々が従事していた。ところが1905年の塩の専売制移行、10年の塩専売所水俣出張所の廃止により、水俣の製塩業も全て廃業に追い込まれることになる。
これらのことは当時の水俣の人々にとって、非常に危機的なこととして映っていたであろうことは想像に難くない。特に有力支配層にとっては「水俣村は一村流亡の淵に立っとった」(註2)のであり、「もし(チッソが)来なかったら、そのとき水俣がどうなっとったかということは、われわれにゃ想像できんですな」(註3)という述懐が出てくるほど水俣の展望が見えてこない状態であった。そうした状況の中で曽木電気の余剰電力を利用した新工場の建設という話しが持ち上がったとき、その工場を誘致しようという野心に燃える者が出てきたことは、むしろ自然ともいえる。
当時水俣村の有力地主であった前田永喜は、対立候補の米ノ津より発電所から8キロ遠い分の電柱と電線は負担する、港は直ちに改築する、土地が相場より高値なら村が負担する、ということを条件に、村の有志とともに積極的な誘致工作を展開した。前田は設立時のチッソの事務所として、自宅まで提供するという熱のいれようだった。「前田永喜が噂を聞いて帰ってきて、村長と助役、議員の何人か寄せて話し合って、10人ばっかり曽木の野口さんの所に何べんか行ってですな、是非、水俣につくってくれと言うふうにして、あの旧工場は出来たっです」(註4)。この誘致工作が功を奏し、チッソの水俣に進出が決まった。
ただ、水俣進出当初からチッソが水俣の人々全体に歓迎されたわけではない。「ガス会社」(註5)と呼ばれたチッソは、水俣の住民にとっては得体の知れない存在であった。「一日一人死ぬげなという評判でな。なかなか敬遠しとったわけですね。もう恐ろしがってね」(註6)。そうしたチッソに勤める者を人々は「会社勧進、道官員」(註7)と呼んで軽蔑していた。「会社行きは人間の外やった」(註8)のであり、「会社は生活の困った人のいくところ」(註9)であった。
また深水や緒方をはじめとする旧地主層の多くは、それまでの水俣における支配秩序への影響を恐れ、工場の進出には反発していた。「村の地主たちは、反対ばかりたい。村の非常に有力な人間は、反対やった。・・・電柱をたてさせんという者も多かったですばい」(註10)。
そのチッソが水俣における地域支配を確立したのは、第一次世界大戦による硫安等の肥料の高騰による資本の蓄積を果たし、次々と新技術を導入して工場を拡張していった昭和初期までの間である。この時期、日本が植民地化した朝鮮に進出していったチッソは、当時の軍部と密接に結びつき、国策企業としての地位も確立していく。反対に、後に水俣町長を務める深水吉毅以外の旧地主層が、経済的に没落していったのもこの時期である。
1918年(大正7年)新工場完成。石灰窒素、変成硫安を一貫製造開始。
21年カザレー式アンモニア合成技術の特許権取得。
26年朝鮮水電設立。植民地朝鮮へ進出。
27年カザレー法による合成硫安製造開始。
朝鮮チッソ肥料の設立。
29年日本ベンベルグ絹糸設立。
32年アセトアルデヒド合成酢酸製造開始。 (註11)
この間チッソは資本金も1000万から9000万円に増額している。これ以降、チッソは水俣における社会的地位を急速に向上させていく。それに伴い「会社行き」という言葉に象徴されるように、チッソに勤めることが水俣での一つのエリート意識になっていった。「私共より二つ三つ多い者は、やっぱり『大百姓の財産持っとらす所がよか』ていいよりました。私共が時代になってから、『財産持ちより、会社に行くところがよか』て、こういうふうになりましたですたい」(註12)という言葉からもうかがえるように、チッソに雇用されることが、賃労働者として評価されるようになった。
1925年にはチッソは水俣町行政内部へも直接進出を始めた。この年、元チッソ工場社員であった坂根次郎が町長に当選しており、他に工場長岩橋勇他6名の元従業員が町議に当選した。この後28年から50年までは深水吉毅など旧地主系の町長、市長が続くが、50年には再び元チッソ工場長であり、水俣工場における合成酢酸工程の技術を確立した橋本彦七が市長に当選している。
ただ橋本は戦後の水俣工場では冷遇されていたようで、それまでチッソが指示していた保守系派閥ではなく革新系から立候補しており、その選挙戦ではチッソの妨害もあった(註13)。それにも関わらず、橋本市政では、後に述べる港湾の整備、貿易港の指定、また水俣病公式確認以降のチッソ擁護の姿勢など、他の市長同様チッソに多大な便宜を図っていることに変わりはない。このことは政治における左右を問わず「チッソの発展こそが水俣市の発展である」という図式が貫徹されていったことをうかがわせる。
(2)チッソの社会資本の支配
チッソは水俣への進出、事業の拡大に伴い、水俣における社会資本を次々とその支配下におさめていった。チッソが水俣において取得した社会資本としては工場用地、工場用水、港湾、都市機能の整備などがあげられる。これらはいずれも水俣の住民の生活にも深く関連しており、水俣市の対応抜きにはその取得は考えられない。以下そうした経緯を個別に見ていく。
①工場用地
工場の進出にとって先ず課題になるのは用地の確保である。前項でも述べたようにチッソの水俣進出の際は、前田永喜より氏所有の低廉な用地の提供を受けている。この後次々と所有地を拡大していく。
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・チッソが ・地籍簿の ・ 地籍簿の ・ 備考 ・
・取得した ・最初の記録 ・ 最後の記録 ・ ・
・年と売主 ・ ・ ・ ・
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・1916年・徳富喜一郎 ・ 9568㎡ ・1925年、無届開墾・
・竹井大五郎・塩田 ・ ・成功により地価修正 ・
・ ・615㎡ ・ ・合筆、野口町93番地・
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・1930年・菊池武夫 ・ 1934年 ・野口町9,11番地 ・
・菊池武夫 ・水田 ・ 地目変更、雑種地・ ・
・ ・944㎡ ・ 1596㎡ ・ ・
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・1942年・緒方惟規 ・ 1948年 ・野口町1番地 ・
・深水吉毅 ・水田 ・ 地目変更、宅地 ・ ・
・ ・1210㎡ ・ 3107㎡ ・ ・
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・1944年・坂本久平 ・ 1948年 ・野口町16,17番地・
・執行種文 ・徳富長範 ・ 地目変更、宅地 ・ ・
・ ・海浜、水田 ・ 3266㎡ ・ ・
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・1945年・緒方惟規 ・ 1948年 ・野口町2,4~7番地・
・深水吉毅 ・水田、畑 ・ 地目変更、宅地 ・ ・
・ ・4930㎡ ・ 13504㎡ ・ ・
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・同年 ・緒方惟規 ・ 1948年 ・野口町 8,10, ・
・菊池 ・海浜、水田 ・ 地目変更、宅地 ・15番地 ・
・ ・3870㎡ ・ 5725㎡ ・ ・
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・同年 ・徳富太平 ・ 1948年 ・野口町22番地 ・
・徳富辰雄 ・水田 ・ 地目変更、宅地 ・ ・
・ ・1727㎡ ・ 5108㎡ ・ ・
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・1946年・緒方惟規 ・ 1948年 ・野口町3番地 ・
・深水吉毅 ・畑 ・ 地目変更、宅地 ・ ・
・ ・1545㎡ ・ 2452㎡ ・ ・
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(註14)
以上の土地は、現在の工場がある野口町にあたるところで、チッソが工場の拡張に伴い用地を次々と取得していったことがよくうかがえる。そのほとんどはもと塩田か干潟であった場所であり、最初の持ち主の多くは、旧地主層である。一連の土地の取得に関しては、不知火海調査団・小島麗逸の調査が詳しい。
「1944年9月から翌1945年5月までの間に、実に27855平方メートル」がチッソの所有に転じている。「1944年9月といえば、戦局は悪化をたどり・・・当時青壮年男子はほとんど徴兵に遭い、水田耕作も銃後の女、子どもに依存していた。その上、工場めがけて空襲がある。工場周辺の水田の地価は・・・おそらく低下していたに違いない」(註15)。軍部による土地の強制取得の可能性など、より詳しい調査の必要性が指摘されているが、いずれにしても戦争の混乱に乗じた土地の取得の可能性が高い。
また、いずれの土地に関しても、地積簿に最初登録された際の面積と、チッソが取得した以後での面積との間に大幅な食い違いがあることが指摘されている。例えば「野口町93番地の場合は、1893年4月に徳富喜一郎が塩田616.5平方メートルを登記。その後・・・1916年2月、チッソ会社へ売却された」が「1925年6月30日付で、無届け開墾成功により地価修正」、「1934年にいくつかの筆が合筆」という経緯を経て「1965年4月現在、総面積9568平方メートル」(註16)となっている。
この経緯はどう解釈されるのか。「60アール余から1000アール余へどうして増加したのか。無届開墾と地積簿に記載されているくらいであるから、おそらく、アシ、ヨシの原野を勝手に埋め立てたり、隣接する山を削ったりして拡げたのであろう。政府はこれを追認した。ほぼ1ヘクタールの工場用地を無償で手に入れた可能性が浮かび上がる」(註17)。他の土地も程度の差はあるが、同様な経緯をたどって、チッソの所有になった可能性の大きいことがうかがわれる。
問題はそうした低廉な土地取得に関して、行政としての水俣市(水俣町)がどのように関わってきたかという事である。チッソは終戦まぎわの44年から45年にかけて、かなりの部分を取得しているが、その多くは、当時の水俣町長・深水吉毅の土地である。当の深水はそれらの土地を42年に取得しており「深水の土地取得は、明確にチッソ会社への譲渡を目的としたもの」(註18)と考えられる。
「深水が個人でそれを行ったのか、それとも町長として行ったのか。町長名義で行ったのなら、明らかに行政がチッソ会社の土地取得に便宜をはかったことになる」(註19)わけだが、たとえ個人で行ったにせよ、当時の深水の水俣での影響力、市政における地位の大きさを考慮すれば、そうした行為がチッソの便宜を優先する水俣行政の姿勢を代弁していたといってよいだろう。
32年「工場拡張はそのまま町発展の基礎強化に通じるものとして、新工場敷地36600平方メートルの買収費16000円を可決日窒に贈った」(註20)ことからも、当時の水俣町がチッソの用地取得に関して積極的に関わっていたことをうかがわせる。
またチッソの所有地拡大のもう一つの特徴として、海浜の埋め立てという要素が大きい。チッソは水俣漁協との漁業紛争の度に水俣湾周辺の地先の埋立権を取得していっている。
1926年6月、チッソは水俣百間薮佐地先の埋立権を取得したのをはじめとして、次々と埋め立てを行いその所有地を拡大していく。これらの埋め立てには、主としてチッソのカーバイド部門で発生する産業廃棄物が使われた。
51年8月、水俣漁協の財政窮乏に対して50万円を貸し付ける代償として、水俣漁協の地先漁業権内でチッソが将来埋め立てを計画するときは、組合は優先的にこれを認めるなどの覚書(註21)が交わされた。
54年7月、毎年40万円を工場汚悪水の代償として支払うことを決めた際、2000坪を漁協に払い下げることを条件に、八幡地区18000坪、明神崎23800坪の埋立を認める覚書(註22)が交わされた。
公有水面の埋め立てに関しては、機関委任されている県は地元市町村に意見を求める諮問を行わなければならない。水俣における埋め立てに関しても、チッソからの免許の申請があった場合、県知事より水俣市に対して諮問が行われていたはずである。残念ながら水俣市において51年以前の議会録の不備もあり、それ以前の県からの埋め立ての諮問に対して、どのような審議を行ったかは明かではない。しかし戦前においても、すでにチッソは百間地先などに埋立地を所有しており、こうした埋め立てが、市議会において認められてきたことは間違いない。52年及び54年の市議会においては、「会社の発展になることだし、ひいては水俣市の発展繁栄」につながるものとして、諮問通り無条件に答申(註23)(註24)が行われている。
②港湾
チッソは操業以来カーバイド、化学肥料、各種有機化合物と、その守備範囲をどんどん拡大していったが、その原材料の移入(輸入)、及び移出(輸出)には当初から海運が重要な位置にあった。工場の進出の際も、良港があるという理由で、最初は鹿児島県の米ノ津がその候補に挙がっていた。そのため水俣港(梅戸港・百間港)の整備はチッソの事業活動の継続・発展のためには最優先課題とも言えるものであった。
1916年には、チッソ専用港として梅戸港が修築されており、梅戸港までの新道路が建設されている。その梅戸港は今日までチッソ専用港として使われている。
百間港の方は、32年荷揚場等の整備が県の事業として着手され、37年には水深6.5メートル、接岸740メートルの港に整備された。ところがせっかくの整備された港も、「その後新日窒水俣工場から流れ出るカーバイド滓によって構内は次第に埋まり、せっかくの港も利用できない状況」(註25)となる。
49年から52年にかけては、県の事業として大規模な浚渫が行われ、23万立方メートル余の土砂が浚渫された。約3300万円の事業費が投入され、水俣市も地元行政として工費を負担している。チッソという私企業が流した産業廃棄物によって港が使用不能になったのであるから、本来ならばチッソにその原状回復の義務があると考えるのが常識である。ところがそうはならなかった。52年、水俣漁協の要請で、チッソの廃水調査に赴いていた三好礼治技師は、次のように報告している。「実施に当たり地元負担金を工場側の責任として醵出を求めたが、終戦前の工場長が現市長であり、終戦前工場はこの百間港に多くを排泄していない。自然的な堆積として主張したことから、工事に当たり実地に土質の調査をしたにも拘わらず工場側は負担金に応ぜず、市負担として始めた」(註26)。
ところで当時の水俣市は「独立日本の裏付は民政の安定と経済自立が最も堅要であります、願はくば水俣港の現況と地元民の熱願とを御賢察賜はり当地方産業進展のため」(註27)として、水俣港(百間港・梅戸港)の貿易港指定を熊本県、チッソと共に強力に国に働きかけていた。指定は55年5月1日に実現し「水俣は世界の港につながる県南地区の海の大玄関を持つことになり、広汎な産業後背地を持つ市の将来は、これら背後地の産業開発と、これを活用することによって洋々たる希望と躍進が約束付けられた」(註28)と、全市をあげた祝賀ムードとなった。現在の恋龍祭は、この開港指定を祝って始められたものである。
しかしこの開港は、他ならぬチッソのためのものであった。市長の橋本彦七は議会で、「日本窒素の方で硫燐安の製造を開始するということになりますと、・・・貿易港の指定が必要になります。今までは、まず既存の貿易港に入港していろいろな手続きをしたが、貿易港になりますと直接船が入ってくることになります。その間のいろいろな時間のロスとか、あるいは運賃とかいうものが格安になるわけであります」(註29)と答弁しており、この開港が窒素の事業を支援するものであることを明言していた。実際この当時、水俣港から輸出入される品目の99%までが、チッソの関連貨物であり、指定により利益を受けるのはチッソのみであったといってよい。
後の60年の重要港湾指定もそうであるが、こうした指定を受けるには、港湾の整備は不可欠である。ところが52年にかけて浚渫を行った百間港が、再びチッソのカーバイド残滓で埋まってしまい、船の接岸にも支障を来すようになってしまった。そのため水俣市は「これに何らかの施策を講ぜない限り・・・地方産業の振興に重大なる影響をおよぼす」(註30)として、再度水俣港の修築事業を熊本県に働きかけていく。それを受け、日本港湾協会水俣港修築計画委員会のメンバーが現地調査を行った結果、次のような改修計画(註31)が立案されている。
それによると、水俣湾内は徹底的に浚渫を行い、その浚渫泥土で明神地先に16万4000平方メートル、三年ケ浦側に6万5000平方メートルの埋め立て地を造成する。接岸護岸を整備、水深を6.5メートルとし、1万トン級の船舶も入港可能にする。その工費は6億5000万円という大計画である。
しかしこの事業も、本来港が使用不能になったのはチッソの排水した産業廃棄物によるものであること、また改修によって恩恵を受けるのはチッソであった点を考えると、何とチッソに篤い施策であるかということが理解できよう。
③工場用水
チッソの水俣川の取水権は日量17万トンといわれている。水俣川の低水量は12万トンであるから、これ以外の取水権の割り込む余地はない。ただしチッソの水俣川取水能力は3000トン毎時であるから、実際の取水量に比べ格段の余裕を持った権益が設定されていることになる。
この用水に関するチッソの権益が水俣市の水道事業に与える影響は大きい。55年(昭和30年)は水俣市の人口がピークに達した年である。そのため「梅戸港の船舶給水も月と共に需要量が上昇、加えて人口の増加と給水区域の拡張によって市の水源地拡張は必死の状況に追い込まれた」(註32)。この時の拡張工事で市の水道の給水能力は5000トンから9000トンに引き上げられたが、「起債獲得や地下水調査などに苦難の道をたどりながら工事を進め、・・・2662万円の工費を要している」(註33)という大事業になっている。この工事の際、伏流水の取水点がチッソの取水点より上流にあったために、拡張によって会社用水に支障を来さないようにするという内容の覚え書きが交わされたことが、市の水道局の緒言で明らかになっている(註34)。
水俣市は水俣川という「豊富な水資源を持ちながら、水利権問題により高い工事費による水道料金の引き上げに耐えてきた」(註35)。
これはチッソの側からすると、こうした市が負担する経費に関係なく工場用水が取水できることは、大幅な経費が削減できることになった。55年当時でチッソの用水取水量は1時間3000トンであり、日量7万2000トンに及ぶ。当時の水俣市全体の水道使用量が、1日平均3700トンであるから、ちょうど19倍の量を取水していたことになる。「これをもし水道料金に計算すれば驚くなかれ月額800万円ということになる」(註36)。
またこうした水利権の独占ともいえる状態は、単に市民の生活に直接の不利益を及ぼすということにとどまらない。後に八幡地区に進出した新日本化学㈱はチッソより用水の供給を受けることになるが、そのためにチッソへその使用料を払わねばならず、「1トン当たり3.5円(ただし、回収水は1トン当たり1円)」(註37)を負担している。もし新たに他の企業が水俣に進出ようとした場合、こうした権益の独占が支障になることは容易に想像できる。
④都市機能
水俣のその地形のせいもあり、従来よりたびたび洪水に見舞われていた。特に1923年(大正12年)の大洪水の際は水俣工場も被害にあい、工場内の硫安が流出している。32年(昭和7年)から34年(昭和9年)にかけては水俣川改修、および八幡河口の埋め立てが開始された。こうした都市機能の整備は、チッソの事業活動にとっての産業基盤の整備という性格ももっていた。
この頃は世界的な不況の嵐がふきあれた頃で、この事業自体も水俣町の失業対策の要素も合わせ持っていた。とはいえ、総工費50万余円の大工事がこの時期に実現したことは、背景にチッソの事業拡大に伴う税収増に支えられた町財政があった。事実工事の途中で、事業主体の熊本県は工事計画の縮小を持ち出すが、水俣町は町の負担金の増額を行い、予定通り工事を終えている。当時の町財政は「相次ぐ日窒工場の拡張増産による営業収益付加税の増収と、・・・黄金時代であった」(註38)。これに支えられ、この時期には他にも上水道新設工事、百間港改修工事など公共事業が目白押しとなる。これは言い換えれば、こうした産業基盤の整備はチッソの事業拡大にとっても必要不可欠なものであった。
(3)海の汚染
チッソが、自分の工場から排出する廃水に対する考え方を示す、興味ある発言がある。55年の工場新聞において、「ちっそ」というコラムの中で次のように述べられている。「水俣工場の周囲は2間幅の溝で巡らされ、人の摂取された水が小便になって排出される様に工場で御用務めを終へた水はこの溝を通ってどんどん百間港に放出されている」(註39)。コラムの中のちょっとした記事ではあるが、当時の工場廃水に対する考え方を象徴している。すでに工場廃水によって、地元漁民などと紛争を繰り返していた55年においてそうであるから、それ以前に関しては何をか云わんやである。
1908年の操業以来、チッソは工場排水をほとんど無処理で水俣湾、不知火海に放流してきた。水俣病の直接の原因となるメチル水廃液を流し始めたのは32年以降であるが、それ以前にも、カーバイド廃液による海の汚染は顕在化してきており、水俣工場の拡大に伴って、水俣湾周辺の汚染が徐々に深刻化していくことになる。それに伴い、たびたび地元漁民・住民などと軋轢を生じさせていった。すでに25年には、チッソと漁協との間の最初の紛争が起こっており、その後もしばしば交渉がもたれている。以下、56年までのチッソと水俣漁協との被害補償紛争を整理すると次のものがある。
1926年 水俣漁協はチッソと補償要求を取り下げ法廷でも争わないという一札を入れ「当今漁業組合は其の基本も真に困窮」しているので寄付をお願いするという形で1500円で和解している。さらに「この問題に対して永久に苦情を申し出ざる事」という条件付きであった(註40)。
1943年 工場廃水による漁業被害補償問題が再燃した。その際もチッソは 漁協に対し、過去・将来永久の漁業被害補償金として15万円を支払っている(註41)。
1951年 水俣漁協は財政窮乏を訴え、チッソより50万円を借り受けた。 同時に覚え書きとして水俣工場の廃水による害毒に対して一切異議を申し立てないこと、水俣漁協の所有する漁場内で将来チッソが埋立計画を実施する ときは優先的に承諾することを認めさせている(註42)。
1954年 チッソ水俣工場は、工場の廃水を漁場に放流することに対して年間40万円を支払う契約を取り交わしている。その際も、それ以後の漁協の一切の要求の放棄、将来チッソの埋め立て計画に対してはそれを承諾することを認めさせている(註43)。
当時水俣漁協の歴代の組合長は漁業関係者ではなく、町の行政に関わる有力者が歴任している。ただそうしたこと自体は特に水俣に固有ということではない。「漁協の主たる役割は、漁獲物の保管、加工、販売などの事業、資金の貸し付け、・・・漁場の管理運営などにある。だが、それだけでなく、本来漁業権の管理団体的な性格を強くもっているため、必然的に地方行政や政治と密接な関係をつくりやすい。漁協が地方の有力者や県会議員、市町村議員と癒着しやすく、・・・漁業者でない地方名士や有力者が組合長になっている例が少なくない」(註44)のである。
しかし水俣の場合、チッソの発展こそが水俣市の発展につながるという行政の立場と、本来漁民の利益を代表する立場に立つはずの組合長を同一の人物が兼ねることになる。ゆえに紛争の解決の度に、「チッソの事業の発展が水俣市民の繁栄と幸福」につながることが強調され、いずれの補償紛争もチッソにとって有利な立場で決着されている。26年水俣漁協に支払った補償金1500円などは、21年カザレー式アンモニア合成技術の特許を100万円も出して購入した会社としては驚くほど低額である。
43年の補償交渉の際は、漁業組合長という交渉の先頭に立つ深水吉毅自身が、町長という立会人という立場も兼ねることとなり、結局交渉においては「水俣工場が・・・水俣町の繁栄の為に重要性あることを認識し其の経営に支障を及ぼさざる様協力するべき」(註41)ことが確認されている。
また54年の覚え書き締結の際も、水俣市議である淵上組合長が水俣工場幹部との間で、漁業補償に関するいわゆるボス交渉を行い、いかにしてチッソの顔を立てて補償金の額を減らし、組合員の強硬意見を押さえ込んだかということが記録(註45)されている。
その当の淵上末記は、当時の市議会において、一般市民に入漁料を課している事に関する経過説明で次のように述べている。「現在漁民の生活状態と申しますと、非常に困っておる。この補償料(筆者註:漁業権補償金のこと)を(国に)納めると言う事は出来得ないと言う様な最低線の生活をやっておるのであります」(註46)。チッソとの話し合いでは漁民の要求をいかに押さえ込むかということに腐心する人物が、一方では議会で漁民の困窮する生活状態を訴えるという矛盾した発言であり、不信感を抱かざるを得ないものであろう。
40年は、水俣工場のアセトアルデヒドの生産量が戦前のピークを迎える(42年には後の熊大第二次研究班の調査で水俣病の患者が発生していたことが確認)。終戦まぎわの空襲により一時操業を中断するものの、46年2月にはいち早くアセトアルデヒド工程を復旧し、製造をスタートさせる。その後も生産量は年々増大を続け、54年には戦前のピークと同水準まで達した。環境汚染もそれに伴い拡大していく。そのため水俣漁協の漁獲量は激減していった。(註47)
当然漁民の生活は逼迫するわけで、行政の対応が注目されるところである。ところが実際は、前述した漁業紛争の立会人としての立場以上のことを、行政として積極的に行った形跡は見あたらない。むしろ43年の淵上のように、一般漁民の足を引っ張るような行為も見られるほどで、工場の操業に対し漁民という立場がいかに軽く扱われていたかという事がうかがえる。
ただ唯一たびたびの水俣漁協の訴えにより、熊本県水産課の工場廃水による環境汚染の実態調査が一度だけ実施されている。この調査にあたった三好礼治技師は、「工場廃水を分析して成分を明確にしておくこと」「廃水の直接被害の点と長年月にわたる累積被害を考慮する必要がある」(註48)と結論している。しかし、これも実際には何の対策も講じられることはなかった。
また海の汚染の陰に隠れた形になっているが、降下煤塵の被害とチッソ廃水の農作物への被害も看過できないものがあった。前者の例としては、水俣工場のカーバイド粉塵の被害があげられる、その被害の程度は「今朝掃いても、粉塵のため一時間もせんうちザックザックになる」「寝とっても顔でもなんでもザラザラするという状態がつづいとった」(註49)というひどさであった。55年には丸島地区住民から、市議会へ請願(註50)がなされている。
そのため市議会では交渉委員会をつくり、チッソと交渉している。しかし住民の被害の程度のひどさに比べると、交渉委員が市議会で答弁した「防塵という工事をいたすと膨大な金がかかるということであります」(註51)というのは、何とも押しの弱い交渉であることか。議会ではこの後2回ほど継続審議になったものの、その後しばらくは有効な対策がとられた形跡はない。
また後者としては、49年、丸島排水路へ流された廃水で下手の農作物が枯死し、被害者が土嚢で排水路をせき止めるという事件が起こっている。水俣市は翌年堤の補強等を行い「関係各地住民代表、水俣漁協などと協議会をもち話し合いを進め善処したい」(註52)としているが、肝心の廃水を流していた当のチッソへの対応は見られない。
こうしてみてくると、チッソの事業活動に伴う環境の汚染、そしてそれによって住民の生活権が脅かされることに対して、住民の権利を代表していたというよりは、むしろチッソの重要性を強調し、できるかぎりそうした被害を過小評価する、もしくは無視に近い態度をとるというものが水俣市の基本的な姿勢であった。それは前項でも見てきたチッソへの厚遇と比べると、かなりの落差を感じる。こうした環境や漁民に対する軽視が、後の水俣病の拡大につながっていったことを考えると、地元行政としての水俣市の責任は大きい。
(4)奇病の発生
チッソのアセトアルデヒド増産に伴い、水俣湾周辺の環境の異変が進行していった。最初は魚が浮き、貝や海藻の死滅となって現れ、次第に鳥や猫の狂死へと拡大していった。(註53)
そうした環境の変化に相前後して、人間の身体にも異変が現れていく。
1952年 3月27日 胎児性水俣病患者村田守広(葦北郡津奈木町)出 生。
53年12月15日 溝口トヨ子(水俣市出月)発病。後の公式第一号 患者。
54年 6月14日 柳迫直喜(水俣市多々良)発病、
55年 1月10日 胎児性水俣病患者川上万里子(水俣市梅戸)発病。 この頃から胎児性水俣病患者多発。
同年 6月20日 中津芳夫(水俣市出月)発病。
同年 7月 浜元二徳(水俣市出月)発病。中津と共に熊大第一内科 に入院するが、当初アセチレン中毒と診断。20日ほどして退院。
同年 8月 武田ハギノ(水俣市出月)発病。新日窒病院に入院。細川医院長、水俣保健所に現地調査を申し入れるが実現せず。
(註54)
また、チッソ付属病院の細川院長の調査(註55)でも、54年から公式発見までの間に21名の患者が発病したことになっている。
こうした発見された患者の背後にはもちろん原因も確定されないまま、何の病気か分からないまま亡くなっていった人が多数いることは言うまでもない。こうした数字が氷山の一角であることは、後に未認定のまま死亡した者の臍の緒や毛髪が分析され、高値の水銀が検出されたことからも明かである。いずれにしても公式確認から実に4年前、チッソ付属病院の細川一の調査でも2年前にさかのぼって患者が発生していることになる。
水俣病は魚介類を摂食することによる中毒なのだから、一日も早い対応が必要であることはいうまでもない。その意味ではこうした患者が発生していることに対し、一刻も早い発見が被害の程度を小さくさせうる道だったはずである。 当時こうした環境の異変に対し、それをもっとも早い段階で気が付いていたのは漁師であった。このことは普段より海を生活の糧にしていた人々にとっては当然の事ともいえる。それはいわば、不知火海という自然と共に生きてきた人々の、直感ともいえるものであった。47年頃にはすでに、百間のチッソの廃水口付近に「船をつないで置けば船虫が付かない。他の所につなぐと1年に3回は船の底を焼かねば虫がついて船底がくさってしまう」(註56)ということが噂されていたのである。
また54年7月31日、茂道の漁師石本寅重が、部落で急増したネズミの駆除を市に陳情している。この何とも珍妙な陳情に対し市の衛生課は「ネズミ退治にのりだすことになった」(註57)とあるが、この時にしても異変を感じとれる機会はあったはずである。
これを単なる茂道という小さい漁師部落の漁師の、とるに足らない話しととるか、すでに異変に気が付いていた病院と協力して調査にのり出すかでは、雲泥の差がある。確かに漁業補償の際の市の対応などと考えあわせてみると、こうした人口の1%にも満たない漁民からの危険信号を察知するだけの、市の姿勢を期待するのは無理であったのかもしれないが、このことは後に大きな負債を水俣市に課すことになる。
(三)まとめと残された問題。
水俣市はチッソの企業城下町といわれる。水俣市史などを読んでも分かるとおり、水俣市の歴史を語る際にもその存在を抜きには考えることができないほど、チッソが水俣市における存在が大きいことは事実である。
この時代はまだ水俣病が社会問題として顕在化しておらず、当然水俣病をめぐる市の対応という意味では、まだほとんど何もないといってよい。ただこの時期を通してチッソという企業の存在が、水俣市(水俣村から水俣町)の行政や経済の中に、どれだけ深く潜り込んでいったかは重要なポイントである。それがひいては後の水俣病の公式確認以後、水俣市がそれこそ文字どおり全市をあげてといわれるほどの、チッソ擁護の側に回った過程を理解するための前提となる。
この時代の考察抜きには「水俣に生まれ水俣町民とともに栄え、水俣と不即不離の関係の中に育ってきた日窒は、町との間柄も一般工業都市には見られぬ血のつながりにも似た交情を深めつつ、歩みをともにしてきた」(註58)という感性は理解できない。
1908年以降の水俣市は、チッソと共に変遷してきた。チッソ進出3年後の12年には町制施行、16年には2911戸、人口18681人、水俣工場がカザレー式アンモニア工場の建設を始めた25年には4339戸、24847人となった。その後も転入者は増え続け、戦後49年、水俣市政がしかれた時には8672戸、人口43225人になり、久木野村を合併した56年には50461人を数えるまで増加している。こうした数字は、明らかにチッソの事業の拡大と共に変化してきたものであり、それゆえ後にチッソの事業が縮小していくにしたがい、減少していくことになる。
ただこうした道のりは、水俣市にとって決して平坦なものではなかった。工場発足時の経営危機については先にふれたが、カザレー式アンモニア製造技術を導入してからは、その経営の主力を朝鮮に移していく。27年には鏡工場を閉鎖し、水俣工場も縮小、新規採用も中止した時期もあった。「水俣は大変な不景気になりました。失業者が700人をこえるようなね」(註59)というように、チッソのその時々の都合に翻弄されてもいるのである。
日本の近代において、旧地主層は早晩没落していく運命にあった。水俣の場合、チッソを誘致したことにより、近隣地域に比べ早く近代的な賃労働関係が成立することになるが、それによりそうした地主層の没落をいっそう早めることになる。ただ誘致を行ったのもまた地主達であったことは皮肉であった。チッソはそうした水俣の中の旧勢力にとって代わり、水俣における社会経済構造の中心となっていくのである。
チッソが工場拡大と共に買収した土地は、塩の専売制という国家的エンクロージャーによって消滅した塩田の跡地であり、それらを所有していたのも旧地主たちであった。またそうした従来の産業の崩壊、そして天草を含めた近隣農村における過剰人口という余剰労働力の吸収なくしては、チッソの存立もあり得ない。後にはチッソの廃水によって海を追われた人々も、その中に加わっていくことになる。
それとプラスして考えなければならないのが、チッソの企業経営の中に見られる独自性ともいるものである。チッソは、三井や三菱のような旧財閥系企業ではなく、化学工業界では新興勢力であった。その出自はたかだか資本金20万円という、一地方の発電所に過ぎなかったのである。
そうした資本力では圧倒的に劣るチッソが、他の大資本と互角に渡り合うには、他にはない新技術を導入すること、そして持てる資本を最大限活用することが必要であった。チッソにとって前者は、欧米からまだ実験段階の特許をいち早く購入し、安全生が確立されていようがいまいがとにかく実用に移すこと、そして後者は、水俣における労働力、社会資本をフル活用し使い捨てることであった。そのため水俣工場では、劣悪な労働条件下でたびたび大規模な労働災害を引き起こすことになった。また地元労働者は、長らく低賃金の下で固定化され差別された。そして水俣の住民は、水、空気、海という自然までもチッソによって奪われていくことになるのである。
もちろん水俣はチッソの進出によって、近隣の他地域よりはいち早く近代的都市化という恩恵も受けているといえるかもしれない。「水俣は会社のおかげでですね、とてもそら、ある面では助かりましてみんなが。生活の面とかいろいろな面では。・・・そのころの水俣と佐敷を比較しますと15年は差があるなと思いました」(註60)。
しかしその代償として、チッソという一企業の存在に町が左右されるという、典型的な単一企業支配都市へと変貌していくことになる。チッソを中心とした社会経済構造が徐々に形成され、程度の差はあれ、水俣の地域住民はチッソに依存していくことになった。そうしてチッソの発展こそが水俣の発展であるという意識が形成されていった。
チッソはその操業以来、時の権力と結びつきながら発展してきた。それは戦前においては、富国強兵・殖産興業という国家的要請に応えたものであり、戦時中においては、軍事物資の生産、植民地における経済的支配であり、戦後においては、高度経済成長に向かうための国内重化学工業の育成という国家的要請に応えたものであった。そうした国家権力を背景として水俣を支配しようとしていたチッソに対して、水俣市という一地方行政が、どれだけの独自生を残すことができたかは確かに疑問ではある。
チッソは後に様々な環境問題を引き起こしていくことになる。海が汚染され、魚が、そして猫が、鳥が異変を伝えた。それに敏感に気が付いていた人々もまた存在していたのである。しかしチッソからの独自性を失ってしまった行政機関にも地域住民の多くにも、それをチェックする機能が働かなくなっており、やがては人の命そのものを侵害する水俣病を引き起こしていくことになる。
(四)資料
(1)「新水俣市史 下巻」水俣市 1991年 P207~208
(2)「聞書水俣民衆史 二」岡本達明他編 89年 P41
(3)同 P42
(4)「水俣工場労働者史(7)」久場五九郎 P73
(5)同 P44
(6)同 P48
(7)同 P76
(8)同 P49
(9)「水俣工場労働者史(1)」久場九五郎 P6
(10)「聞書水俣民衆史・二」 P42
(11)「水俣病」有馬澄雄編 79年 年表より抜粋。
(12)「聞書水俣民衆史 二」 P206
(13)毎日新聞1975年5月2日(資料1ー13)
(14)「水俣の啓示・下」色川大吉編 P186~187の図より作成
(15)同 P188~189
(16)同 P189
(17)同 P189~190
(18)同 P190
(19)同 P190
(20)「水俣市史」水俣市 66年 P355
(21)「覚書」新日本窒素株式会社、水俣漁協 1951年8月22日
(資料1ー21)
(22)「覚書」新日本窒素株式会社、水俣漁協 1954年7月13日
(資料1ー22)
(23)「水俣市議会録」52年6月 (資料1ー23)
(24)「水俣市議会録」54年9月 (資料1ー24)
(25)「水俣市史」 P442
(26)「復命書」 三好礼治 1952年8月30日
(27)「水俣港を貿易開港に指定方陳情書」熊本県、水俣市、水俣市議会、チッソ 55年2月5日
(28)「水俣市史」 P345~346
(29)「水俣市議会録」55年3月(資料1ー29)
(30)「百間港浚渫陳情書」水俣市 55年12月13日
(31)「熊本県水俣港修築計画調査概要」日本港湾協会 1955年12月
(32)「水俣市史」 P525
(33)同 P526
(34)「公害都市の再生・水俣」宮本憲一編 77年 P64
(35)同 P64
(36)「水俣工場新聞」55年7月5日(資料1ー36)
(37)「公害都市の再生・水俣」 P63
(38)「水俣市史」 P420~421
(39)「水俣工場新聞」 55年7月5日
(40)「証書」水俣町漁業組合理事高野辰吾以下6名
(41)「契約書」日本窒素肥料株式会社、水俣町漁業協同組合
(資料1ー41)
(42)「覚書」新日本窒素株式会社、水俣市漁業協同組合(資料1ー21)
(43)「契約書」新日本窒素株式会社、水俣市漁業協同組合(資料1ー43)
(44)「水俣の啓示・下」 P122
(45)「淵上漁業組合長来社会談記録」(資料1ー45)
(46)「水俣市議会録」52年2月
(47)「隣設漁協水揚高調査表」水俣漁協 (資料1ー47)
(48)「復命書」 三好礼治(資料1ー48)
(49)「水俣工場労働者史(2)」 P75
(50)「カーバイド炉より噴出する石灰粉塵及び硫酸焼きかす粉防塵に関する請願」 水俣市第4区 55年9月23日 (資料1ー50)
(51)「水俣市議会録」55年9月(資料1ー51)
(52)「(別紙)回答」水俣市(資料1ー52)
(53)「水俣病に対する企業の責任」水俣病研究会 1970年
P193
(54)「水俣病」年表より抜粋。
(55)「水俣病」 P259
(56)「認定制度への挑戦」水俣病研究会 72年 P11
(57)熊本日日新聞1954年8月1日(資料1ー57)
(58)「新水俣市史・下巻」 P210
(59)「聞書水俣民衆史 三」岡本達明他編集 89年 P139
(60)「不知火記」 羽賀しげ子 1985年 P15
【原因究明期】
(一)時代の概要
①はじめに
ここでは1956年(昭和31年)5月の水俣病公式確認から、59年12月の見舞金契約までを対象としている。この時代の特徴は「原因究明」だけで表現されるものではない。この3年8か月の期間は、その後40年に及ぼうとする水俣病事件史の縮図ともいえる時期である。水俣病発見後のきわめて早い時期に、熊本大学医学部奇病研究班では金属化合物を疑い、漁民たちはチッソ水俣工場の廃水に目をむけている。しかしチッソや行政は、廃水の有害性が証明されない限りは、それを制限することはできないという立場であった。さらにそれを法律や科学の名のもとに合理化し、漁民の直観を一笑したのである。
そうして排水停止や漁獲禁止などの被害にたいする適切な措置をとらず、問題を補償金問題に収斂させてしまった。熊大研究班の有機水銀説に対しては、いろいろある説のひとつとして一般化し、この事件における加害者をアイマイなものにして、政治的解決を計った。こうして燃え上がった不知火海漁民闘争と患者の要求を押さえつけたことが、何十年も尾を引く問題になろうとは、誰も想像しえなかった。
この時代の事件の展開は、大きくは以下の三段階に分けることができる。
1956年5月~57年1月
水俣病が公式確認されその実態把握と原因究明にむけた対応がなされた。そして原因として金属化合物が疑われ、チッソ水俣工場の廃水と魚介類の関係が考えられた。水俣漁協の「汚悪水の海面放流禁止、放流は浄化装置を設置し、特に酸を中和し無害証明せよ」と要求した(註57)。
1957年1月~59年6月
この時期は熊大研究班による原因究明がなされる一方、チッソと通産省は「原因物質とその生成機序が厳密に明らかにならない限り原因は未確定」ということで、排水停止を逃れようとした。そして熊本県・厚生省も漁獲禁止を回避したため、被害を継続・拡大させてしまった。
1959年6月~12月
有機水銀が原因であることは確定していたが、チッソ・行政は依然として排水停止と漁獲禁止を回避した。漁民・患者が排水停止と被害補償を要求して闘ったが、行政は被害の因果関係をアイマイにしたまま調停委員会でわずかな被害補償をさせ、水俣病問題を沈静化させた。
②この時代を作った基本的な要素から
イ.水俣市の人口
1912年 18681人
45年 31012人
50年 43661人
55年 46233人
56年 50461人(久木野村合併)
60年 48342人
65年 45577人
70年 38109人 (註1)
水俣市の人口移動の特徴は、一つは水俣病公式確認の年が人口最大数であったこと。もう一つは68年の公害認定の年が特異点をなしていることである。56年以来の人口減少は、日本全国の地方に一般的なことであり、これは55年から始まった日本の高度経済成長政策と、第一次産業の分解による人口移動による。また68年の特異点も、公害認定がチッソに打撃を与えたからではなくて、これはチッソが千葉県五井に石油化学工場を建設し、水俣工場をスクラップ化した結果である。
つまり水俣病が水俣・芦北地域を疲弊させたとよくいわれるが、少なくとも人口減少は政府の高度成長政策とチッソのスクラップ&ビルドの結果である。更に付け加えれば、高度成長は大都市での労働力不足をもたらしたが、地方からそれが供給されるためには、第一次産業の人々が既に今までのやり方では生活できなくなっていることが必要条件をなす。こう考えると、チッソが廃水で海を汚したこと・水俣病を発生させて地域不安をもたらしたこと・それに行政が十分な対応をせず漁民や患者を見捨てたことは、一つの糸でつながっていく。こうして不知火海沿岸の漁民・農民たちは、追い出されるように故郷を捨てて都会へと行くことになった。
ロ.アセトアルデヒド事情
チッソがアセトアルデヒドと塩化ビニールの廃水が疑われてからも、どうしても廃水停止しなかった理由は二つある。一つは主力商品であること、もう一つは55年から始まった高度成長に必要な工場の新設や商品素材の革命に、これらがなくてはならなかったものであることによる。当時の工場新聞では「ニポリット(塩化ビニール)については、水俣工場も増産するが、全くどうにもならない需要増、オクタノール(塩化ビニールの可塑剤)もDOPも同様、とくに前者は、チッソが作らなければ輸入という事情になるのでこれを阻止するために増産に努力している」と書かれている。オクタノールの国内シェアは実に85%であった。これらの原料となるアセトアルデヒドは日本の化学工業と、高度成長政策を進める通産省にとっては不可欠のものであった。
・アセトアルデヒド生産量・損失水銀量
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1932・ 108136トン・162~216トン
~52・ ・
1953・ 6592トン・ 11トン
54・ 9059トン・ 10トン
55・ 10633トン・ 12トン
56・ 53195トン・ 53~63トン
~58・ ・
59・ 31921トン・ 32トン
60・ 45245トン・ 32トン
61・ 42287トン・ 21トン
62・ 26500トン・ 11トン
63・ 38500トン・ 15~16トン
64・ 73400トン・ 22~29トン
~68・ ・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
合計 ・ 445468トン・381~454トン
(註2)
ハ.水銀流出と排水経路について
前項での損失水銀は使用水銀量から回収量の差なので、全てが海に流れたわけではない。工程での蒸発・製品への混入それと廃水流出である。損失量についてはチッソ自身が出している数字は損失量228トンで流出量82トンとしている。また損失量に占める流出量の割合は工場日報等から推察するしかないが、約50%と程度とされている。また水俣病の原因物質であるメチル水銀については、チッソは現在でも工場見学の説明では認めていないが、アセトアルデヒドを1トン生産すると60グラム(理論値)副生する(註55)ので、アセトアルデヒド総生産量45万トンでは、27トンと推定される。メチル水銀の水俣病発症値は50PPM、致死量200PPM、1991年の研究では胎児性水俣病の発症の可能性は母体への10PPM蓄積と言われている(註3)。
また排水経路は、1932~58年9月水俣湾、58年9月~60年5月水俣川河口、60年6月~66年5月水俣湾と変わって、66年6月に完全循環式になる。この間に八幡プールへ排水して、チッソとしては外へは流出していないとしている。しかしこの残滓プールの構造は石垣によってできており、廃水中の水銀(とくにメチル水銀)に対しては密閉の効果はなく、それどころかプールが常にオーバーフローしていたが、それでも足りなくて秘密の排水パイプを海中に3本も作っていたことが暴露されている。
チッソは原因物質として農薬を主張し、水俣川河口の水銀値が高いことを強調しているが、これは自分で自分の首を締めているようなものである。これはいかに八幡プールからメチル水銀が流出していたかを証明しているだけのことである。
(二)主要なできごと
(1)初期原因究明期
①経過
1956年5月1日、チッソ付属病院長細川から水俣保健所に「類例のない疾患発生」と報告される。いわゆる水俣病公式確認である。しかし水俣病の発生はそれよりもはるかに早いが、この時点では分かっていなかった。
当初の衛生状態は現在よりもはるかに悪く、「奇病」のイメージは伝染病に直結していた。同年5月28日に医師会・保健所・チッソ付属病院・市立病院・市役所で結成された奇病対策委員会は、患者の隔離、消毒をおこなった。8月24日に、熊大医学部水俣奇病研究班が作られ精力的な活動を開始した。海水・井戸水・魚介類・米・醤油、はては水俣特産の寒漬まで採取して分析された(註4)。そうした間にも、患者が次々発生し死亡していった。この修羅場のような状況のなかで、関係者はおおわらわの仕事をこなしていった。市役所の一職員のメモに「昭和31年も今日で御用納め、一日も早く奇病原因のわかることを祈りながら、忙しかった1年を無事終えたことを喜ぶ。来年こそ解明されることを信じる」(註5)とある。この時代後半のチッソ擁護の水俣市からは、想像もつかないほど真剣な姿勢がうかがわれる。
この時代については、医学的な視点からは「水俣病」原田正純、政治的動きを中心に見た「公害の政治学」、また不知火海総合調査団の「水俣の啓示」、チッソの出した「水俣病問題の15年」などに記述されている。チッソを別にすれば、この時代の水俣市の動きについては概ねの評価は「市にできることは、せいぜい県と厚生省に陳情するだけだった。それも見込みがなさそうな時は行き手がない」(註6)というものである。
奇病が伝染病の疑いを否定されたのは比較的早く、56年9月の市議会での井戸水の媒介を否定され、熊大研究班や対策委員会の調査によって「水俣の奇病/中毒性のものか/病理解明の結果中枢神経をおかされていることは判明したがその原因は約半月間の実験によってもビールスが証明されないところから中毒性のものではなかろうかということが判った/しかしその中毒もなにが原因かはまだ不明で目下研究をすすめている」(註7)。さらにこの年明けには、厚生省研究班・熊大研究班・対策委員会では、奇病の原因をチッソ工場の排水と水俣湾の魚介類に焦点を絞っている(註58)。しかし水俣病がうつるとして忌避され、水俣病に対する差別の大きな原因として、初期においての伝染病説にきちんとした形で否定されなかったことがある。
熊大研究班は57年2月には水俣湾内の漁獲禁止が必要と報告している。また水俣漁協も同年5月に、排水の即時停止と沈澱物の除去をチッソに要求している。細川チッソ病院長の猫400号実験に先立ち、56年4月に伊藤水俣保健所長が実施した猫実験では水俣湾の魚介類を与えて、自然発症の猫と同じ症状が出たことが確認されている。
初期原因究明期をどこまでとするかは意見の別れるところだが、ここでは1958年7月7日の厚生省研究班が発表した「水俣病の研究成果及びその対策について。新日窒水俣工場廃棄物が港湾泥土を汚染し、魚介類・回遊魚類が廃棄物中の化学毒物と同種の物質で有毒化。これの多量摂取によって発症」(註8)と、新日窒の名前と水俣病という名称が公式に出たことを一応の基準とする。これ以前にも、奇病の原因を工場廃水と疑った県衛生部長に対して「蟻田さん、ああたはこれから八代から南には行かんでよございます」(註9)と禁足した56年の副知事発言、「原因が水俣一帯の魚とのデマのため地元漁業者は打撃」淵上市議会議長の発言、「橋本市長、厚生省に対し原因は農薬と意見提出」「市長、漁獲の販売禁止は結果的に漁獲禁止で必然的に補償問題となる。事前打合せなきは遺憾」(註10)などのように、原因究明を妨害したとしか思われない発言も、もちろん忘れてはならない。こうした発言に悪意を見つけることは、現時点ではたやすい。だが、当時はその見分けもつきにくかったのも事実であろう。しかし有力者の多くの発言は、チッソ擁護ではあっても漁民や水俣病患者の利益になったことは少ない。水俣が歴史的にチッソに政治的・社会的に支配された城下町であったことを考慮すれば、こうした発言に悪意をみつけることは不当なことではない。
②まとめ
初期原因究明期と有機水銀説の確立期は継続している。しかし、水俣市とチッソとの関係に注目した場合、水俣病の原因がチッソにあることが疑われていくにつれて、チッソ擁護の姿勢=患者・漁民の見殺しになっていくことが、この時代を特徴づけている。ただ奇病=水俣病の発生が、水俣市という地方行政にとって過重な問題であったのも事実である。簡単な図式にする問題もあるが、チッソ-通産省-大蔵省という日本の近代化を押し進める力に対して、住民の福祉・健康の維持という観点からの水俣市-熊本県-厚生省という動きが、十分に対抗しえなかった。結局は後者も対立が激化すれば被害者としての患者・漁民の立場ではなく、チッソの立場を選んだことが、水俣病事件をかくも長く闘争として残し、かつ被害を拡大し被害者の苦痛を増大させた。
同時代、宮城県釜石市の市長鈴木東民は「工場を誘致すれば、地元は裕福になると一般的には考えられているが、それは迷信である。企業そのものは儲かるであろう。しかし企業が設けた金は地元には落ちない。かえって地元の農業や漁業ばかりでなく環境までが、公害と企業施設のために汚染され破壊される。河も海も耕地もだめになって」(註11)と語り、できる限り住民生活優先の道をえらんだ。これは、水俣市の選んだ道と異なっていたことは比較されるべきである。
行政がチッソの廃水を、熊大研究班が疑いをもった56年11月の段階で・厚生省がチッソ廃棄物と推定した58年8月の段階で・7月に有機水銀説が出され厚生省調査会もそれを認めた59年11月の段階で、それぞれ停止させるチャンスは存在していた。しかし解決の方向は、原因を除去するのではなく、被害者の口を封じることに終始したことが、水俣病事件を未曾有の大事件にしている。1991年に出された環境庁の委託調査(註12)には、「1年当たりの被害額と119億600万円であるのに対し、1年当たりの対策費用は9400万円程度であり、こうした対策を早い段階で行い、被害を未然に防ぐことが、金銭面の費用効果だけから見ても十分合理的なことであったと言えよう。水俣病の発生メカニズムの解明に多年月がかかった事情はあったにせよ、失われた人命、健康、環境は取り返しのつかないものである」と述べている。初期原因究明からチッソ擁護に重点が移っていく、この動きこそが水俣病事件を貫く行政の負債である。
(2)水俣病患者互助会の結成
①経過
1957年8月1日、水俣奇病罹災者互助会(のち水俣病患者家庭互助会)が「どうしても個人では何も出来ない。一つの団体をつくり会社と交渉せねば現在の患者達をすくう道はない」(註13)として結成されたと書かれている。この時すでに交渉相手が「会社」であると認識されていたとすれば、特筆すべきものであるが後年の聞き取りなので信憑性は薄い。実際には互助会の活動は、後のように闘争的性格のものではなく、市・県・国に患者救済のための陳情をしたり、患者と家族の悩みや苦労を語り合う場であった。「患者家庭では一戸から50円ずつ出しあって”組織“を作ったのである。事情がひっぱくしてゆくに従って50円の会費は20円になった。・・・続発する患者と死者と会員たちのさしせまる生活」(註14)というものであったから、まずは肩を寄せ合って誰かにじぶんたちことを聞いてもらおう、というところが実情であったと推測される。
互助会は何度も、市や市議会に陳情し、また市長・市議会長などとともに県や国へ陳情にいっている。結成時に互助会からチッソへ送られた挨拶文には「今回罹患者家族のみを以て互助会を結成し一日も早く病源の発見を切望するとともに同志が助け合いの趣旨から罹患者互助会を結成しました・・・」と述べ、チッソから寄付をもらっている(註15)。こうしたことから見舞金契約以前の互助会と水俣市の間には、それほど大きなトラブルは存在しなかった。
②まとめ
この項で確認しておくことは、被害者としての患者や漁民の平和的な陳情・交渉では、責任の追求・被害補償はいうまでもなく、原因の確定や適切な措置例えば漁獲禁止や廃水の処理等も遅れに遅れたということ。そうしたことは結局闘争という形をとることなしには、行政やチッソが本腰をいれて対応に当たることはないという教訓を後に残したと言える。
この時代は原因が未確定ということもあって、病気としての水俣病患者への対応が中心ではなく、すでに確認されているチッソ廃水と海の汚染を巡っての、被害者としての漁民が中心となっている。よって水俣市としては患者に対しては生活保護や医療補助・生活補助をできる範囲でする以外には、規制等の権限はほとんどなく、県・国に陳情することしかできなかったとも言える。水俣病事件の通奏低音をなす「チッソ擁護」を崩さなかったことも忘れられるべきではない。水俣市にとって少なくとも、68年の公害認定まで、いや補償金支払いが自力でできなくなる78年までは、チッソはゆるぎのない城主だったのである。
(3)有機水銀説の登場
①経過
熊大医学部水俣病研究班が1966年に発行した「水俣病」(いわゆる赤本)は水俣病の医学的総合研究として、基本文献たりうる調査と分析に裏づけられている。そのなかで武内忠男は「その本態は中毒性脳炎であろうということが明らかにされた。・・・水俣病は水俣湾産魚介類を大量摂取することにより発症する中毒性神経系疾病である・・・水俣病が有機水銀中毒ことにアルキル水銀中毒症であろう」(註16)と推測したのは早ければ57年春、遅くとも58年夏の段階である。
現時点で原因究明を概括すれば、伝染性疾患を否定され、中毒性疾患であるとされ、患者たちの疫学調査から魚が疑われ、魚が住む水俣湾が疑われ、水俣湾の特殊性としてのチッソの廃水が疑われ、廃水のなかに含まれる物質が疑われた状況で、武内が「これらの神経病変が主として招来され、一般臓器にこれという影響を与えない物質はどのような種類の化学物質であろうか。また工場排水に関連して魚介類を汚染し、それを介して人畜に中毒を惹起せしめるような物質はいかなるものであろうか。しかも煮沸に寄り毒性が消失しない・・・最も近い病変を起こす化学物質を選んでみると、そこには金属化合物の中毒が集中することを知った」(註17)と発表したのは、57年の前半であった。
武内のこうした動きに対して班内でも反論はあったが、権威を笠に着た御用学者まで動員して反論・反証を加えたのはチッソだった(註18)。初期にマンガン・セレン・タリウムが疑われ、それから爆薬説・農薬説など、果ては学説とも言えない物まで飛び出した。東邦大学戸木田は「腐った魚が原因だという説を立て、魚を腐らせてその液を猫に飲ませるのである。腐った液を飲ませれば、猫はなんらかの症状を起こして死ぬのは当然である。・・・肝心な有毒アミン・・本体は不明であるという」(註19)珍妙な説まで登場する。有機水銀説がほぼ確定してもなお、こうした爆弾説やアミン説、そしてチッソはかなり最後まで、せめて農薬との共犯にしておきたかったようである。
原因究明のこうした状況をチッソは、水俣病事件史に偽書として残る「水俣病問題の15年」のなかで「紆余曲折」と表現している。これこそマッチポンプの見本のようなことで「紆余曲折」させたのは誰か、そしてそのことが利益になったやつを探せば、この事件の真犯人がわかるという、推理小説のセオリーどおりである。伝染病から始まって水銀が疑われるまでには、それほど多くの時間はかかっていない。こうした熊大研究班の活動に対して、チッソは表立って妨害・はぐらかしをおこない、水俣市・熊本県はそれに追随して問題を補償の陳情に絞ったこと。国・通産省はアセトアルデヒドの生産を守るということで、工場排水停止の事態にならないように動いた。ここでは患者・漁民の利益のために、どの公的機関も行動しなかったことを確認しておきたい。
こうした動きに関しての水俣市および行政・チッソの対応を年表にすると、
56年12月19日市議会、淵上末記「奇病の原因が水俣一帯でとれる魚のためというデマ」
57年2月4日県公衆衛生課、「重金属中毒と魚介類が原因」(註20)
57年4月8日橋本市長、厚生省に対して「原因は農薬」と意見提出
同年8月14日橋本市長、厚生省に対し「漁獲禁止は補償問題になる」と意見
58年6月11日通産省、工場排水だけでなく総合調査が必要とまとめる
同年7月7日厚生省、新日窒の工場廃棄物が化学毒物として魚介類を汚染しこれで発病すると推定
同年7月14日チッソ、「水俣病奇病に対する当社の見解」発表(註21)
同年11月9日通産省、マンガン・セレン・タリウムは原因物質の根拠なし
59年7月14日熊大研究班、有機水銀説を発表(註22)
同年8月5日チッソ、「所謂有機水銀説に対する工場の見解」を発表
同年11月7日市長・市議会長・新日窒労組等、排水即時停止は水俣市民全体の死活問題と陳情(註23)
同年11月11日中村市長、厚生省に対し「有機水銀説には有力な反証あり」と陳情(註24)
同年11月12日厚生省食品衛生調査会、水俣病の原因はある種の有機水銀化合物と答申(註25)
同年11月19日市議会、厚生省調査会の結論発表は慎重にと陳情
ここに熊大研究班・厚生省食品調査会と、チッソ・通産省とその後押しをしている水俣市長・市議会を、見出すことはそれほど困難ではない。チッソの有機水銀説への反論をまとめた「有機水銀説に対する当社の見解」(59年11月)では「湾内の泥土、工場排水で魚を飼育し、これを猫に投与する実験においても、今日迄発症例を見ないことによって、工場の排水中には魚介類を媒介体として有毒化する物質のないことの自信を強めつつある。・・・水俣病の原因究明に当たっては一点の疑問もない真実の解明が必要である。つまり科学的立場から公正なる調査研究が徹底的に行われることが絶対に必要である」と述べている。この文書の欺瞞的性格を上げれば、図表にある(註26)排水中の水銀量0.01PPMは塩化ビニール工程からのものであり、大量に水銀を使用していたアセトアルデヒド工程からは10~20PPMの水銀が含まれていた(註27)。ウソではないが、真実ではないという騙しの古典的テクニックをここで使っていることが、逆にチッソが隠したいものがなんであったのかを想像させる。そして後段の主張は科学的態度と見えるが、政府の公害認定に対しては、66年熊大研究班発表以来何らの新しい発見がなかったにも関わらず、反論もせず受け入れたことから言えば、有機水銀説を妨害するための難癖の「ためにする議論」と言ってよい。
②まとめ
水俣病の原因物質を研究する方向としては、一つは熊大研究班の取組があったが、もしチッソが本当に原因を探ろうとしていたならば近道が存在した。アセチレンからアセトアルデヒド合成についての研究がそれである(註28)。「アルキル水銀がアセチレンからアセトアルデヒドを合成する際、副生成する」と記述されたこの論文を、チッソが知らなかったわけはないこと。「化学評論」の角谷論文には橋本彦七の名前もでており、こうした研究でチッソ・橋本は名の売れた研究者であった。たしかにこれらは状況証拠に過ぎないが、そもそもアセトアルデヒド合成の工業化での問題は「①酸性触媒溶液からいかにしてアセトアルデヒドを抽出するか。②触媒水銀の不活性化の防止策」(註29)にあり、また水銀が高価であるためにコストダウンのための技術は至上命題であった。熊大研究班は分野が違うこともあって、こうしたアセチレン工業のことは全く知らなかった。つまりチッソが熊大研究班に対して協力し資料提供を惜しまなかったならば、原因物質ははるかに早く確定したに違いない。
有機水銀説に対して水俣市が積極的に妨害したとは言えないが、チッソを陰に陽にかばったこと、問題を被害者救済ではなく補償問題に狭めていったことには責任がある。水俣病事件が一つの地方行政にとっては、手に負えない問題であったことも事実である。更に上級機関である熊本県・厚生省・通産省の消極的態度も、水俣市の態度を規定したにちがいない。水俣市の法律的な権限や責任が、水俣病事件の訴訟で対象とされたことはなかった。しかしこれは水俣市に何も問題がなかったことを意味しない。通常の人間の生活は法律を規範として行われているわけではなく、共同体の規範や生活道徳を基礎としている。やりすぎの行政も住民にとっては不都合なこともあるが、水俣病事件が何十年も続き住民相互に不信を残し、あまつさえ差別的ですらある状況は、この時代の行政が基礎を作ったと言っても不当ではないと思う。
水俣市奇病対策委員会の活動が、58年後半から年表から見えなくなってしまうが、これは同年7月厚生省が「水俣奇病の原因は新日窒の廃棄物」(註30)と発表したことと関連していると推定される。この頃から熊大研究班とチッソの対立は泥沼化していくし、問題は国の権限と責任に任されていく。何度となく繰り返される陳情は、患者・漁民と国のあいだを取り持とうとするものだろうが、ここには地方行政としての主体的姿勢はうかがえない。チッソの御機嫌を損なわない範囲で陳情し、漁獲禁止や排水停止を真剣に検討した節はない。ここでは水俣市の問題としては、「したこと」ではなく「しなかったこと」にあるので、それぞれ言い訳はあるだろう。しかし住民の苦難に対して、チッソの御機嫌を伺うことを優先して、積極的姿勢を見せなかったことは、行政というものへの失望をかったことは確かなことである。
(4)不知火海漁民闘争
①前提
「チッソは1908年(明治42年)の操業以来、多量の重金属や有毒物を含む工場排水をほとんど無処理で不知火海に流し続けた。大正年間より漁民とのあいだで、漁業被害を巡る補償問題を起こしている。1959年のチッソ自身の調査でも『百間排水中の水銀量が1リットル中0.01ミリグラムである』と発表している」(註31)。チッソがどれだけの量の水銀・マンガン・鉛などの重金属、有毒物、残滓を流したのかは確定することは難しい。チッソは総量60トンと主張しており、その量は判決では製造日報と報告との誤差を指摘されている、「水銀使用量・同損失量ともに真実よりも過少に報告していることを認めざるをえない・・・南葉教授が昭和34年10月に公表した600トン説は過大であったにしても、被告工場側の公表による60トンをはるかに上回るものであることは明らか」(註32)となっている。また別の研究では「したがって36ヵ年にわたって少なくとも総計380~455トンの水銀が、合成反応過程で失われたと推定・・・。通産省は・・・1958年までの全損失量を176~220トンと試算した」(註33)。
水俣市の漁獲高の変遷は、昭和25年~28年平均459トン、29年279トン、30年172トン、31年96トンとなっている。「昭和28年10月出月地区に発生した原因不明の奇病が全漁民の生活源を奪い、市の漁業を全滅にひとしい苦難に追い込む第一歩になるとは当時誰も夢想だにしなかった」(註34)。こうした事態は水俣ばかりではなく、津奈木や芦北地方にも確実に広がっていた。魚が卵を産み、稚魚が育っていくアジロが、水俣湾周辺だけでも32ヵ所あったものが、チッソのカーバイド残滓埋立てや水銀廃水などによって、ほとんど全滅させられている(註35)。鳥が落ち、猫が発病し、魚が浮かび、ついには人間を殺していった水銀の影響は、水俣及びその周辺の人々の暮らしを、全面的に破壊していったと言って過言ではない。漁を生業としている漁民にとって、海が死ぬことは人間が死ぬことに等しかった。こうして追い詰められた漁民の、チッソに対する闘いは必然であった。
②水俣漁協の闘い
1959年7月14日に熊大研究班は「水俣病は、現地の魚介類を摂取することによってひき起こされる神経系疾患であり、魚介類を汚染している毒物としては、水銀が注目されるに至った」と発表している。同年11月には厚生省食品衛生調査会も同様の見解を発表している。これに対してチッソと通産省が一貫して主張してきたことは、科学的に疑問の余地なく証明しないで、有機水銀と決めつけることは間違いである。やや感情的な表現になるが有機水銀説に対しては真っ向から否定しながら、珍妙なアミン説や爆薬説には「疑うに足るものを疑うのは当然であった」(註36)として飛びついた姿勢は科学的なものとは言えない。
熊大の発表と前後して、水俣市の鮮魚商は水俣近海でとれた魚の不買運動を始めた(註59)。これを漁民と鮮魚商の対立と見過ごすのではなく、汚染をもたらしたチッソとそれに対してなんら規制も行おうとしなかった、行政の姿勢が基礎にあることを見逃してはならない。漁民たちは漁獲高の激減に加えて販売することもできなくなり、その日その日を生活していくことも困難になっていった。当時の雰囲気を想像すると、ながらく研究されてきた水俣病の原因が明らかになり、工場廃水と水俣病の間の因果関係が確定されるにつれて、水俣周辺の住民不安がパニックに近い状態になっていった。一方では漁民や患者の病苦・生活苦・不安感は、具体的であるがゆえに絶望に囚われていったと推定できる。
水俣市漁協は1957年に「湾内魚介類が激減したのは工場廃水が原因であるとして、①汚悪水の海面放流中止、②放流する際は浄化装置を設置して、無害証明すること」を申し入れている。これに対するチッソの回答は「昭和23~4年当時と変化はない。中和処理後に排水している」というそっけないものであったが、この回答は大嘘であった。
水俣市漁協は59年8月6日の交渉において「①一億円の漁業補償、②浄化装置の設置、③ヘドロの完全処理」を要求した。それに対してチッソは、原因は確定されていないので、とりあえず見舞金50万円を支払う、漁業補償は13日回答するというものであった。漁業補償の回答額は、要求1億円にたいしてわずか1000万円であった。漁民たちはこの回答に怒り、警官隊との衝突となりおおくの負傷者をだした。最終的には中村水俣市長の斡旋によって「①1954年以降現在まで、水俣病関係を除く被害補償金等合計3500万円。②1954年に契約した年金を200万円とする。③百間埋立地は三年後までに完成し、無償で譲渡する」を受諾している。そして当時の漁協長は「工場あっての水俣であれば、水俣市100年の発展を願って受諾することになったわけだ」と語っている。
③不知火海漁民闘争
「1958年9月から水俣川河口へ、一時間当たり600トンというぼう大な毒水が無処理のまま放出され、その近くの大崎鼻の沖合は白濁した海水からガスがもうもうとたちのぼるという惨状であった」(註37)。水俣川の流れにのった廃水は、不知火海を全面的に汚染し、女島沖でも魚の死骸がるいるいと浮いていたという話もある。こうして津奈木・芦北方面でも、漁民たちは魚がとれなくなるという決定的な打撃を受けることになった。「水俣病が世間に報道されるや漁獲物の販路は急激に狭められ、今回の患者発生により、いよいよ操業停止のやむなきに至ったような状態であります。ここに本村漁業は生業としての生命を失い、漁民の生活権は極度に脅かされ、このまま本事態を放置するときは津奈木村1200余の漁民の死活の問題であるのみならず」(註38)と津奈木村長の悲痛な叫びがある。
10月17日県漁連は水俣市公会堂で総決起大会を開いた。主な要求は「浄化設備完成まで操業を中止せよ。水俣湾一帯の沈澱物を完全に除去せよ。漁業被害に対して経済的補償をせよ。患者家族に見舞金を支払え」など厳しいものであった。これに対してチッソは面会すらも拒否した。漁民たちの怒りが爆発し、制止しようとする保安係と衝突した。11月2日になって、操業停止を受け入れようとしないチッソに対して「漁民の怒りはついに押さえようもなく、工場乱入というかたちで爆発した。水俣駅前で大会を開く予定でいた漁協幹部も制止できぬほどに突発的なものだった。工場内に殺到した漁民はやく1000人。10分後に出動した警察機動隊も制止できず、事務所、研究室などの内部を破壊してやく40分後に一応おさまった」(註39)。
この漁民の闘いに対して、「暴力反対・工場を守れ」の市長・市議会議長・商工会・農協・新日窒労組などのオール・ミナマタが組まれた。同年11月には彼らは県知事に対して「工場排水の即時全面停止は水俣市民全体にとって死活問題だと陳情」(註40)した。こうした動きは安賃闘争や水俣病闘争においても、チッソ城下町を擁護する市民運動となっていく基礎を作る。
11月24日県知事が不知火海漁業紛争調停委員会(寺本知事、岩尾県議会議長、中村水俣市長、河津町村会長、伊豆熊日社長)を発足させる(註41)。県魚連は漁業被害補償25億円を要求し、さらに患者補償と漁業補償をべつべつにすることを主張した。この要求に対して水俣工場長吉岡は、あいも変わらず水俣病の原因はわからないと言って聞こうとはしなかった。調停委員会は全員がチッソ擁護の立場であったから、県漁連の側の利益を考えようとはしなった。こうしたなかで、チッソの回答は3500万円の損害補償と6500万円の特別融資というものだった。調停委はチッソと一緒になって、県漁連にこの回答の受諾をせまり、とうとう受け入れざるをえなくなってしまった。さらに11月2日の工場乱入の被害額1000万円をそこから差し引かれたのである。
④まとめ
不知火海漁民闘争(註42)での水俣市の責任は、調停委員会に市長が加わっていたということからも存在する。もちろんチッソ工場の廃水が原因だからと言って、誘致し便宜をあたえそして傍若無人な振る舞いを認めてきた水俣市の責任は、法律の範囲で考えられることではない。じつはこうした姿勢しか取れなかったことが、地方行政の自主性の欠如となるのはずっとあとのことになる。
水俣病発生から1959年頃までの市の態度には、一貫性が貫かれていることは見ておく必要がある。チッソの利益を損なわないかぎりで、水俣病患者や漁民の救済を考えないわけではなかったということ。水俣がチッソの城下町であったということは比喩でなく、城主としての権力をもち振る舞っていたということである。創業者の名前をつけた町名、水俣工場長が市長になること、自分が流した残滓で埋まった港を公費で浚渫させること、そしてなによりも「チッソあっての水俣」という意識を市民の間に形成していることなどである。そうした状況のなかでは、一握りの漁民や患者たちの困窮や生命の危機などはたいした問題ではなく、逆にチッソの存続を危うくするような事態をもたらす存在と考えられていたとしか思えない。
こうしたことは水俣市だけが責任を負うべきものではないだろう。水俣病を発生させた責任はチッソにあり、それを放置・拡大させていった責任は県や通産省・厚生省が大きく、水俣市の責任は権限からいって小さい。日本全体が近代化のルツボに投げ込まれたような、昭和30年代の農村や漁村の根こそぎの壊滅も、地方行政が負うべき責任ではないだろう。では水俣市は、患者や漁民の側に立って考え行動したか。責任が小さいことと、誰の立場を尊重して振る舞ったかは別の問題である。水俣市は住民や弱いものの立場に立って、できる限りのことはしたが、残念ながら成果はなかったのだろうか? 答えはNOである。全くないと言うと違うだろうが、1959年に水俣市が、患者や漁民ではなくチッソの存続を選択したことの責任は存在する。
(5)見舞金契約
①経過
59年(昭和34年)11月25日患者互助会は、チッソに対して「患者一人当たり300万円総額2億3400万円」を要求した。これに対してチッソは「厚生省発表では工場廃水と水俣病の因果関係は明らかにされていない」として、ゼロ回答をした。互助会は28日から座り込み(註43)を続行しながら、水俣市や議会に対して「市当局は誠意がない」と抗議した。また要求以前の11月16日にも「市・市議会は工場に味方している」と抗議している。12月16日の第3回紛争調停委員会で、患者補償を入れることとして、78人の患者に対して総額7400万円を支払うことを提案した。互助会はこれを拒否したが、中村市長の説得や市議会の勧告がなされた。12月29日に調停委員会より一時金2400万円年金5300万円と再提示され、互助会は12月30日にそれを調印した。
この調印の裏には、調停委側からの強力な圧力があった。事実県衛生部長や市立病院長が説得にあたった「この調停案を受入れなければ調停委は手をひくとおどかし、そうすればお前らは今後永久に一文ももらえない、これが最後だの機会だと繰り返し説得された」(註44)。「あんたら、これをのまんなら、わしゃ知らぬ(12月29日)」との県知事発言(註45)。
調停委員会の構成は「内務官僚あがりの県知事寺本広作調停委員長、その寺本と共にチッソ資本との親近性を問題にされた岩尾豊県議会長、『影の県知事』と噂されていた保守政界の実力者河津寅雄全国町村会長、それにチッソ城下町の中村止市長、保守色の濃い新聞『熊日』の伊豆常務顧問の五委員」(註46)であり、患者や漁民の味方になるような立場の人はだれも入っていなかった。この調停委員会については「その調停は、被告側(チッソ)の態度が強固であったことにもよるが、内容はともかく、早急に話をまとめようという姿勢で終始し、患者らの利益を擁護し、十分な補償を得させるための配慮には欠けるところがあった」(註56)という評価もある。
②その後
資料から見てみたい。
「見舞金契約に調印を急がされた患者互助会の人々の、その後の生活も悲惨なものであった。奇病時代からの差別は続き、中傷と病苦の中で孤独な闘いを強いられることになった。見舞金分限者という言葉からも察せられるように、嫉妬と中傷をまじえた感情から村落共同体の中で苦しみ、就職や結婚までも妨害されることもあった。この状態はずっと続き、1968年( 公害認定) 以後も続くのである」(註47)
「また死者30万円、子供年間3万円、一時金総額2360万円( 他に年金分が約6000万円) しかも、後で病気の原因はチッソと分かっても文句は言わないという、驚くべき反道徳的な見舞金契約を呑まされた。患者家族の頭上にも重い沈黙の雲がかぶさって、欺瞞的なサイクレーターの設置によって工場廃水の無害化を市民に信じこませ、その後八年間に渡って、猛毒なアセトアルデヒド廃水を流し続ける。被害民の運動は弾圧され、また契約書で金縛りにあい、その上、患者たちはわずかな見舞金と年金を会社から奪ったということで、水俣市の住民から嫉視され、疎外されて全く孤立し、病苦と貧窮と社会的差別の三重苦の底で息をひそめる」(註48)
「要するに本件見舞金契約は、加害者である被告が、いたずらに損害賠償義務を否定して、患者らの正当な損害賠償請求に応じようとせず、被害者である患者ないしはその近親者の無知と経済的窮迫状態に乗じて、生命、身体の侵害に対する補償額としては極端に低額の見舞金を支払い、そのかわりに、損害賠償請求権を一切放棄させるものであるから、民法第90条にいわゆる公序良俗に違反するものと認めるのが相当であり、したがって無効である」(註49)
③見舞金契約と市の態度
以上見てきたように、チッソと患者の間に結ばれた見舞金契約は、患者の窮状に付け込み、無理やり結ばれたものであった(註50)。この時点(1959年12月) で、チッソは細川博士の猫400号実験の結果・水俣食中毒部会の答申・熊大研究班の発表を知っていたし、また公式確認以前に出されているアセトアルデヒド製造と有機水銀の関係についての科学論文(註28)をチッソ研究陣が知らなかったことは有り得なかった。原因物質の確定が科学的に完全に究明されていないとはいえ、工場廃水と水俣病の間になんらかの因果関係があることは、すでに世論となっていたのである。更に契約後にも熊大研究班の研究があり、1968年9月の厚生省の公害認定を待つまでもなく、チッソの排水と水俣病の因果関係は明白であった。チッソの「原因物質が確定できない」「科学的に説明できなければ」が、言い訳に過ぎなかったことは、なんらの新しい発見を伴ったわけではない政府の公害認定に対しては、何らの反論をしなかったことからも理解されるであろう。
ここでの論点はチッソの態度というよりは、それに対する市の態度である。見舞金契約の草案を作ったのは県であり、契約締結を促進した調停委員に中村市長が入っていた事実から、県と市の責任は存在する。見舞金契約の評価は、一次訴訟判決の「公序良俗に違反する」で確定している。チッソのみが公序良俗に反したのではなく、調停委員全体がそうであったといえる。原因究明期後半に市がしてきたことと言えば、県への陳情を繰り返すだけであった。原因究明を口先では言いながらも、一方では59年11月市議会「工場の操業停止はしないように要望する」決議を出し、「公害防止条例」反対の陳情を県にする。結論がまとまって発表するばかりになっていた厚生省食中毒部会の有機水銀説にたいしては、市長自ら「有力な反証があるので結論は慎重に」と厚生省などに陳情して回った。これが市の態度であった。患者の救済は二の次三の次だったのである。
(三)原因究明期の総括
果たしてこの時代を「原因究明期」とすることが適当であろうか? 奇病・水俣病患者が多数発生し、それが死に至る病であることが分かっており、原因も57年初頭にはチッソ水俣工場の廃液に汚染された魚介類ではないかと疑われている。チッソや行政が人間の生命を第一としたならば、排水停止・魚介類の捕獲禁止をしたであろう。何故そうはならず、これ以降何年も廃水が垂れ流されたのか?
チッソが第一次世界大戦、朝鮮侵略、第二次世界大戦、朝鮮戦争などを契機に、肥え太ってきた一種の国策企業ということはよく知られている。また「この国のアイデンティティは、少なくとも次の四つの要因によって規定されている。すなわち①戦争中の挙国一致の戦争遂行体制と軍事的観点からする工業と経済の合理化、②米占領軍の諸政策、③五十年代米国の対ソ冷戦戦略、④アジアにおける米国の戦争。この軍事的枠組みのなかでのみ、戦後日本資本主義の“奇跡の復興”とか“経済大国”なるものは可能だったのである」(註51)という分析と併せると、戦時対応能力をもつチッソに水俣市や熊本県が規制をなしうるはずもなく、只々国に陳情するのが精一杯の行動であったともいえる。それもチッソの顔色を見ながらである。
それゆえここでは、水俣市や熊本県がなしえた「市伝染病舎や熊大医学部付属病院に入院させ、公費による治療が受けられるようにするなどの対策をとった。・・・苦しい生活を余儀なくされた人たちに対しては公的扶助を適用するなどの対策を講じた。県では漁民救済のため・・・世帯更生資金制度による融資を・・・就職のあっせんなどの相談に応じた。・・・浅海増殖事業を実施し、さらに他海域へ入漁させることにした。・・・近海漁業出漁(対馬のイカ釣り漁)および真珠貝の養殖を指導奨励した」(註52)ことを皮肉ではなく、この時代にはこれほどの大事件に対しても、この程度の地方行政しかなかったことを確認するに止めておきたい。
また不知火海漁民闘争に対して、地方社会党やチッソ労働組合が「暴力反対」と非難したことを、秩父困民党の蜂起に対して自由民権をうたった自由党主流の非難に重ね合わせることで、庶民の実感をもってする改革が、いかにこの国で難しいかを知ることができる。「水俣市の労働者、市民が孤立の極みから歩み寄ってきた漁民たちの心情にまじわる唯一の切迫した時がやってきていたのであったのに。この時”労農提携“、”農漁民との提携“、”地域社会との密着した運動“をかかげる前衛たちの日常スローガンはあっけなく一片の反故と化した」(註53)。こうしたエピソードの意味するところは、漁民たちが立ち向かっていたものが、いかに巨大であったかを表している。
廃水を停止し漁獲禁止をすれば被害拡大は防げた。この事の確定にさえ、この後、一次訴訟の判決まで14年もかかるのである。だから問題は「するべきことをしなかった」ことを批判するのではなく、「そうできなかった(しなかった)理由を探すこと」のなかに、住民の幸せを第一とする地方行政はどうすればできるのかを考える契機がある。
水俣病事件の歴史は、患者団体の分裂の歴史である。今日20をこえる患者団体があり(註54)、「何故こんなに多数あるのか? 同じ要求ならば何故ひとつにならないのか?」という疑問が市民から出ている。また市民の会の「水俣病の早期解決」の陳情に対して、国からは患者団体が分裂していることが「和解・早期解決」にならない理由に上げられている。市民の疑問も国の主張も、どちらも分裂の理由を患者および団体に求めている。しかし患者側すれば、チッソ・行政および市民からの圧力があればこそ分裂させられていったという認識がある。この認識にはまたそれぞれ意見があるが、ともあれ最初の患者団体はひとつであった。それが20幾つにも分裂していく理由は、外因と内因の両方向から考察されなければならない。
水俣病にたいして、今なお残る「ウツル」は単に伝染病のなごりではなく、水俣病差別と考えるのが妥当であろう。初期に伝染病の噂が完全に否定されなかったことに加えて、患者や漁民たち被害者が孤立させられたことが、噂や陰口が差別になっていったもとであることを指摘しておきたい。この点では水俣市に大なる責任が存在する。勿論この当時は、差別に対する認識も取り組みも現在とは比較にならない状態ではあるが、見舞金に対する妬みや中傷を放置したことによって、患者と家族は絶望的な状態にあったこともたしかなことである。
(四)資料
(1)「新水俣市史」下 P5~13
(2)「水俣病」有馬澄雄編 青林舎 1978年 P170
(3)IPCS環境保健クライテリア P5(資料3ー3)
(4)「水俣病」原田正純 岩波新書 72年 P20
(5)奇病対策委員会メモ(資料2ー5)
(6)「公害の政治学」宇井純 三省堂新書 68年 P42
(7)熊本日日新聞56年11月7日(資料2ー7)
(8)「水俣病」有馬澄雄編 年表)
(9)熊本日日新聞76年4月25日(資料2ー9)
(10)「水俣病」有馬澄雄編年表
(11)「ある町の公害物語」鈴木東民 1973年 Pi
(12)「日本の公害経験」 地球環境経済研究会 (資料2ー12)
(13)「渡辺栄蔵の記録」色川大吉 東京経済大学 88年
(14)「苦海浄土」石牟礼道子 講談社 69年 P211
(15)「水俣病問題の15年」チッソ 70年 P81~82
(16)「水俣病」熊大医学部水俣病研究班 66年 P194~5
(17)「水俣病」有馬澄雄編 P35
(「熊本医学会雑誌31巻」資料2ー17)
(18)「水俣病問題の15年」 P33~196
(19)「水俣病」原田正純 P62~64
(20)西日本新聞57年2月4日(資料2ー20)
(21)「水俣病問題の15年」 P92~98
(22)朝日新聞59年7月14日(資料2ー22)
(23)西日本新聞59年11月8日(資料2ー23)
(24)不明 59年11月11日(資料2ー24)
(25)熊本日日新聞59年11月13日(資料2ー25)
(26)「有機水銀説に対する当社の見解」(資料2ー26ーA)と、比較資料として「水俣病」有馬澄雄編(資料2ー26ーB)
(27)「水俣病」有馬澄雄編 P420
(28)「日本のアセトアルデヒド生産と水俣病発生」(資料2ー28)
(29)「水俣病」有馬澄雄編 P156
(30)熊本日日新聞58年7月8日(資料2ー30)
(31)旧「水俣市史」 P504
(32)「判例時報」696号 1973年 P79
(33)「水俣病」有馬澄雄編 P170
(34)旧「水俣市史」 P398
(35)「水俣の啓示」下 P184~196
(36)「水俣病問題の15年」チッソ P160
(37)「水俣の啓示」下 P116
(38)同 P117
(39)同 P225(資料2ー39)
(40)朝日新聞59年11月6日(資料2ー40)
(41)熊本日日新聞59年11月25日(資料2ー41)
(42)一次訴訟判決文 9分冊Lb-3~Lb11(資料2ー42)
(43)熊本日日新聞59年11月29日(資料2ー43)
(44)「国会からの証言」馬場昇 エイデル研究所 P230~232
(45)季刊「不知火海」5号
(46)「水俣の啓示」下 P142
(47)「国会からの証言」 P236
(48)「水俣の啓示」下 P144~145
(49)一次訴訟判決 Lb21~26・49~52(資料2ー49)
(50)「国会からの証言」 P232~235(資料2ー50)
(51)「野蛮としてのイエ社会」関ひろ野 御茶の水書房 P317
(52)新「水俣市史」下 P824(資料2ー52)
(53)「苦海浄土」石牟礼道子 P210
(54)水俣病歴史考証館パネル(資料2ー53)
(55)「水俣病」有馬澄雄編 P181
(56)一次訴訟判決文 Lbー50
(57)朝日新聞57年3月9日、この風景は59年と73年にもみられることになる(資料2ー57)
(58)熊本日日新聞57年1月7日(資料2ー58)
(59)西日本新聞59年8月1日(資料2ー59)
【空白期】
(一)この時代の概要
①はじめに
水俣病における空白期は、1959年末にチッソのサイクレ-タ-が完成し、水銀の流出がなくなったとされ、水俣病患者への補償は見舞金契約で完了したと考えられた時から始まった。また、熊本大学徳臣晴比古らにより1962年3月「1960年までで患者発生は終熄」(註1)と発表したことにより、水俣病は以後発生していないことにされた。62年に16人の胎児性患者、64年に6人の小児性患者が認定された後は、69年5月まで1度も審査会は開かれず、したがって、1人の患者も認定されなかった。しかし、この時期、60年にはチッソのアセトアルデヒド生産はピ-クを迎え、廃水はほぼ無処理で流されていたのであった。
59年の漁民闘争を担った人々が逮捕、起訴され、漁民が黙らされていったと同時に、患者は水俣病終熄という神話の中でその存在を消されていく。水俣病が市民に意識されるときはほとんど、見舞金などの金がらみによるものだった。このような閉塞状況が打ち破られるのは、65年5月の新潟水俣病が発生し、68年に政府による公害認定が行なわれた時であった。
②時代の特長
1960年、「10年間で農民の6割を減らし、所得を倍増する」という言葉と共に池田勇人首相が登場する。「政府は国際競争力強化、輸出の増加を大義名分にみずからの保持している経済力を総動員して、基幹産業といわれる重化学工業を中心とする大企業の設備投資に積極的な援助を行なった。税制面では各種の租税特別措置による減免、財政面では港湾や道路や工場敷地造成など産業基盤づくりにサ-ビスする公共投資・・・など、至れり尽くせりの大企業保護を行なったのである」(註2)
③水俣の動き
この時代の高度成長政策は、そっくりそのまま水俣でも行なわれた。石油化学への転換という国家の要請を受け、行政から様々な優遇措置を受けながら、チッソはがむしゃらに旧来工程で生産をあげていった。水俣工場をスクラップ化し、利潤だけ持って、千葉の近代工場へ飛び立とうとしていたそのとき、チッソの足に絡み付いたのが、自らが引き起こした水俣病であった。
命と生活を破壊され、ぎりぎりのところまで追いつめられて、立ち上がった漁民と患者だったが、国家という後ろ盾を持ったチッソの前に対し、彼らの力はあまりにも弱かった。「チッソあっての水俣」というスロ-ガンのもとに水俣市の中で圧倒的少数であった漁民、患者は差別と抑圧と貧困によって口を封じられた。以後、68年の政府による公害認定まで水俣市にとって水俣病はまるで見えないもののように扱われた。
医学的には水俣病の原因究明が進められ、1959年には熊大によってメチル水銀が突き止められていたが、政治的、社会的には無視され、対抗する学説によって中和されて、原因はあいまいにされた。また、水俣病終息35年説によって、患者の調査もほとんど行なわれなかった。県衛生部が不知火海周辺地区の住民の毛髪水銀調査をおこなったが、その結果は全く無視された。また、毛髪水銀値から不知火海の水銀汚染は続いていることがうかがわれたが、それ以上の調査はおこなわれなかった。
チッソが鳴り物入りで登場させたサイクレ-タ-は、水銀除去には役にたたないものであったにも関わらず、水銀の流出はないと世間の目をあざむいた。そのことを通産省は知っていたがチッソの廃水を止めることは経済成長に悪影響を与えるため、何ら指導を行なわなかった。環境保全への投資をせず、公害を引き起こしたからこそ、日本の高度経済成長は成しとげられたのである。高度成長政策の中で第一次産業は切り捨てられ、漁協はチッソの海の汚染に対抗する組織としての機能を果せなくなっていった。
労働者も使い捨てにされた。安全という概念のない前近代的工場で使い回された挙句、近代化の波は真っ先に地元採用の労働者の首切りとなって襲ってきた。石油化学転換に不可欠な合理化を遂行するためにチッソが引き起こした争議が安賃闘争であった。しかし、この闘争によってチッソに柔順だった労働者は水俣病患者に出会うことになった。
(二)主要な事件
(1)サイクレ-タ-
①経過
1958年9月、チッソは廃水経路を変更し、アセトアルデヒド酢酸廃水を八幡プ-ルを経て、水俣川河口に流し始めた。このため天草や津奈木、出水などにも患者は発生し、汚染は不知火海一帯に広がった。漁民の度重なる廃水浄化と漁業補償の要求などによって水俣病の被害は社会問題化した。通産省も重い腰をあげ、1959年10月21日にチッソに対し、水俣川河口への廃水放出を止め、年内に廃水浄化装置をつけることを指示した。こうして1959年12月19日に完成したのがサイクレ-タ-を中心とする廃水処理設備である。しかし、サイクレ-タ-は一応工場廃水の処理設備であるが、その目的は実は、廃水中のアセチレン発生残渣を分離し、59年末につくられた新日本化学に供給する原料回収であった(註3)。また、サイクレ-タ-に水銀除去機能がないことはサイクレ-タ-製作者の荏原インフィルコ研究課長(当時)井出哲夫が裁判の証言の中で明らかにしている。「依頼の対象排水は、カ-バイド工程、リン酸製造工程、硫酸製造工程、石油ガス化工程の4種の排水のみであり、水銀を含むアルデヒド製造工程、塩化ビニ-ル製造工程の廃水は除外されていた」「打ち合わせの際、チッソの技術者に『サイクレ-タ-で水銀をとることは考えなくていい』と言われた覚えがある」「このような、サイクレ-タ-の機能、そしてメチル水銀は除去できないことは、多少の化学の知識があるものにとっては常識であり、チッソの技術者や通産省の技術者なら当然わかることである」(註4)。
1960年を迎え、水銀の不知火海への排出はなくなったとされる中で、チッソの水銀放出は続き、完全に放出が止まるのは1968年にチッソがアセトアルデヒドの生産を止めた時である。
②まとめ
62年に再び市長の座についた橋本は、戦前のチッソの工場長であり、アセトアルデヒド工程を開発するような優秀な技術者であった。その橋本にサイクレ-タ-が世間を欺くものであることはすぐに見破れるはずである。にもかかわらず、規制のために廃水の調査や指導を行なったことはない。市議会で、63年8月初旬から漁協が水俣湾内漁獲禁止を一部解除したことにより、市民が潮干狩に繰り出しているが、大丈夫なのかという議員の質問に対して、橋本は「漁民がですね自主的に禁止をしておるわけで、こっちから禁止せれとは言えない」(註5)とまともに取りあわない態度で答弁している。チッソによる環境汚染について市が対策をし始めるのは、1964年からで、しかも水銀以外についてであった。水俣市の文書「公害対策について」で、市は「水俣市の公害はチッソ水俣工場が・・・最たるものであるが、その実態は現在まで公的に市全般に渉る調査検討がなされたことはなく、只地域住民の陳情により個々に調査し、対策を講じてきた程度であった。ところが公害と目される水俣病の発生を見て以来、全市民の公害に対する関心は切実なものとなり・・・昭和39年9月市議会内に公害対策特別委員会が設置され、市においては衛生課環境衛生係に公害対策部門を設け、積極的に対策に当たることになった」(註6)と述べている。64年から65年にかけての県衛生部の水俣市および全国の降下煤塵量、亜硫酸ガス濃度調査結果は、水俣市3か所の平均煤塵量が川崎、八幡、尼崎などの工業地帯をはるかに上回り、亜硫酸ガス濃度も八幡、四日市、大牟田を越えていると報告している。(註7)
チッソによる環境汚染のひどさはもちろんであるが、市が1964年に至までなんら積極的な公害対策、住民保護策をとらなかったことに驚く他ない。チッソによる環境破壊はそれ以前から地域住民に大きな影響をあたえていたにも関わらずである。これが健康福祉都市を目指すという市の姿勢であろうか。市がおこなっていたのは、むしろ税金面でのチッソへの優遇措置であった。公害対策特別委員会は、チッソに対して対策を申し入れた。66年、市民からの通報で八幡プ-ル秘密排水溝の摘発を行なったが、チッソ再建を重要視する市政の中で68年にいたるまで目立った動きがなくなっていく。
(2)原因物質メチル水銀の確定
①経過
空白期において、積極的におこなわれたのは、水俣病の原因のあいまい化であった。1959年7月、熊本大学が有機水銀説を発表した。しかし、事実を薄め、効力を失わせるための反論がチッソや化学工業界から次々に出されていった。それらは科学的根拠が乏しいものであったが、有機水銀説を相対化するのには充分な効果を持っていた。公的にメチル水銀が水俣病の原因と認知されるのは、熊大の発表から9年後の68年の公害認定によってであった。
このような反論がなされた背景には、高度成長政策を押し進めるために通産省は電気化学工業から石油化学工業への大転換をめざしており、臨海工業地帯のコンビナ-トが次々スタ-トしていた。水俣病はチッソだけでなく石油化学化を進める国や化学工業会全体にとって大きな障害となったことがある。
チッソは工場内の実験で廃水が原因ということが明らかになってきたので60年以降はもっぱら外部の組織を利用して反論を行なわせている。通産省指導下で経済企画庁がつくった水俣病総合調査研究連絡協議会(以後協議会)や東大名誉教授の田宮猛雄を長とする田宮委員会などがその組織である。協議会は、厚生省によって解散させられた水俣食中毒部会にかわって設置された政府の水俣病研究機関であり、田宮委員会は「産業廃水委員会(委員長安西正夫氏)の中に塩化ビニ-ル酢酸特別委員会を設け、その付属機関として田宮医学博士を中心とした田宮委員会がある」(註8)。
ちなみに委員長の安西正夫は当時、新潟水俣病の原因企業である昭和電工の社長であった。中央の役所や大学教授の権威を利用するやり方はチッソの常套手段である。「チッソ側は水銀説と非水銀説の対立を一層際立たせるため、『地方対中央』の構図を利用した」(註9)。
これらの組織は、水俣病の原因究明を遅らせる一定の役割を果した後、ほとんど報告も出さずに消滅した。
原因物質としてのメチル水銀が確定するまでの流れを見たい。
1956年11月3日 熊本大学研究班、マンガン説発表
57年4月 熊大喜田村、セレン説発表
58年5月 熊大宮川、タリウム説発表
58年9月26日 熊大研究班報告会で武内忠男「水俣病の病変はハンタ-=ラッセルの有機水銀中毒例と一致」と報告
59年7月22日 熊大研究班「水俣病は、現地の魚介類を摂取することによって惹起される神経疾患で、毒物は水銀がきわめて注目される」と公式発表
59年8月5日 チッソ「所謂有機水銀説に対する工場の見解」発表
59年8月29日 東工大清浦雷作、水俣湾の水質調査結果発表「水俣湾内を除き、水銀溶解度は同種工場付近と大差なく有機水銀説は速断」
59年9月28日 チッソ「有機水銀説の納得し得ない点(要約)」と発表
同日 日化協理事大島、爆薬説を主張
59年10月6日 チッソ付属病院院長細川一の実験でアセトアルデヒド廃水直接投与猫400号発症、数日後に細川は技術部幹部に報告
59年10月23日 水俣食中毒部会鰐淵代表、調査結果から日化協やチッソの爆薬説は事実に反すると記者会見
59年10月24日 チッソ「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解第1報」発表、有機水銀説に反論、爆薬説主張
59年11月2日 チッソ「水俣病原因物質としての有機水銀説に対する見解」および「水俣工場の廃水について-その歴史と処理および管理」発表、猫400号実験のデ-タを隠して反論
59年11月11日 清浦雷作「水俣湾内外の水質汚濁に関する研究」通産省に提出、廃水が原因とは断定できぬと結論
59年11月12日 食品衛生調査会、厚生大臣に「水俣病原因物質は湾周辺の魚介類中のある種の有機水銀化合物による」と答申し解散
59年12月8日 アメリカ カ-ランド、有機水銀説を支持する結論を朝日、毎日新聞に掲載
60年1月9日 水俣病総合調査研究連絡協議会、経済企画庁を主管に発足、4回の会議開催後61年3月消滅
60年4月8日 田宮委員会、日化協内に発足、63年7月11日田宮猛雄の死で自然消滅
60年4月12日 清浦雷作、連絡協議会でアミン中毒説を報告
60年9月29日 熊大宮川死亡、タリウム説消滅
60年9月29日 連絡協議会で熊大内田「水俣湾産貝から含硫有機水銀化合物の結晶体を抽出」と発表
61年春頃 チッソ細川らによるアセトアルデヒド設備精ドレン投与実験で猫発症
61年6月 東邦大木戸田東邦医会誌391において、腐敗アミン説を展開、熊大有機水銀説に反論、64年7月2日戸木田の死により腐敗アミン説消滅
61年7月 チッソ技術部、ペ-パ-クロマト法で精ドレン中にアルキル水銀化合物を確認
61年暮 チッソ技術部、精ドレンからメチル水銀結晶体を抽出
62年8月 熊大入鹿山、日新医学42でチッソ酢酸スラッジから原因物資と考えられる塩化メチル水銀を抽出と報告
62年9月 前熊大瀬辺が日新医学397で、工場内で有機水銀化合物ができているとしか考えるほかないことを指摘
63年2月20日 熊大研究班、水俣病原因で正式発表、「原因は水俣湾産魚介類を摂食して発症、毒物はメチル水銀化合物で貝および工場スラッジより抽出、両抽出物質はわずかに構造式にくい違い、今後の検討」(註10)
②まとめ
熊大を中心とする原因究明の努力を水俣市はどう受け止めていたのであろう
か。
59年には水俣病の原因物質は突き止められ、63年にはメチル水銀はチッソ工場内で発生することが解明したにも関わらず、水俣市はそれらの報告を受けて、何らかの行動を起こしたとは認められない。市報から市の動きを見ても、各地から来る水俣病患者へのお見舞の仲介を(註11)する程度である。公に公害の原因がはっきりしたにも関わらず、地元行政がしたことがあまりにも少ないということこそが水俣市のとっての水俣病の問題なのである。できなかった原因はまず、第1にはチッソとの関係であろうし、次には国-県という上部との関係で市独自の行動がとれなかったという点もあろう。しかし、地域住民の健康と安全は、国や企業は守らないということが水俣病でよくあらわれているのである。
熊本県衛生研究所の松島義一は前年の熊大、喜田村、徳臣の患者家族を中心とした毛髪水銀調査をもっと大規模に行なう必要性を感じ、60年10月18日から62年にかけて不知火海沿岸住民の毛髪水銀調査をおこなった。「毛髪の採集は、保健所や各市町村の衛生課を通じて行ない」(註12)。
第1回収集では、水俣市、津奈木町、湯浦町、芦北町、田浦町、御所浦町、竜ケ岳町、姫戸町が対象になった(註13)。「分析はジチゾン法によりました。・・・検査結果がまとまり次第、市町村毎にコピ-をとり・・・関係市町村あてに送付していました」(註14)
3年間にわたる調査で2700人以上の住民の毛髪水銀値(註15)が調べられたが、その結果が生かされることはなかった。水俣市においてもこの調査が使われた形跡はない。これが発見されたのは、川本輝夫らが起こした行政不服審査請求の中で71年、ジャ-ナリストの宮沢信雄によってであった。松島は調査第1報の中で、前年の喜田村ら調査と比較して「水俣地区に於ける健康者の水銀量は・・・全体に於て50~100PPMの方向に移動の傾向が窺われる。このことは本地区住民が水俣病に対して多大の関心を示した結果、100PPM以上の高度の含有者が減少したにも関わらず、一般に摂取される魚介類には水銀汚染の度が高まりつつあることを示すものではないだろうか」と考察している。
これはチッソによる水銀排出が続いていることを如実に示している。また、新患者の発生を見なくなったといわれていたが、このデ-タを見れば、かなり水銀値が高い住民が多数存在している。このときに追跡調査をしていれば、少なくとも後の膨大な未認定患者を生み出すことにはならなかったと思われる。地域住民の健康危機を示すデ-タを死蔵し、活用しなかったことは、国、県だけでなく市もその存在を知っていたということで責任があるのである。この時期、健康福祉都市建設を標榜する水俣市が何をしていたかといえば「(昭和)38年10月には、市立病院開設10周年を迎え、12日から3日間全市をあげて『健康福祉まつり』催した」(註16)これについての記事は市報にもあるが、水俣病には一言も触れられていない。(註17)
(3)胎児性水俣病
①経過
水俣病多発地区に脳性小児麻痺のような症状を持つ子供が多く見られることは、1958年頃から注目されていた。チッソ付属病院の細川や開業医松本、市川によって初めてこのような子供が水俣病との関連で診察を受けたのは58年2月、湯堂においてであった。熊大もこの事実を重く見て、喜田村、長野らが調査にあたった。
その結果、「中毒原因物質が胎盤血を介し、あるいは母乳を介して移行し、類似の病状を呈せしむるにいたったとの可能性も考えられるが、母親はいずれも健康であり、病状に気づいた時期が出生以後いずれも3カ月以上経過してからのことであり、この点も無論断定できないのである」(註18)とし、原因については慎重な態度をとっているが、水俣病の原因物質そのものが確定していない時期であり、無理はないであろう。やがて「水俣市多発区の全出産に対する脳障害児の発生率は、最高で7.4%であった。通常、日本では0.002~0.23%、最高で0.59%である」(註19)ということから、喜田村らは一般の小児麻痺とは異なると考えた。熊大小児科による研究では、「原因は在胎中にある、疫学的には水俣病と関係が深い、患児の毛髪水銀量が高い」としながらも、「母体は健康であり、他の子供の毛髪にも水銀含有量が多い」(註20)ことから水俣病との関係については断定できないとした。
その後の熊大原田正純らの「さまざまな原因による脳障害児の症状は、ばらつきがあるが、水俣の患児の症状は同一疾患による同一症候群で、多彩な感じを受けるのは症状の程度の差である」(註21)という研究によって62年には胎児性水俣病は確信されるようになった。61年3月に1人の胎児性患者が死亡し、解剖の結果、認定された。しかし、他の子供についての認定は、62年9月のもう1人の胎児性患者の死を待たなければならなかった。
62年11月に2人目の解剖結果が出、熊大竹内、松本は「これら脳性麻痺と考えられていた患者はメチル水銀が胎盤を経由して起こった中毒である」(註22)と発表。また、原田正純は「いまなお生存している残りの16名の患者達も・・・同一原因による同一疾患と考えられ」(註22)と補足した。こうして世界で初めて、胎児性水俣病は解明された。
②まとめ
年表には、59年10月20日に「熊大貴田丈夫小児科教授・徳臣第一内科助教授ら・市研究委(水俣市奇病対策委員会が改称)、水俣病多発地区の発育不全の幼児15人を総合診察、検討」(註23)とある。また、「そのころ(61年)の調査といったら、市役所に調査をしたいと申し込むと、市役所の人がかけずり回って、患者を市立病院や公民館に集めてくれるのであった」(註24)
水俣市の態度は、この当時、医学的な調査において非協力的ではなかった。しかし、胎児性水俣病の存在の前に水俣病多発地区において死産、流産が多発していたことを水俣市は把握できなかったのであろうか。地域毎の健康状態のこまめな実態把握こそが地元行政がなしうることではなかったか。
また、62年11月に2人目の解剖結果が出て、問題となっていた脳性小児麻痺患者全員が水俣病と診断される可能性が出、後は水俣病認定のための診査会が開かれる必要があった。その時、原田正純は母親達に市役所に早く診査会を開くよう陳情するように勧めたが、その時の市の回答は「よく来てくれました。こちらも大変みなさんのことを気にしていたが、こっちから催促するわけにもいかなかった。今、大きな争議がおこっているのでそれがおわってからと思っていたが、今日こうしてみなさんが押しかけてみえたので、市としても県に働きかけやすくなりました。」(註25)というものだった。同じく「水俣病」によれば、原田の往診に対して初期は、母親達から強い不信、恨みの言葉を浴びせられた。これは、それまでの市立病院、熊大などでの診察が威圧的であったり、何度診察、検査をしてもいっこうに結論が出ず、治療もしてくれないということからくるものであった。子供の付き添いで病院に行くにも仕事を休まねばならないということが、生活苦にあえぐ患者家庭にとってどういうことなのか。ここから見えてくるのは、自らは動かず、あちこちから押されてようやく腰をあげる市の消極的姿勢である。
健康福祉都市を56年から標榜していた水俣市にとって、水俣病は市の姿勢を問う試金石であったが、水俣病患者の一番そばにいた行政として、したことはあまりにも少ない。
(4)安賃闘争
①経過
1962年、合化労連新日窒水俣工場労働組合の春闘の中での賃上げ要求に対して、会社側は安定賃金制の実施を表明した。組合、会社側の主張は平行線をたどり、組合のストライキに対してチッソは7月23日、全面ロックアウトを強行した。ロックアウト6時間後には新日窒水俣工場新労働組合(以後第二組合)が生まれ、町を二分する大争議となった。合化労連新日窒労働組合(以後第一組合)の組合員が地元出身の農民が中心であったのに対し、第二組合は水俣以外出身の高・大卒者が占める係長・主任クラスが中心であった。争議は63年1月に事実上、第一組合の敗北として終息した。
しかし、安賃闘争はチッソ城下町水俣において、単に一企業の労働争議に留まらなかった。親兄弟を初めとする地縁・血縁関係に入った亀裂、支援組合による商店の色分け、争議の長期化による購買力の低下、下請け企業の休業・解雇、市税の減収など市民および水俣市に大きな傷を残した。
この争議の背景には、チッソの石油化学への転換を見据えた徹底的な合理化計画があった。それは、通産省の提唱するスクラップ&ビルド方式を受け、旧来工程で水俣工場でのアセトアルデヒド生産を最大限行ない、水俣工場はスクラップ化し、その後は千葉県に建設する最新鋭設備によって生産を行なっていく。石油化学への転換に不可欠な合理化のために組合からスト権を奪って骨抜きにするというものであった。
チッソは、1961年の水俣市の人口4万8千553人の内、「当社の従業員とその家族は、約3分の1近くを占めている。また、市の税収入約2億6千万のうち約半分は当社で負担している」(註26)と述べている。また、直接チッソと雇用関係にある労働者・家族と下請け業者の家族まで合せると、人口の約半分となり、商店などもチッソの景気に左右されることを考えれば、いかに水俣市がチッソに依存していたかがわかる。それだからこそ、安賃闘争は市民全てを巻き込んだ大争議になったのである。
労使が地区労の斡旋案を受け入れ、争議が終了した後もチッソおよび組合間の対立は続いた。斡旋案はチッソの安定賃金制を基本的に認めたもので、チッソは合理化を強引に押しすすめた。そのやり方は第一組合に対し、配置転換、希望退職の強制、子会社への移動、自宅待機などという報復的な攻撃の形をとった。このような被差別の体験を通じて、第一組合の労働者の目がようやく水俣病に向けられていった。1959年の漁民闘争や患者互助会の座り込みの際には組合員も「おっどが会社ばいっ壊しとって、ひいては、おっどが飯茶碗ば叩き落とすとは何ことか」(註27)という意識で工場擁護に回ったが、自らの体験を通して、チッソの人間性無視の体質が水俣病を引き起こしたことに気づいた。第一組合は68年8月30日、組合定期大会において、これまで「何もしてこなかったことを労働者の恥とし、水俣病と闘うことを・・・決議した」(註28)という「恥宣言」をおこなった。水俣市は、62年7月26日、市議会を中心に「新日窒争議対策委員会」(会長橋本彦七市長)を作ってこの争議に対応しようとした。同年8月中に「水俣工場争議解決促進大会」を開催。また、県や地区労に対して斡旋乗り出しを要請したが、チッソの拒否により斡旋は暗礁に乗り上げた。
市にとってチッソの長期の争議は市税収入のマイナスとして表われた。「昭和36年度から引き継いだ総額9千数百万円に達する赤字が・・・さらに財政的重圧となっており、新日窒争議による打撃は予想外に大きく、市税の減収、給与改定、生活保護基準の引き上げなど、38年度の前途も赤字財政の危機はなお去らず、健全財政への道はほど遠いものを思わせた。」(註29)しかし、水俣市は財政がこのような危機的状況に陥っても、チッソに対する税の優遇措置を見直すことはなかった。
ここで、この時期の市のチッソに対する優遇政策を見てみたい。世間を欺くサイクレ-タ-稼動の裏でチッソのアセトアルデヒド生産は1960年にピ-クを迎え、45244.7トンに達した。チッソの市税納付額もピ-クに達し、1億863万円、全体の約48%を占めていた。しかし、これ以降納税額は低下し、「64年には7087万円に低下し、70年には市税総額の19.29%を占めているにすぎない。」(註30)前述したスクラップアンドビルド政策から、チッソ水俣工場のスクラップ化と他部門への設備投資が進められ、水俣工場の利潤が計上されてこないため、60年から70年までの11年間のうち8年間、法人市民税を均等割の1000円(のちに7000円)しか納めていない。(註31)
また、固定資産税の課税基準の評価額も市内中心部の評価額に比べて不当に低いと言える。前述の船場論文では、「(チッソは)傍系のチッソ吉野石膏の新設に当たり、税務課の職員が坪6000円と評価したところ3000円で譲渡したのだからそのように評価仕直せとして、その言い分を通したことがある。」という例が紹介されている。(註32)
チッソの納税額は減少していくにも関わらず、市のチッソに対する優遇政策は、相変わらず続けられた。1960年、新日本化学が水俣へ進出した際、新日本化学からの陳情によって、中村市長は固定資産税を3年間減額する工場誘致条例案を市議会で提案し、可決されている。(註32)この条例の制定にはチッソからの要請も折にふれてあったこと並びに条例に該当するのは、チッソと新日本化学であると当時の勝谷実行商工観光課長が市議会で述べている(註33)。
(註34)
チッソのためにあると言っていい工場誘致条例はさすがに議会でも問題になり、63年9月第5回定例議会で共産党の元山弘議員から「この水俣工場誘致条例に基づく施策の結果は産業の伸展と発展という美名のもとに日窒や新日本化学などの一部の独占企業だけが多額の固定資産税を減税されその利益の増大が保障され、その反面名もなく貧しい善良なる市民は生命を絶たれ、不具者にされ、漁民は漁場を奪われ、労働者は首を切られ・・・逼迫した地方財政をさらに深刻なものにし・・・さらにこの工場誘致条例が問題になりますのは・・・地方税法に違反するものであると私は考えます」という発言に橋本市長は「私としては前任者のおやりになったことには、まあ触れたくないんでありまして・・・検討すべきじゃないかというふうにも私はほのかにですね、そういう感じもしないでもなかったんですね・・・一番大きな新日窒とか・・の問題になりますと、私がとやかく言うと、また妙なあれになりますので、一切触れぬようにしております」(註35)と、全くやる気のない答弁をしている。
しかし、66年になると、橋本市長は「ここでさらに誘致条例を継続するということは、・・・市民感情からいっても、また実質的にも、あまり好ましくないと、したがってもう廃止すべき時期であろうと」(註36)と条例の廃止にがぜん積極的になった。これは前年、チッソが発表した塩ビ製造工場のスクラップ化と人員大幅削減、子会社の設立を骨子とした合理化5カ年計画に添ったものと思われる。67年3月、市長は議会に「水俣市工場誘致条例の全部を改正する条例制定について」という新たな工場誘致条例案を提出した。(註37)新条例の狙いは、チッソが安賃闘争後の合理化のために従業員配置転換先として67年設立した(創業10月5日)チッソプラスチックスを優遇するためと考えられる。新条例の適用基準に、資本金5000万円のチッソプラスチックスの会社規模はそっくり当てはまるのである。(註38)この改正案はいったん否決される。同年9月に再提出され、議会で革新系議員から「チッソの配置転換に協力するものだとの批判が強く出され」(註39)「雇用の増大とは、新設または増設に伴い、従業員が増員されることであり、単に同一資本同一系統の企業から当該工場に使用する従業員を充当することを含まない」(註40)という条項をふくんだ修正案が出された。
しかし、これに対して斉所市郎、淵上末記議員が強力に反対をおこなった。「チッソが再建するために、私どもは経営者も従業員も市民も一丸となって、チッソの再建に協力をし、そうすることが、市の恒久的な発展策になる」、「現在水俣チッソが5カ年再建計画をやっておる合理化をいたしまして、実際危機になっておるこのチッソの再建を実ははかっていらっしゃるわけでございます。ここに四項の条例が生れますならば、結局この配置転換というものができなくなる、そしてこのチッソの再建合理化に市の意志が反対していくと、かような状態になるのでございまして、こういう字句の挿入につきましても、また絶対反対であります」(註41)
修正案は2票差で否決され、原案は賛成多数で可決され、水俣市のチッソへの協力体制がまた新たに整備されたが、「誘致事業は、チッソと関連のない明邦興業(株)などの新規企業と、チッソの合理化(従業員削減)対策として進出、または誘致された企業を合せて多数におよび、企業誘致は一応の成果をみた。しかし、人口の増加を促進するまでには至らなかった」(註42)と市の思惑どおりに事は進まなかった。それどころか、前年度と比較して67年918人、68年1244人、69年2013人、70年1971人と大量の人口減少が起こった。70年には人口約3万8千となり、4万人を割り込むのである(註43)。この時期これだけの人口減少はチッソの合理化による人口流出に他ならない。
②まとめ
第一組合の安賃闘争を押し潰したチッソは、労働者に対し、首切り、配置転換という脅しをかけながら、かねての計画どおり合理化を進めていった。チッソによる差別と抑圧の中で第一組合は、同じくチッソによる被害を受けながら、長い間口を封じられてきた水俣病患者と出会っていく。それは、新潟水俣病の発見と共に、水俣病の暗黒の時代と言うべき「空白の8年間」を突き破る前ぶれだった。
第一組合は安賃闘争を通じ、自らの痛みの中から「恥宣言」を獲得することができた。水俣市も組合を選挙母体として登場した橋本市長を抱き、チッソの本質が表われた安賃闘争に関わったわけだが、残念ながら市の姿勢に大きな変化は感じられない。水俣を植民地視し、そこからの収奪が完了して撤退しようとするチッソに、市はむしろ積極的に協力した。挙句の果てに起こったのは、さらなる人口流出、財政危機であった。安賃闘争は、水俣市がチッソの地域支配から自立する契機となる可能性を持っていたが、市はそれを選択しなかった。また、市は、安賃闘争で顕著になった市民間の反目を解消しようという努力を欠き、次に起こる水俣病闘争で市民がさらなる分断を深めるのにも無策というよりは、それを深めることに力を貸していったのであった。
(三)まとめと残った問題点
65年5月に新潟水俣病が発生し、67年新潟水俣病裁判が提訴される。68年、水俣に新潟水俣病患者が来訪し、この来訪のために水俣に初めての患者支援団体、水俣病対策市民会議が結成された。このことによって、患者達にとって長い抑圧の時代が崩れ、再び立ち上がる時がやってきたのであった。 67年までの空白期は、あらゆる矛盾を「チッソあっての水俣」という呪文で押え込んでいた、患者にとって抑圧の時代であった。この時代にため込まれていたエネルギ-が、次の時代に爆発したとも言えるが、そこまで患者に忍従を強いた水俣市とは、何だったのだろうか。
この時代に市はリハビリテ-ション施設の建設もおこなっているが「赤字財政の中で福祉の積極予算。重要施策としていた健康福祉都市づくりの大きな柱。ベッド数200で水俣病患者から大きな期待が寄せられた」(註44)にも関わらず、実態は「市のただ一つの悩みは、在宅患者がいろいろな家庭の事情で入院したがらず、水俣病の入院患者はわずか10数名で、水俣病のための病院が名目だけという点にある」(註45)というものであった。日頃から患者は市の態度をよく見ている。その結果がこれではないだろうか。入れ物をつくってもそれに心がともなっていなければ、それはただの箱である。
水俣市が市の姿勢を転換させる契機は、水俣病原因物質の確定、安賃闘争など、いくつかあった時代だが、市はその全てを見逃し、あえて、水俣をすてさろうとしているチッソを選んだといえる。
(四)資料
(1)「水俣病」有馬澄雄編 青林舎 1979年 P859
(2)「図説昭和の歴史」 11 色川大吉編 集英社 70年 P35
(3)「エコノミスト」72年9月19日合 船場正富等 P77~78 (資料3-1)
(4)「チッソ関西訴訟を支える会ニュ-ス」NO.20 チッソ関西訴訟を支える会 85年8月11日 P1~5
(5)「水俣市議会録」 63年9月 (資料3-5)
(6)「水俣病に対する企業の責任」水俣病研究会 70年 P163
(7)同 P166~169 (資料 3-7)
(8)「公害の政治学」宇井純 三省堂 68年 P159
(9)「朝日新聞」 94年3月31日
(10)「水俣病」有馬澄雄編 P839~860の年表参照
(11)「市報みなまた」第130号 63年6月15日 (資料3-11)
(12)「認定制度への挑戦」水俣病研究会 72年 P124
(13)「水俣病に関する毛髪中の水銀量の調査」第1報 熊本県衛生研究所 61年 P1~13 (資料3-13)
(14)「認定制度への挑戦」P124
(15)「毛髪検査成績表」熊本県衛生研究所 (資料3-15)
(16)「新水俣市史」上 水俣市 91年 P687
(17)「市報みなまた」第139号 63年11月1日(資料3-17)
(18)「水俣病にまなぶ旅」原田正純 日本評論社 85年 P69
(19)「人間と自然の事典」半谷高久等編 化学同人 91年 P81
(20)「水俣病」有馬澄雄編 P345
(21)「水俣病」原田正純 岩波書店 72年 P80
(22)同 P85
(23)「水俣病」有馬澄雄編 P844
(24)「水俣病」原田正純 P72
(25)同 P82
(26)「水俣の啓示」下 色川大吉編 筑摩書房 83年 P291
(27)「おるが水俣」鬼塚巌 現代書館 P107
(28)「さいれん」合化労連新日窒労組 68年8月31日 (資料3-28)
(29)「新水俣市史」下 P108
(30)「公害都市の再生・水俣」宮本憲一編 筑摩書房 77年 P76
(31)同 P76
(32)同 P77
(33)「水俣市議会録」60年3月(資料3-33)
(34)「水俣市議会録」66年12月 井上長義課税課長答弁より (資料3-34)
(35)「水俣市議会録」63年9月 P140~147 (資料3-3)
(36)「水俣市議会録」66年12月 P79
(37)「水俣市議会録」67年3月 P34
(38)「新水俣市史」下 P238
(39)「公害都市の再生・水俣」 P78
(40) 「水俣市議会録」67年9月28日
(41)同 P135~137
(42)「新水俣市史」下 P504
(43)「水俣市統計書 平成3年版」水俣市 P5~6
(44)「新水俣市史」上 P689、694
(45)「公害の政治学」 P164
【責任追求期】
(一)この時代の概要
この時期は「水俣病は終わった」とされた時代から、政府による水俣病の公害認定によって、水俣病事件が大きな社会問題になっていった時期である。新潟に水俣病が発生し、政府による公害認定がなされていなければ「水俣病は昭和36年以降発生せず。潜在している患者は少数。水俣病は終った」とされていた可能性が非常に高い。強大なチッソの力は、1968年の時点においても、水俣市民と行政をがんじがらめにしておくことが、十分可能だったのである。
水俣市報においても、67年初頭の市長あいさつには、水俣病についてただの一言も語られていない。水俣市行政にとって水俣病は終息した事件だったのである。
政府の公害認定以降現在に至るまで、水俣病事件は日本社会に重大な警鐘を鳴らし続けている。それは、水俣病被害の甚大さに負うところが大きいが、水俣の小さな地域の中で、チッソの力が弱まっていったことも大きな要素となっている。水俣病事件はこの20数年の間に、チッソの強大な力の呪縛から逃れることで、日本全国へ向けてその事件の重大さを自ら語り出すことが可能となったのである。政府による水俣病の公害認定、市民会議の設立、そして裁判提訴と補償協定書調印に至る被害者自身の戦いが、水俣病事件が今も続く状況を作り出している。だからこそ患者を中心とした運動に対する市民の動きも、大きな意味を持っている。そしていつも市民が二分する水俣社会に対する水俣市行政としての取組みもまた、チッソの衰退とともに変化しつつある。チッソの利益と相反する政治的運動や、社会運動とかかわらないことが、水俣病事件から水俣市政が学び取った方針であったとすれば、水俣病患者入院施設明水園の設立運営が水俣市最大の取り組みであったことも、十分理解できることでもある。
今日もなお水俣社会が抱える「市民と患者の対抗」という課題を乗り越えるためにも、責任追及期におけるチッソと患者、水俣地域の各層間のせめぎあいは、大いに学ぶべきものがある。
(二)主なできごと
(1)水俣病対策市民会議の結成
①経過
新潟に発生していた「新潟水俣病」は1967年4月にいたって、厚生省新潟特別研究班が「第2の水俣病」との報告をおこない、その原因が水銀であることがほぼ確定的となった。6月12日には3世帯の患者が新潟地裁に提訴を行っている。総評などのつながりにより、新潟と水俣の双方で、水俣病患者を支えていた人々の交流が始まっていった。68年1月21日には新潟の被災者の会や弁護団が水俣を訪問することなり、訪問の受け入れ母体として、水俣病対策市民会議が結成されている。
会の発足の案内状には「一貫して言えることは、私達水俣に住む者が、水俣病に対して患者の側に立った組織的市民運動を何らやってこなかったことです」(註1)とある。市民会議は「政府に水俣病の原因を確認させるとともに、第三、第四の水俣病の発生を防止させるための運動を行う。患者家族の救済措置を要求するとともに、被害者を物心両面から支援する」ことを目的として68年1月12日発足した。
発足の様子を石牟礼道子は「昭和43年1月12日夜、水俣病対策市民会議が水俣病患者互助会の歴代会長を招いて発足した。信じがたいことだが、水俣市民の組織と水俣病患者互助会とのそれは、初めての顔合わせだった。水俣病の公式発生は昭和28年末とされているから、この間の年月は14年間である。ながい初発の時期がそこにあった。・・・市民会議は渡辺、中津両氏の額の皺の奥に刻まれている水俣病患者家族89世帯の苦悩に初めて対座し、これを身内のこととして、にないあってゆく、という意味のことをこもごも発言したのである。列席者はおおむね、その職を通じて患者家族にかかわってきた市役所吏員、女ひとり男ひとりの市会議員、医師、教師、ケースワーカーたちであったが、なかんずくチッソ労働者たちの、終始うつむきがちにして議事決定のたびごとにほおを紅潮させ、賛意を表している心情は、特に市民会議が持っている水俣病事件に対する原罪意識をもっとも、よくあらわしている」と記している(註2)。発足にあたって「患者と家族の人たちは市民的支援組織もない中で、本当に長い間苦労してこられました。水俣市民の一人として私たちはあらためて誠に申し訳なく思います。・・・この会は特定の者の売名やいかなる団体政党の道具でもありません」(註3)との文書を配布して、市民に呼びかけを行っている。
1月21日から来水していた阿賀野川有機水銀中毒被災者の会の会長らは、患者互助会や市民会議と24日には、共同集会を開催している。集会では市民会議と新潟の被災者の会及び弁護団は「政府は科学者の結論を認め、被災者の生活保障の措置を県市とともに実行せよ」などとした共同声明(註4)を発表している。この新潟からの訪問は「水俣病12年目の衝撃/新潟の視察団が教えたもの/なぜ黙っている/支援組織の強さまざまざ/もっと市民との一本化を」(註5)と紹介され、患者への支援の必要性が訴えられている。3月16日には患者互助会と共に、熊本県議会に対し 見舞金の生活保護収入認定からの除外 就職の斡旋 湯の児分院に特殊学級を、との請願をおこなっている。また5月には厚生省対し「水俣病の原因を明確に」との陳情も行っている。
5月には患者互助会が臨時総会の場において「訴訟はしない」と決議をしてはいたものの、8月に熊本市で開催された自治労全国大会では「水俣病患者に物心両面から援助」との決議を行っている。以後新日窒労組、水俣地協など労働運動界を中心とした、患者支援態勢が作られ患者支援の輪を全国に広げていくことになった。 政府による水俣病の公害認定を経て、市民会議の活動は主に訴訟を行う患者家族を支えることに集中していく。
②まとめ
長い間孤立を強いられて来た水俣病患者にとって、水俣市民の中からの応援はこの上ない支えといえた。また後に患者支援のために熊本に結成される「水俣病告発する会」の活動と共に、水俣病事件を告発し、被害者の要求獲得を実現していく原動力となっていった。教師、市役所職員、チッソ労働者などの市民による活動は、水俣病患者が置かれていた悲惨な状況を「我がもの」とする思想に支えられて続けられていった。
こうした活動はある面では、地方都市における住民自治としてもとらえられるものであった。そして活動は、患者家族のもつ被害の深刻さや存在の重さに支えられ、チッソに対抗しチッソの依存から脱却することによって、水俣に民主主義を作り出す萌芽とも言えるものであった。
小さな町が巨大な一つの企業に支配される町の中で、市民会議の活動は地方都市における今様にいえば草の根住民運動のさきがけであり、こうした動きを住民自治としてとらえることも可能ではなかったか。しかしこの時代、こうした動きは革新対保守の対立構造でしか、受け止められることはなかった。水俣市政との関係は、会発足後の市長が保守系市長であったことから、ことごとく対立するものとして存在していた。
(2)政府の公害認定
①経過
熊本水俣病の原因については、1959年11月厚生省の諮問に答えた食品衛生調査会が「水俣病の主因をなすものは、ある種の有機水銀化合物である」と答申をおこなっている。しかし経済企画庁はこれを不十分として、その後各省庁連絡会議を開催しながら、最終結論が示されないままとなっていた。また、62年ころから発生していた新潟県阿賀野川流域での新潟水俣病は、65年になってようやく新潟大学医学部によって疑いがもたれる所となった。5月になって新潟県衛生部に「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流沿岸部落に散発」との報告が、新潟大学より行われ発生の公式確認をしている。原因者の昭和電工や一部の医学者などから農薬説が主張されたが、被害者による訴訟が提訴されるなどの社会状況により、その原因を早期に特定することが求められた。
一方、水俣病発生の直接原因となったアセチレン法によるアセトアルデヒド製造設備は、チッソ水俣工場においては68年5月18日にその稼働を停止している。日本にあった7社8工場の同一工程は、ほぼ同時期にその全てをスクラップ化させている。チッソを代表としたアセトアルデヒド製造のプラントが、電気化学から石油化学に転換することによって使命を終了させたことと、水俣病発生の原因を政府が公式に確認したことは、けっして無関係ではなかった。
園田厚生大臣は、厚生省新潟特別研究班の調査・報告を基に「汚染源は断定困難と主張する、科学技術庁の政府見解原案には承服できない。(熊本)水俣病については私が責任をもって結論を出す。阿賀野川の最終結論を出すとき、水俣病の結論も出す」(註6)としていた。園田厚生大臣が9月20日から22日にかけて熊本・水俣を訪問した。水俣では市長室で市長や患者互助会代表の陳情を受け、更に婦人連合会長、チッソ副社長や水俣支社長にも面会している。橋本市長は患者の医療援護について陳情を行っている。園田厚生大臣は「健康保険で治療できない面もあり、医療研究補助金として200万円を給付。付き添い看護婦の費用は、国が支払う」(註7)などと回答している。
水俣病患者が入院していたリハビリセンターでは「本当に申しわけありません。二度と国の責任でこんな悲惨なことが起きないようにします」(註8)と答えている。水俣病についての正式見解は9月26日発表された。発表された政府見解のうち新潟水俣病については「アセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤」として、あいまいさを残すものであり、今日に至るまでその原因についての論議を残す結果となった。熊本水俣病については「新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド酢酸設備内でつくられたメチル水銀化合物」(註9)と断定している。
水俣病の原因がチッソの廃水に含まれたメチル水銀であることは、少なくとも1959年の厚生省食品衛生調査会の報告によって、政府も確認できていたはずである。被害者に「なぜもっと早く/肩身せまかった15年間」(註10)と叫ばせた時間の長さは、挙げて政府の責任であった。患者互助会会長も「34年会社と補償交渉をしたころは、労組も市民も会社の味方だった。・・・公式に認められたのだから、市民にも正しい認識をしてもらえる」(註11)として、直ちに補償交渉を始めるとしている。
政府の公害認定をきっかけに「患者の方へあげてください」と、柳川市民から送られてきた500円がきっかけとなり、水俣市では「水俣病救援募金本部」が設けられている(註12)。募金は、一人1000円のカンパを行い、130万円を寄せたチッソ新労をはじめとして大きな反響を呼び、15日間で150万円が寄せられている。
また市では公害認定に伴い、患者の救済策を強めようと「総合体制」(註13)を実施している。総合体勢の内容は、始まっていた救援募金と患者との橋渡しを総務課が。そして市立病院やリハビリセンターと連絡を取りながらの医療体制の強化を衛生課が。また生活保護面での改善などを福祉事務所が行うというもの。また6月ころ患者に対して発行した、患者手帳の交付がある。これは患者から「病院で治療を受ける際、一々説明しなければならないのでめんどう。水俣市以外の病院にかかるときは、医療費が免除になっていることも説明しなければならず、証明書のようなものを作ってほしい」との要望があり実現したものである。見舞い金の支払いによって、生活保護費が削減される問題についても、名目を変えて加算できるようにしている。
また水俣病患者の児童を中心にした小学校の分校を、市立病院湯の児分院に設立することも、このころ決定されている。
②まとめ
政府による水俣病の公式確認は水俣市政にとって、まさに寝た子を起こされてしまった感がある。水俣病が何とか沈静化し、工業観光都市としての発展を夢見ていた町にとって、想像以上の大事件であった。公害認定に至るまでの市の施策は特別なものはなく、患者手帳や生活保護給付金の改善に見られるように、一般の生活困窮者に対する対応の域を出ていない。水俣病援助基金本部の設置も、水俣市の積極的な呼びかけから始まったものではなく、自然発生的に寄せられる義援金の窓口として始められている。 市議会からは「潜在患者を調べよ」などの質問が示されていたが、この中で市長は「厚生省への要望で市のとる対策はほとんど解決すると思われるので、水俣病特別対策委の設置は考えていない。患者互助会の自主交渉に敬意を表し、現在のところあっせんに乗り出す考えはない」(註14)と答え、水俣市独自の取り組みを積極的に行う考えのないことを示している。また認定診査会の委員でもある、水俣市立病院院長は、潜在患者について「申し出があれば、適当な時期に診査会にかけたい」と答弁しており、潜在患者の発掘にまったく積極的な姿勢のないことを示している。
公害認定に至る時期の水俣市の姿勢は、国にその対策と援助をお願いする立場を出ていない。
(3)市民運動
①経過
水俣における市民運動の最大の課題は「水俣病の病名変更とチッソの存続」であった。
「水俣病」は、その発見当初から様々な名前で呼ばれてきた。時には不吉で恐怖をともなった存在として、そしてまた差別的な表現が加えられてであった。「奇病」「伝染病」「水俣奇病」「ヨイヨイ病」「ハイカラ病」「猫おどり病」「月の浦病」と様々である。新聞紙上でみるかぎり、水俣市のこの病気に対する呼び方は「奇病」であり、市議会の中でもほぼ「奇病」で統一されている。患者への対応や原因究明のために、水俣市や保健所などで作られた委員会も「水俣市奇病対策委員会」であった。奇病という名称に変化が表れるのは1958年頃である。この年を前後して水俣市や市議会での呼び方は、「奇病対策」「水俣病総合研究班」「奇病対策費」「水俣病専用病棟」などと揺れ動いた末「水俣病」に落ち着いている。 59年10月15日の熊本日日新聞には「合理性を欠いた病名。病名が風土病的な印象を与えていること。病気を局地化するための政治的取引きの印象も」などをあげて、軽率に病名がつけられたのではないかと批判している(註15)。
水俣病の病名は、最終的には1969年の厚生大臣の諮問機関である「公害の影響による疾病に関する検討委員会」で、通常の水銀中毒とは異なる特異な発生経過及び国内外ですでに通用していることなどから、水俣と新潟の水銀中毒症を総称して「水俣病」という名称が適当であるとの見解が示され、定着するようになった。
「水俣病」の名称を変更させるための動きが、どのように始まったかは不明だが、58年12月の水俣市議会で、観光などの立場から地名をとった「水俣病」の名称が問題となっている。本格的に社会問題として取り上げられていったのは、68年9月29日に開催された水俣市発展市民大会における決議によっている。水俣市商工会議所会頭を会長として作られた、水俣市発展協議会による大会決議には「公害として認定された段階で、この際水俣病という病名の名称を変えること、いまだに水俣病が発生しているような誤解を解くべく厚生省並びに報道機関に要望する」(註16・17)とある。病名変更を訴える市民の運動は、別の機会にも起きている。
環境庁は患者の川本輝夫らから出されていた、熊本・鹿児島県知事に対する行政不服審査請求に対し「影響が否定しえない場合も認定の範囲とする裁決」(註18)を行った。この裁決を受けて、熊本県知事は審査請求を行っていた被害者も含め16人の認定を行った。患者側は、早速チッソに対して補償交渉を行った。これに対しチッソは「新認定患者は認定趣旨が違うし資料も不明。中公審に任せたい」と主張し、新たに認定された患者が、それまでの水俣病患者とは異なるとの印象を社会的に与え、被害者をニセ患者とでっちあげる発端を作り出している。患者側は「これまでの認定患者と何ら変わることはない」と主張しており、現在まで続く行政と被害者との対立の初端ともなっている。環境庁による判断基準の拡大によって、その後認定患者が増加することが予想された。
こうした中で10月20日及び22日には二つの市民グループが、署名運動を開始している。水俣市民公害対策協議会は「市民の一員として大いに反省しなければならない。凡そ人間の幸福の要件は健康に恵まれ、勤労によって社会に貢献し、生活の安定を得ることにあると思う。従って水俣病患者とその家族にとって、真に望ましい事は充分な研究と治療と看護により、健康度を高め適当な職業を与え、可能な限り生甲斐を持たしめると共に、患者家族についても国の施策を講ずべきであろう。水俣市に起こった公害は、水俣市民の総意を持って対処することが自然の理である。重症者への治療と手厚い看護。軽度、中度の患者には心身の状況に合わせた仕事を。本市水俣病患者の経済的並びに精神的安定をはかるために、チッソにおいても早期解決に誠意を持って処置されるよう。またなるべく早期に海底の浄化を計るよう関係各方面に働きかける」としている(註19)。
またもう一方の市民グループは「水俣病の解決なくして、明日の水俣の繁栄はあり得ないと、切実な気持ちを抱いております。先頃環境庁から裁決されました患者を広く速やかに救済する救済法の精神につきましては、なんら異議を差し挟むものではありませんが、審査と認定の分離により、認定要件に明確さを欠き、企業と認定患者の両者間において著しい混迷を生じております。更に現在実施中の潜在患者の調査により、認定患者が大幅に増加しました場合、以上の点を明確にしない限り、補償問題をめぐり大きな社会不安を醸成する事態が憂慮されます」(註20)と述べている。そして国による患者のランク付け、ヘドロ除去、病名変更、患者収容施設への援助、患者家族の授産施設設立、などの要望を行うとしている。これに対し患者側は「患者と会ってじっくり話を聞いたことがありますか。病名が変わったらそんなに明るく楽しくなるものでしょうか」(註21)などの反論や抗議を行っている。連日双方の主張を示したビラが、大量に水俣市内に配布されるところとなった。
患者側は一律3000万円の要求を行いハンガーストライキに入るなど、運動は昂揚してきた。水俣市民有志による(註22)「組織も力もない私達市民の立場も考えてください」(註23)「署名(市民運動)に協力してどこが悪いと言うのか」(註24)「三千万円要求の根拠を明確にして下さい」などのビラが配布され、双方の対立は深いものとなっていった。 二つの市民グループは、水俣市長の仲介によって統一され、11月14日には「水俣を明るくする市民大会」が2000人の市民を集めて開催されている。市民大会では2万7000人の署名が集まったことが報告され「水俣病補償問題の早期解決に誠意をもって努力するよう、当事者に要望する。患者が安心して治療に専念できるよう、あらゆる施策を取るよう要請する。水俣湾の水銀ヘドロの埋め立て及び港湾整備。病名を変更し市のイメージアップをはかるよう訴える。市の経済基盤を確固たるものとするため、現在水俣市にある事業の充実を。新規事業を誘致し、過疎化現象を防ぎ、市の発展をはかろう」(註25)との活動方針を採択している。
この日水俣病市民会議の呼びかけに応じて、熊本市をはじめ東京、大阪などから500人がチッソ水俣工場前に集まり、正門前に座り込んでいる患者の激励集会がもたれている。二つの集会(註26)は、水俣病を中心として互いに対立する市民を端的に表している。
また71年12月20日には水俣市議会でも意見書が採択され「紛争は容易に解決できにくい状況であり、双方とも誠意をもって当事者が解決に当たるのは当然であるが、いたずらに紛争を遷延することは当市議会として拱手することは忍びず、よって中央公害審査委員会の調停による等、公的機関の手により早期円満解決を見るようご処置を賜りたく」としており、被害者と加害者の双方に誠意を求めているところに、大きな特徴が表されている。72年3月2日には大石環境庁長官が水俣を訪れている。長官の訪問を出迎えた市民が持つプラカードには「水俣病の病名は市民侮辱だ」「水俣病は風土病ではない」「明るい水俣こそ市民の願い」「水俣病を改名せよ」(註27)などが書かれていた。
73年3月には熊本地方裁判所から、裁判の判決が示された。判決に向けて市長の談話が発表されている。市長は「今日の判決は水俣病にとって一つの区切りをつけたものと思います。この新しい転機に立った今日、全市民が心を一つにして、水俣病の諸対策に献身的に当たり、一日も早く円満解決のメドを立て、市の明るいイメージを回復するとともに、公害の原点という汚名を返上したいと思います」(註28)としている。
水俣市民による病名変更の願いは強く、その後も様々な方法で続けられている。市報の見出しにも「『水俣病』病名変更を全市民の署名運動へ」とある。市報によれば「市長は議会からの質問に答え(水俣病の病名変更の必要性については)まったく同感である。今日、市のイメージだけの問題ではなくなっており、市民に対する差別問題にまで発展している。また、産業経済面でも障害をきたしている。早急に、良識ある市民運動として、病名変更の署名運動などを実施したい。6月22日当市で開かれました県下商工会議所議員大会の席上、この病名変更が緊急動議として提案され満場一致で採決されました」(註29)として、病名変更のための全市民の署名運動を呼びかけている。
8月の市報にも水俣病の病名変更のための署名運動が提起されており要望事項には「水俣病を適切な病名に改称してください」(註30)とある。また9月の市報には「水俣病名改称のための実態調査にご協力ください」と、就職がだめになった、結婚が不調になったなど、不快な思いをした経験などを求めている。9月15日付けの市報には、病名についての署名運動の結果が報告されている。それによれば「有権者の25290人に対し18251人で72%に達しました。県も来年度の政府に対する再重点要望事項にとりあげており、今後、県市あげての強力な運動に展開できるものと期待されます」(註31)としている。
また県の委託にもとづいて水俣病のイメージにより、市民が結婚や就職などに不利益な差別をうけていないかの実態調査も実施している。アンケート結果によれば「14.3%の市民が、水俣市民であることを隠したことがある。また0.3%の市民が、自分の子供の結婚が破談になった」((註32)としている。水俣最大の祭りと言える「みなとまつり」でも、病名変更の大横断幕を先頭に行進している。(註33)集められた「水俣病の病名変更を求める署名」(註34)は、日本神経学会などにも届けられ陳情された。以上のように病名変更は、いつの時代においても水俣市民あげての重要課題であった。
②まとめ
水俣病事件が人口を減少させ、市民に対しての差別を生み出している。
ひいては水俣市にとっての経済的な振興を妨げている。
県外に出掛けていったら「あの水俣病の水俣ね」と言われた。
故郷を誇りに思えないことの寂しさ。
だから水俣という町の名前を消して、そのことに触れないで生きていきたいという市民感情がある。病名変更についての最大の問題は、事件の節目ごとに作られる市民組織が、まったくと言ってよいほどチッソの責任や、水俣にチッソがあることのマイナスを挙げていないことにつきる。そして、どこかでチッソと被害者は同列に位置付けられており、補償問題に際しても「チッソも患者も良識を持って」交渉に臨むことが要請されている。
こうした点は一歩水俣から離れ「水俣にとって大事なチッソ」との視点が薄らぐと、加害者と被害者を対等に位置付ける論議は、非常に異質なものとして見えて来る。昨今「市民も被害者」との主張をよく耳にするが、この主張も一歩誤ると「だから市民も被害者も、共に我慢しあおう」との主張となってしまう危惧がある。
水俣病の病名変更は、水俣病事件が様々な節目に出会うとき、いつも市民運動の旗手として登場して来た。被害者自身にとって「町の発展のために病名変更を」の主張は「おまえら被害者がいなくなれば・・・町の発展が」と聞こえることを、市民が気がつかないかぎり今後も再燃することは間違いない大きな課題である。
(4)患者互助会の分裂
①経過
1967年6月12日新潟水俣病患者3世帯が、昭和電工を相手に民事訴訟を提起している。新潟に起きた公害訴訟は、水俣の患者たちにも大きな関心ごととなっていった。67年9月17日に開かれた水俣病家庭互助会の総会では「新潟水俣病対策会議に対し、資金カンパ、署名運動などで原因究明、被害者の完全援護などを要求する運動を指示すること」(註35)を決めており、新潟水俣病に対し、互助会が態度を表明したのはこれが始めであった。
68年1月21日には、新潟の患者が水俣を訪れており本格的な交流が始まっていった。新潟からの患者・支援者の来水を契機に、水俣病対策市民会議が市民有志の手で結成されている。新潟の被害者訪問に際して、患者互助会と市民会議及び新潟被災者の会と民水対は、1月24日「政府が科学者の結論を直ちに認め責任を持って事件を解決すると共に、被害者の生活を保障する具体的処置を県や市とともに直におこなうことを要求します」との共同声明(註4)を発表している。
新潟からの訪問が大きな刺激となり、政府による正式な水俣病の原因確認と新たな補償を求めて、患者家族は活発な活動を開始していく。しかし患者家族の胸中は複雑であった。発足間もない市民会議に参加した患者は3名だけだった。互助会会長の中津美芳は「ここではっきり言っておきますが、わたしたちは革新団体の市民会議に加入したからといって、橋本水俣市政にホコ先を向けること、チッソを敵に回すことはしたくありません。・・・市民会議が地域の政治闘争のために作られたものなら反対です」(註36)と述べている。また「新潟と共闘することは互助会員の意志に反した行動を取らざるを得ない場合があるからです」として、新潟からの共闘申し込みを断ったことも明かしている。当時の中津会長が市民会議などによる患者支援の動きを歓迎しながらも、運動の発展によってはチッソとも対立していくことが予想され、地域の中で弱者としての被害者の位置を強く意識していたことが推測される。
新潟での訴訟に大いに影響を与えられながらも、68年5月の患者臨時総会において「訴訟はしない」との確認を行っている。「訴訟はしない」との確認は後に熊本地方法務局が、申し合わせに外部の圧力や利益誘導的なものがなかったか、その真意確認のための調査(註37)も行っている。5月の患者総会で行われた「訴訟はしない」との確認は、口頭であった同趣旨の説明を「会に協力して指示に従う」との名目で署名が集められていることが、後に判明している。この時期までにほぼ全員がこの署名を行っていたが、署名集めがチッソから例年届けられる3000円の盆見舞いと平行して行われたために、互助会幹部と会社との「黙約」を疑う声も出ていた(註38)。
一方患者家族を支える活動は活発化し、8月には自治労の全国大会において、9月には水俣地協が次々と「水俣病患者への物心両面からの支援」を打ち出している。患者の中からも「お金がほしいのではありません。二度とこんな恐ろしいことを繰返してもらいたくない一心です」として、訴訟に踏み切る意向も表明されている。しかし互助会幹部は「訴訟は分裂を招く」として、訴訟提起に反対を表明(註39)している。熊本で行われた熊本県評の会議の席上で、訴訟提訴の決意表明が被害者本人から行われ(註40)ており、患者が置かれている複雑な関係が表面に現れ出している。9月15日の患者臨時総会では、「チッソとの従来の契約は一応白紙とし 会社と自主交渉 難航の場合調停依頼 最悪は訴訟する」との決議(註41)がなされている。事実上見舞い金契約を白紙に戻し、新たな補償交渉に入るとの宣言でもあり、10年近い空白は埋められ始めていた。一方で中津会長ら、互助会幹部が市民会議から翌日には脱退(註42)しており、訴訟提起への不協和音がはっきりしてきたと言える。水俣市は、水俣病患者と初めての合同慰霊祭を9月に行っている(註43)。この席でチッソの徳江常務が、公式の席上では初めてのおわびを述べている。しかし12日にチッソ水俣新労組に示された、江頭社長の水俣病対策問題などについての回答には「水俣病問題に関する地元の微妙な情勢の中で、今後再建5カ年計画の変更も考えている」(註44)と水俣工場の事業縮小も示している。
9月26日に実施された政府の水俣病公害認定を経て、患者家族は新たな補償を求めて死者1300万円、生存患者年金60万円の要求を決定(註45)している。チッソは被害者からの新たな補償要求に対し「基準がないので国に目安を依頼」「県知事ら第三者機関で補償額基準設定を」と再三提案し、患者側もこれを了承している。しかし3回行ったチッソとの補償交渉では「会社側が補償額を示さず、患者の中からも不満の声も出ているので、早急に回答を出してほしい」(註46)と、患者側が追い込まれつつある状況も見えてきている。患者側は厚生省や熊本県知事に「国による基準の設置、第三者機関の設置」などを陳情しているが、知事はあっせんに乗り出す意志のないことを表明(註47)し、患者側は苦境に追い込まれていった。
こうした中で市民会議と患者互助会は、進展しない補償交渉に対して、新潟から弁護士を迎え、訴訟問題で討議を行っている。また熊本県評は「補償問題の行き詰まりが、3月末ころにははっきりと表面化し、互助会内部に訴訟を望む声がさらに強まる」(註48)として、訴訟支援を準備していることを表明している。一方厚生省は「調整の結論には従うとした確約書の提出」(註49)を求めており、チッソは提出を行ったものの、患者互助会では意見の対立があり患者間の不信感が募っていた。
3月1日に行われた患者総会では「あっせん依頼する以上、書類でお願いするのが建前だとする意見と、要求が十分に入れられるかわからない結論には従えない。バクチだと、政府への不信をいだく意見が対立、結局確約書を斡旋依頼書に作り替える」(註50)こととなっている。患者相互の不信感が増す中で、4月5日患者総会が開かれた。総会では「2月末厚生省が要求した、委員の人選には異議なく従いますとの確約書から、異議なくの字句を取り除いたお願い書なら厚生省が受け入れることが報告された。これに対し、本質的には確約書と同じもので、委員のメンバーさえ明らかにされていない段階で白紙委任状を出すことは危険だ。自主交渉をもう一度するべきだとする意見と、自主交渉は何度やっても同じこと。国に頼んだ方が、解決が早いとする意見が対立した。互助会会長は、意見がまとまる見込みはないと閉会を宣言」し(註51)総会は流れてしまった。この後、確約書提出を主張する患者と、自主交渉を主張する患者の双方が会員を説得して回り、署名を集めて回るなどの事態となり、患者互助会は事実上分裂していった(註52)。斡旋を要請し厚生省への陳情を済ませた後、斡旋に賛成の患者家族は全員が市民会議から脱会しており、患者の対立は支援者も含めて決定的となっていった。
この結果、6月14日には29世帯がチッソを相手どり損害賠償訴訟を提起し、水俣病補償処理委員会も発足している。補償については訴訟を提起する患者家族と一任する患者家族との長い分裂の始まりとなった。
②まとめ
わが国初の本格的公害裁判と呼ばれる訴訟は、最初に被害が明らかになった水俣ではなく、第二水俣病とされた新潟から始まっている。昭和34年当時の見舞い金契約の存在があったにしろ、熊本水俣病患者が早期に立ち上がることができなかった事実は、熊本水俣病患者のおかれていた困難な状況を物語っている。
水俣病患者家族によって作られる患者団体は、現在30近くある。最初の患者団体の分裂は、補償を得る方法が訴訟か一任かが原因となっているが、その基本的な性格は今日も変わっていない。そして第三者機関と称される公的機関に補償の内容をゆだねるのか、あるいは訴訟や自主交渉といった患者自身の運動によって得ようとするのかが大きく異なっている。これまでの水俣市政のこうした点でのかかわりは、公的機関にその補償内容をゆだねる方向に動いてきた経緯がある。
補償調停委員会にその補償調停を一任した際「国補条件に予算化」(註53)している。しかし水俣市は、訴訟派からの援助の要請には「厚生省、自治省の見解として、特別交付金、補助金による援助はできない」(註54)として、政府の見解を伝えている。また熊本県知事も「裁判の当事者に自治体が裁判費用を援助するのは、不可能」と答弁(註55)している。訴訟派と一任派が分裂していった際の市当局のこの動きは、後々まで訴訟派患者が水俣市に恨みを残す決定的な要素となっている。
水俣病患者互助会の分裂理由やその意味は、様々考えられる。そうした点で69年5月1日付けの朝日新聞記事は興味深い。「水俣病補償/苦悩する4世帯/なお自主交渉を主張/互助会の分裂に怒り/病気の子度もかかえ」との見出しで分かるように、訴訟にも調停にも踏み切れない家族がいたことを知らせている。そしてこの4世帯の共通点が「子供が水俣病」であるとしている。これまで一任派の人々は「戦えなかった患者」として、位置付けられてきた。そしてその理由を経済的な困窮はもちろん、多くの場合チッソや行政の暗躍が語られてきた。この4世帯はこの後、一任派に属していく。「いつ決着がつくかわからない訴訟だけは避けたい」「加害者と被害者がひざをつきあわせて話し合うのが、一番民主的だ」との言葉も聞かれる。訴訟派の患者は「今の平穏よりも、意味のある未来を」と訴訟を選択し、一任派の人々は「明日の幸せよりも、村と共に生きる日常生活の平穏」を選んだのではなかったのか。そして「互助会の分裂に腹を立てている」とのコメントが、誰も分裂を望んでいなかったことを教えている。
水俣市当局は、一任派や調停派などを様々な形で支えてきている。何ゆえの選択だったのか、今もう一度行政としての本来の有り様を考えるときがきているのではないか。
(5)明水園開設
①経過
水俣病患者互助会から「胎児性水俣病患者また幼少時水俣病となった子供たちのなかで教育可能な児童で特殊学級にも入学できず勉強の道を閉ざされているものが数名(2名~5名自宅療養患者を含む)他の事由により心身障害者となった子供たち(湯の児病院入院患者16名)のために水俣市立病院湯の児分院に心身障害児を対象とした特殊学級を是非新設して下さい」との請願(註56)を行っている。また当時の橋本市長も「リハビリテーションセンターの建設は、水俣病で心まで病んだ我が町にとって至上命令であった。28年頃から発生した”水俣病”は、幸い36年以降新患者を出さなくなったが、不知火の悪霊かと恐れ、悩み苦しんでいる患者とその家族のために急がなければならないもっともたいせつな仕事であった」(註57)と発言した。68年9月の市議会での質問に「胎児性患者のため特殊学級・コロニーなど設置」などを回答している。また水俣市は「国立重度身体障害者コロニーの設置」(註58)を県議会に請願している。
71年8月には厚生省の補助を受け、授産施設が作られている。しかしその作業内容が「プラスチック公害の元凶と言われている、発泡スチロールの整形」と聞いて、無神経すぎるとの批判(註59)が出たものもある。
国立のコロニーの建設が非常に困難となり、市独自の事業として進めることになった。72年1月14日にはコロニー明水園の建設が着手され、12月15日には水俣病複合施設明水園として開所されている。「明水園は水俣病患者の収容と授産を主な目的としており、西湯の児の台地に総工費2億1700万円で建設された。施設は水俣市社会福祉事業団で運営され、独立採算を建前としている。建物は鉄筋コンクリート一部2階建、建物延面積2762平方メートル、収容定員は重症心身障害施設40床、重度身体障害者授産施設50床。授産施設では患者の病状や能力に応じて花木栽培、あみもの、印刷などの計作業が計画されている。胎児性患者ら13人が入園している」(註60)
浮池水俣市長は明水園の開設について「水俣病の救済につきましては、いろいろな方法が考えられると思いますが患者さんを手厚く介護し、毎日の生活の手助けをし、また一方では各人の能力に応じた授産の道を講じる本園のような複合施設は、これまでになかった斬新な援助の一つであると確信いたします」(註61)としている。またチッソは明水園の建設に際し所有地の寄贈も含め、9100万円の寄付を申し入れている(註:結果は確認できず)。
73年2月8日には多くの話題を集めながら落成式を行っているが、授産施設への入所者はゼロだった。その後入園者は増加し入園者数は次のとおりである。
71年13人、72年24人、73年40人、74年41人、75年45人、76年43人、77年54人、78年52人、79年59人、80年49人、81年59人(水俣市社会福祉事業団 明水園施設案内パンフレット 1073年2月8日)
明水園の建設については当初から水俣病患者の不安や反対意見が出されていた。入院患者の浜元二徳は「どんな施設ができるのか、またできあがっても入園患者は居るのか、それに患者と明水園との関係はどうなっているのか。それは同じ水俣病患者として注目し、または批判もしたものであります。最初の入園者は、湯の児病院リハビリセンターに入院していた胎児性患者だったと思います。明水園に入院すれば、外出も外泊もできず籠の中の鳥と同じであると聞かされていたので、そんな筈はないと思いながら、いったい園側としては、どんな考えで、どんな計画を立て、水俣病患者を収容するのかと思いながら、側面から注視していました」(註62)としている。また「開園時明水園には社会的中傷も甚だしく、明水園に入ったら一生出られない、明水園は患者の牙を抜く所だなど色々のデマ、噂も多く、患者からもソッポを向かれた形であった」(註62)と記されている。
最大の課題は、開設当初から希望者がいなかった授産施設であった。これについては「定員40名、収容施設と授産施設をかね備えた複合施設も、授産施設はほとんど利用される事がない。耳が遠く、目が不自由、手足がふるえ、力が入らない水俣病患者さんにむいた仕事も仲々見当たらない。マウス飼育箱、スダレ作り等やや長続きしたが、材料が続かず患者さんも段々体力が衰えやれる人も減ってくる。やる意欲もなくなってくる等、授産施設もその存在価値も全くなくなり」(註62)「明水園 開園10周年記念誌めいすい」とあり、昭和52年には廃止されている。
②まとめ
明水園は、歴代の市長がその必要性を強く訴えてきたものであり、水俣病事件において、水俣市が独自に取り組んだものとしては最大のものであった。
開設当時と現在では、収容施設を中心とした障害者福祉の施策や、障害者そのものに対する社会のとらえ方など、大きく意識が変化していることを考慮しても、患者にとって全てに満足のいくものではなかったことも確かであった。施設に対する不満は記録に残りにくいものであるが、聞き取りによれば「見学者の前で、何の配慮もなく排便をさせられた」「おむつが濡れていて、人前で介添え人から笑われた」「外泊が自由にできない」など若い入園者からの不満がある。
また、園長が施設の見学者に対する説明の中で「障害者としては他の疾病の患者と同じで、特別水俣病の知識がなくても対応はできる。明水園の職員に、水俣病についての特別な研修は必要ないし、行っていない」と述べるなど、その取り組みにも問題がある。 障害の一つ一つを取り上げ、不自由な機能を回復させるなどの視点から見れば、他の障害者と何ら変わることのないのは当然のことである。しかし、他の障害者に比べて同一家族の中にも障害のあるものが多く存在し、水俣病が複合的な症状を有していることからすれば、もっと多様な配慮と対策がなされるべきとも言える。
いわゆる授産施設の設置や維持も、様々な困難が伴う。74年にはチッソとチッソ新労による福祉工場計画が頓挫している。小動物の飼育、プラスッチク加工、農産物加工を中心にして事業計画をたてていたが「認可の見通しがつかぬ」ままである。(註63)頓挫の理由の主なものには、病気などによるマウス生産量の低下。朝鮮にんじん栽培の面積が弱小すぎる。水俣病患者のほとんどの人に障害者手帳が交付されておらず、そうした障害者を50人以上雇用することを条件にしている厚生省の認可が取れない。などが大きな理由。
施設を作ることで、福祉の多くを終了させてしまう行政の取り組みを、再検討する必要もある。
(三)まとめと残った問題点
水俣地域が他の地域に比べて特徴的であることは、さまざまなイメージをもって語られている。
その一つに「市民が対立する町」「騒動の町」といったイメージがある。これらを形成している要素には、チッソに対する漁民の動き、安賃争議による労働組合の対立、チッソに対する水俣病患者の動きなどがある。特に安賃争議による労働組合の対立は、一つ一つの商店までも旧労派か新労派かに、線引きをしてしまったと言われている。
では何ゆえ水俣が特徴的に「騒動の町」とイメージされ続けているのであろうか。本格的な論証は今後の研究に待たねばならないが、行政との関係が一つの要素になっているように思える。安賃争議による労働組合の対立によって形づくられた市民間の保守革新の対立が、市民会議結成、水俣病患者の訴訟提起に対する行政の対応によって、市民と行政、患者と行政の間に持ち込まれたためではなかったか。そしてそうした行政の動きを形成していたものが、再三語られているチッソの水俣支配と、そうしたチッソを守り抜こうと行動し続けて来た、歴代の市長の意識ではなかったのか。
そして、この20年続いて来た水俣病患者を中心とした「騒動」の歴史も、基本的にはこの対抗構造の上で、しのぎを削ってきたことにほかならない。水俣市行政は訴訟派患者を差別し、一任派患者を優遇してきたことは、明らかな事実であろう。しかし、そのことを挙げ連ねて非難を繰り返していても、これからの水俣市政や水俣病事件に直接役立つわけではない。
以上の観点から、いわゆる責任追及の時代をとらえれば、この時代を特徴づけている市民運動の盛り上がりや、患者互助会の分裂も時代の必然と捕らえられる部分も大きい。そして、市民が不幸にも分裂して行く中で、行政が繋ぎ役になれなかったことを、今後の課題として据えておくべきである。
(四)資料
(1)「発足会のご案内」 日吉フミコ 68年1月(資料4-1)
(2)「苦海浄土」 石牟礼道子 講談社 P271~2
(3)「発足に当たって」 水俣病対策市民会議 68年2月9日(資料 4-3)
(4)「共同声明」水俣病患者家庭互助会他 68年1月24日(資料4 -4)
(5)熊本日々新聞 68年1月31日
(6)熊本日日新聞 68年5月16日
(7)読売新聞 68年9月23日
(8)西日本新聞 68年9月23日
(9)熊本日日新聞 68年9月27日
(10)西日本新聞 68年9月27日
(11)毎日新聞 68年9月27日
(12)読売新聞 68年10月16日
(13)熊本日日新聞 68年10月17日
(14)西日本新聞 68年9月25日
(15)熊本日日新聞 59年10月15日
(16)「市報みなまた 68年10月15日号」
(17)読売新聞 68年9月30日
(18)「環境庁裁決」環境庁長官 71年8月7日
(19)「趣意書」 水俣市民公害対策協議会 71年10月
(20)「要望書」 徳富昌文他 71年10月21日
(21)「公開質問状」 石田泉他 71年10月28日
(22)「組織も力もない私達市民の立場も考えてください」 市民有志 一同 71年11月7日
(23)「署名(市民運動)に協力してどこが悪いと言うのか」 市民有 志一同 71年11月6日
(24)「(市民有志ビラ)」 市民有志一同 71年11月11日
(25)「活動方針」 水俣を明るくする市民連絡協議会 71年1月1 4日
(26)熊本日日新聞 71年11月15日
(27)「機関紙・告発」 水俣病を告発する会 72年3月25日号
(28)「市報みなまた」 73年4月1日号
(29)「市報みなまた」 73年7月1日号
(30)「市報みなまた」 73年8月1日・15日合併号
(31)「市報みなまた」 73年9月15日号
(32)「市報みなまた」 73年10月15日号
(33)「市報みなまた」 73年8月1日・5日合併号
(34)「水俣病の病名改称等に関する陳情書」 水俣市長外1万832 6名 73年10月
(35)朝日新聞 67年9月19日
(36)「ニュースと人」 西日本新聞 68年1月29日
(37)熊本日日新聞 68年8月
(38)熊本日日新聞 68年8月13日
(39)朝日新聞 68年9月12日
(40)読売新聞 68年9月13日
(41)朝日新聞 68年9月16日
(42)西日本新聞 68年9月17日
(43)「市報みなまた」 68年9月15日号
(44)熊本日日新聞 68年9月14日
(45)熊本日日新聞 68年10月7日
(46)熊本日日新聞 68年11月16日
(47)西日本新聞 69年1月29日
(48)熊本日日新聞 69年2月18日
(49)「確約書」 山本亦由他 69年
(50)読売新聞 69年3月4日
(51)朝日新聞 69年4月6日
(52)熊本日日新聞 69年4月7日
(53)読売新聞 69年4月27日
(54)読売新聞 69年9月2日
(55)読売新聞 69年9月12日
(56)「請願書」 中津美芳他 68年3月15日
(57)「あすの郷土を開く42」 西日本新聞 68年9月7日
(58)「市議会議事録」 71年6月29日
(59)読売新聞 71年8月26日
(60)「市報みなまた」 78年12月号
(61)「明水園施設案内パンフレット」 水俣市社会福祉事業団 73 年2月8日
(62)「開園10周年記念誌めいすい」 明水園 P13
(63)熊本日日新聞 74年4月23日
【認定問題期 Ⅰ】
(一)この時代の概要
チッソと患者によって締結された補償協定は、不知火海周辺に放置されていた人々に大きな影響を与えた。「被害は当然補償されるべきもの」との認識は、チッソに支配され続けていた地域にとって画期的なものでさえあった。痛みを押さえながら隠れていた被害者は、申請者として名乗りを挙げ、個人の立場から患者の会を作るなどして、組織的な行動を行うようになっていった。申請者増加の波は水俣から不知火海を渡り、天草から多くの漁民が申請を始め、行政機関が対応できなかったほどとなった。
この時期を大きく決定しているもう一つの要素に、第三水俣病問題がある。不知火海における汚染の、対照地区として選定した有明地区に水俣病が疑われたことは、だれも予想していなかった。そして、日本全体を揺るがした大事件となった。毎日食卓にのぼる魚介類を通して、次から次に報告される日本全体の汚染を意識させてしまった「第三水俣病とその全国的影響」は、国にとっては早々に沈静化させる必要のある事件であった。
そして広がり始めた水俣病事件の様相を、それ以上広げまいとしたのが杉村及び斎所県議による「ニセ患者発言」であった。熊本県議会公害対策特別委員会委員長の発言は、社会的には重い意味を持ってなされている。そして「申請者はニセ患者ばかり」との発言は、けっして偶然に発せられた言葉ではなかった。熊本県水俣病行政が、30年もの長い怠慢を続けていた結果「水俣病はそれほどたいした被害ではない」との認識が、意味も無く語り継がれていたに違いない。あとからあとから続いては、県行政を追い込み続ける申請者の群れは、県議会議員にして被害者意識さえ持たせたのかもしれない。水俣病被害の全貌を明らかにすることなく、放置し続けた熊本県及び水俣市の持つべき責任である。
チッソに補償金支払いの負担を増加させる申請者の増加は、本人の意思によって申請する以上、県行政と言えども阻止することはできない。入り口がだめなら、出口を狭くすればよいとの論理が、未認定患者を窮地に追い込んだ「新事務次官通知」であった。そして、チッソをもう一方で救済するべく、県債が発行された。
この時期の大きな特徴は、申請者の力によって広がった救済の枠を、行政が追いかけながらも追いつき「国にも審査会を作る」という施策までで行い、急激に縮め始めたことである。もうすでに高齢化する被害者は、直接的な抵抗かなわぬ所まで追い詰められていた。
(二)主なできごと
(1)ヘドロ処理問題
①経過
水俣湾に堆積した大量のヘドロには、1970年当時でさえ「湾内魚類平均0.5ppm以下、貝類1ppm前後、汚土中にはなお大量の水銀が残っている」と熊本大学入鹿山が報告している。72年6月には熊本大学工学部本里らによって「水俣湾、水俣川および八代地先海域における体積汚泥の対策研究報告」が明らかにされている。報告では「大規模な浚渫・埋め立て処理は、汚泥中のメチル水銀が魚介類に蓄積する可能性がありその防止には完全埋め立てしか方法なし」との指摘がなされていた。熊本県は報告書を受け、水俣湾の水銀ヘドロ対策に着手することとなった。73年3月には熊本県と国は、ヘドロ処理の費用をチッソ負担とすることを決定している。
4月になって熊本県公害局に、公害対策課・公害規制課・土木部港湾課による、水俣湾堆積汚泥処理対策促進のための共同作業班が設置され、工法、2次汚染防止、事業負担額決定のための諸調査が開始されている。水俣湾における水銀ヘドロ処理事業は、ここから実質的にスタートしている。しかしこの時、県も水俣市もまた被害者も全く予想していなかった事態が発生している。新聞紙上に「有明海に第三の水俣病発生」との報道(註1)が、センセーショナルになされ、以後水俣病事件の全てに大きな影響を与えていくこととなった。第三の水俣病が報じられると同時に、大きな社会不安の高まりを恐れるかのように、その日には熊本県知事は「水俣湾の漁獲禁止」(註2)を検討していることを発表している。
水俣漁業組合は、早速「水俣湾の漁獲自主規制」を開始している。また熊本県鮮魚販売組合連合会と湯の児温泉観光協会は、県に対し「市場に魚類検査官を。水俣病の病名変更など」を陳情している。5月30日になって、知事はテレビに出演し「魚は食べても安全」と発言しているが、水俣漁協などの4団体は、生活保障などを熊本県公害対策特別委員会に陳情を行っている。魚介類の販売がふるわず、価格が低迷する中で、熊本県下の66漁協代表は、環境庁などに「特別立法による生活保障」を訴えている。6月14日には水俣市鮮魚小売商組合は、水銀問題で国、県、チッソに抗議して「一斉休業」(註3)を行っている。また福岡・熊本・佐賀・長崎各県沿岸漁民は、大牟田・宇土・水俣で統一行動を行い、海と陸からデモを実施し、不知火海沿岸漁協もチッソに補償要求(註4)を行っている。水俣市体育館前には約5000人の漁民が詰め掛け、一部の漁民はチッソに投石も行っている。第三水俣病事件が、市民や漁民の生活に暗い影を落とす中、水俣市漁協は7月に入ると補償交渉を開始し、補償要求が決裂するとチッソ水俣工場を封鎖(註5)している。
7月9日にはチッソと東京交渉団の患者との間で、補償協定書が調印されており、長く続いていた紛争が終息するかのように思えていた市民にとって、漁民による工場の封鎖は、再び不安を呼び起こすものとなった。水俣漁協とチッソの漁業補償問題によってチッソ水俣工場が封鎖されたこともあり、チッソ関連企業からの要請で浮池市長が仲介(註6)に乗り出している。この結果「7月18日からの斡旋案に5000万円を加え、4億円の補償額で妥結」(註7)している。しかし水俣工場は8月に入って、再び不知火海沿岸30漁協によって封鎖され、29日になって県知事が斡旋に乗り出すことを表明するまで続いていた。
また水俣市は、チッソ水俣工場周辺排水路のヘドロ調査も実施している。事前調査を行った県の報告によれば「水俣化学排水路からは、1380PPMの水銀が見つかっており、工事費用は7~8億円と推測されている」(註8)というものであったが、水俣湾のヘドロ処理に伴う漁民との補償交渉が妥結しており、以後水俣湾水銀ヘドロ処理は、工法など具体的な工事について急速に進展するところとなった。年の明けた74年1月早々水俣湾入り口に、湾内の魚を封じ込めるための仕切網が設置(註9)されている。熊本県はこの仕切網によって「湾内に入り込む魚の70~80%の回遊を防止できる」として、1800万円もの費用を支出している。
74年4月には「水俣湾等体積汚泥処理技術検討委員会・水俣港計画委員会が発足」し、具体的な方法の検討が始まっている。この中で8月には、ヘドロ除去基準を25PPMとした上で、一部浚渫、一部埋め立て案を決定している。 一方で水俣漁協は、仕切り網による漁獲禁止の自主規制に伴い最低限の生活保障を要求し、魚介類の買い上げを主張する県当局と交渉を続けている。市民の中からは患者家族や地協、市民会議などが集まり、「ヘドロを安全に処理させる会(以下処理させる会)」を発足させ、ヘドロ処理反対を打ち出していっていた。処理させる会は「水銀の除去基準や堆積ヘドロ量の根拠。仮締切を行わない理由。監視計画についてなど」10数項目に渡る公開質問状(註10)を提出している。また76年6月には、運輸省第4港湾建設局、熊本県水俣湾公害防止事業所及び水俣市長にあてた「公開質問状」(註11)も提出している。質問状には「昭和43年頃から水俣湾の魚は大丈夫というので、市民は漁を行い・・・昭和50年10月頃突然行政当局は、魚は汚染されているのでとるなとの立看板を立てた」として、その責任を明らかにするよう求める点もある。
一方日本全体に大きな衝撃を与えていた「第三水俣病事件」は、6月になって環境庁水銀汚染調査委員会によって「シロ判定」(註12)がなされている。シロ判定は「政治的判断」とも言われるものであった。7月にはシロ判定にもかかわった新潟大学の椿教授は「新潟水俣病患者認定甘かった」(註13)と審査を厳しくし、実態と掛け離れたものしていくことを宣言したかのようであった。熊本水俣病事件に対しても、被害を小さなものととらえる作用が終始働き、滞留していた未認定患者の処分にもその影響は計り知れないものであった。
74年11月になると「この計画は全市民向けの説明会や公開討論も経ず最終案として固められようとしており・・・計画は環境優先と安全優先という二つの根本を踏みはずしている。・・・工事の安全性も確認できない」として、水俣病市民会議代表や17人の市民が県に計画反対を申し入れている。(註14)また、水銀ヘドロを調査していた熊本県は75年3月になって「処理すべきヘドロ量が倍増したため埋め立て地を拡大する。新たにわかった高濃度水銀ヘドロを除去するため、処理区域の拡大も必要」(註15)として、工法の再検討を行うことを表明している。この結果6月には埋立地を55.5ヘクタールとし、ヘドロ処理区域を211ヘクタールとする案が提案され、汚泥処理技術検討委員会で了承(註16)されている。検討委のメンバーでもあった浮池市長は、市議会の質問に対し「多くの市民を含めた説明会をするよう県に要望する。安全性については、環境庁が専門学者により定めた基準地でこれを信用するしかない」と答弁(註17)しており、市独自の取り組みによる安全性の確認を実施するつもりのないことを明らかにしている。また丸島排水路の護岸が大雨で崩れた際も「基礎工事から必要となっており、ヘドロを動かさずに基礎工事を行うのは困難であり、県の指導もあって護岸補強工事を見送る」(註18)こととしている。こうした工事ですら、水俣市独自での取り組みは、困難だったと思われる。
水俣市の独自の取り組みとして、住民の健康調査があった。75年7月に発表された第一次アンケート調査の結果は「6557人の回答のうち、26%1707人が要検査。169人が認定申請を希望」となっている。この調査と平行して、水俣市住民健康調査も81年まで続けられている。調査の全調査世帯数は11535世帯、対象人口3万7145人となっており、医師診察の対象となった二次検診の対象者は4117人であった。さらに精密検査を必要とされた者は387人で、全調査対象者からすれば人口の1%が認定申請に値するような病状を持っていたとも言えるものであった。水俣市は7月から8月にかけて、周辺住民に対してヘドロ処理に対する説明会を十数回に渡って行い、水俣市は9月になって熊本県と共に、水俣湾で魚を採らないようにとの立て看板を設置している。また市議会は12月に入って、国・県に対し「ヘドロ処理費のチッソ負担軽減を求める意見書」を採択している。
またヘドロ処理工事に伴い予想されている、連日行き来する大型ダンプカーの影響について、百間町住民と再三話し合いを行っている。市側は「歩道を設置して事故を防ぐ。二次公害は出ない。住民の健康調査はしない」などの回答(註19)をしている。住民の会はこうした回答を不満として「解決策もないまま着工されれば将来にわたって地区の生活環境が失われる」として、市議会に請願(註20)を行っている。水俣市と地元住民との話し合いは、双方の意見がかみ合わないまま終了し、以後百間町住民は、ヘドロ処理検討委員会に対する公開質問状(註21)の提出や、運輸省・熊本県に対し抗議を行っている。水俣湾ヘドロ処理工事の概要が明らかになると、水俣市民や行政の関心は工事の早期着工と、工事費の負担に集中している。11月には、市議会が「早期着工に積極的に協力すること」を決議しており「監視結果の公表や、事業費の市財政への格段の処置など」(註22)を議決している。
77年12月には熊本地裁に対し「水俣湾等ヘドロ浚渫工事差止仮処分申請」(註23)を行っている。この後ヘドロ処理工事は、80年3月の仮処分申請却下の判決(註24)を待って、本格的に実施されていった。 水俣湾の浚渫及び埋立工事は、本格的な実施に伴って水俣市の大きな課題となっていった。
百間港埋立工事=公害防止事業については、熊本県が発行したパンフレット「水俣湾堆積汚泥処理事業の概要」(註25)及び水俣市が発行している「水俣病のあらまし」(註26)に概要がかなり詳しく記されている。
74年4月 関係行政機関を主体とする計画委員会設置
74年5月 専門学者による技術委員会を組織し検討を開始
75年6月 水俣湾堆積汚泥処理の基本計画並びに監視基本計画 を策定。(水銀濃度25PPM以上のヘドロを浚渫決める)
76年2月 費用負担計画決定「総事業費485億円、原因事業者=チッソ負担307億円、残りを国、県が折半」
76年5月 熊本県水俣湾公害防止事業所開設
76年12月23日 熊本県水俣湾等公害防止事業監視委員会設置
77年10月 1日 工事開始
77年10月 1日 仕切網及び音響装置設置工事着工
77年11月15日 仕切網及び音響装置設置工事完了
77年12月26日 住民が熊本地裁に工事差し止め仮処分申請、工事中 断
78年 3月30日 一部住民が熊本地裁に工事差し止め仮処分申請
80年 3月12日 「水俣港湾等ヘドロ処理事業促進市民運動の会」を 結成し、署名運動。
80年 4月16日 熊本地裁、工事差し止め仮処分申請を却下
80年 4月22日 水俣市長、市議会議長、市議会代表、水俣商工会議 所会頭ほか同会の代表らが、県知事、県議会議長にヘドロ処理事業の早期着工を陳情、知事に署名を手渡す。
80年 4月23日 臨時市議会を開催、「水俣湾堆積汚泥処理事業の安 全かつ早期着工に関する意見書」を採択、国、県へ提出
80年 5月15日 水俣市、市議会は促進市民運動の会の代表と共に環 境・運輸・自治の各省に早期着工を陳情
80年 6月 6日 仮締切堤工事再開(水俣湾ヘドロ浚渫工事を再開)
81年 3月25日 仮締切堤完成
81年 6月 8日 一工区(緑ノ鼻地区)工事着工
82年10月27日 水俣湾ヘドロ処理工事第二工区(明神地区)着工
83年 3月 3日 一工区、水俣湾ヘドロ試験浚渫工事開始
83年 6月13日 水俣湾ヘドロ本格浚渫工事開始(緑ノ鼻地区)
83年10月13日 二工区(明神地区)護岸工事着工
83年11月 費用負担計画の変更
84年 8月 2日 一工区(緑ノ鼻地区)覆土工事開始
85年 1月10日 一工区暫定供用開始
85年 3月13日 市議会で、市当局が水俣湾水銀ヘドロ浚渫に関して 工法の安全性を追及される
85年11月 7日 二工区締切完了
85年12月12日 水俣湾ヘドロ処理工事第二工区汚泥浚渫開始
86年 9月 9日 水俣市、市議会、チッソ廃棄物埋め立て地を5億円 で買い上げを決める。チッソは全額をヘドロ処理事業費のチッソ負担分の一部にあてる。
86年12月26日 二工区(Dポンド)覆土工事開始
87年 3月20日 二工区(Dポンド)覆土工事完了
87年 7月20日 丸島漁港公害防止事業、ヘドロ浚渫、工事開始(総 工費1億7200万円、チッソ・水俣化学負担1億3900万円、残りを国、県が折半)
87年12月25日 二工区汚泥浚渫完了、水俣湾ヘドロ浚渫工事終了
88年 2月24日 丸島漁港、浚渫終了
90年 3月31日 水俣湾公害防止事業が終了
以上のような経過を経て百間港の埋立工事としての公害防止事業は完了した。
②まとめ
水俣市のヘドロ処理工事に対する対応は、その工事主体が熊本県であることから、住民への説明会を開くなど、熊本県の計画を実施するための施策が主なものと言える。またチッソに対するヘドロ処理費の削減を要請する動きが積極的であり、ここにもチッソの倒産におびえる水俣市政の姿勢が見て取れる。ヘドロ工事に伴う健康調査も実施をしておらず、こうした面からも住民の行政不信が募っているものとも思える。
水俣病で経験した貴重な教訓の一つには「汚染は目に見えないスピードで徐々に進み、急激な健康破壊だけではなく、知らない間に健康を蝕むこともある」との事実がある。こうしたことからすれば、ヘドロ処理に伴う住民の健康の変化は、長期にわたって水銀に暴露してきた水俣市民の健康管理の面からも重要なことと思える。
(2)未認定患者への対応
経過
政府による水俣病の公害認定や水俣病患者の民事訴訟提起は、不知火海沿岸に暮らしていた人々に対して、次のグラフに見えるように、水俣病事件に対する関心と認定申請への決心を呼び起こした。加えて1973年3月に示された患者勝訴の判決によって、認定申請者は急激に増加している。
熊本県は急増する申請者への的確な対応策を立てず、申請から処分まで数年待たされる者もでてきていた。こうした中で74年2月になると、結論が保留されていた申請中の被害者が、川本輝夫らと共に武内審査会長を訪れ(註27)事情説明を受けている。また同時期には環境庁と熊本県から委託を受けた「水俣病認定業務促進検討委員会」が発足(註28)しており、未認定患者の問題がようやく取り上げられる所となった。
認定促進検討委員会は各大学の夏休みに大量検診を行うことを決定し、7月1日から「2カ月で460人消化」(註29)の目標で実施している。この集中検診が申請者から「デタラメ検診」(註30)として反発を買い、審査の滞留を助長する皮肉な結果ともなっていった。
3月には、八木シズ子ら未認定患者が「正式認定までの間の、治療費や生活費を求めて、仮処分申請」を行っている。仮処分の申請は3カ月後の6月27日、熊本地裁によって「チッソは医療費支払え/実費と月額2万円/認定先取り主張認める」(註31)が示されている。熊本地裁の仮処分決定による医療費などの支払いによって、県知事から水俣病と認定されていなくても、早急に救済を得る権利があることを、多くの申請者が自覚することとなった。
水俣病被害者としての自覚は、同年7月179人よって提起され、最終的には650人にも及んだ環境庁に対する行政不服審査請求(註32)にはっきりと表れた。環境庁への申し立てには、沿岸の住民・漁民を中心に同調者が増加し、同年8月の「水俣病認定申請患者協議会(以下申請協)の結成」(註33)へとつながっていった。結成された申請協は、結成大会の当日「県行政に水俣病事件への対処は事件の本質を見きわめるものではまったくなく、その漫然たる対応は水俣病を覆い隠し、被害者を放置し、被害を拡大せしめるものであったことはまぎれもなき事実です」との要求書(註34)を決議し、先の仮処分の救済内容である、医療費実費と医療雑費月2万円を要求した。
また認定申請後の検診で、検診医の名前を明らかにすることと、重症者の検診の具体的予定を明らかにすることを要求している。結成後の申請協は、再三に渡って熊本県との交渉を続けていたが、9月6日の熊本県との交渉(註35)は徹夜で行われ、県議会自民党が暴力排除決議(註36)を強行するなどの事態となった。環境庁は10月24日に至って、提出されていた不作為の行政不服審査請求について、一部申請者については熊本県の怠慢を認める決定(註37)を行っている。しかし認定業務の改善や促進は実質的には行われず、申請協会員406人は、熊本県を相手に不作為の違法確認訴訟を提訴(註38)している。いよいよ未認定患者問題は、熊本県行政を揺るがす大きな問題となっていった。
この提訴にあわてたかのように、沢田熊本県知事は12月に環境庁へ「国で直接処理を/県の行政能力超える」(註39)と陳情し、未認定患者の滞留状態が熊本県の行政能力を超えていると訴えている。知事はこの陳情の中で「本来医療救済のために国から委託された認定業務が現状では補償まで広がり、認定を難しくしている。国が全面処理が不可能なら県の業務は医療救済の認定に限り、一定の疫学条件に合致し、何らかの神経症状のある者は検診、審査なしで認定できるようにしてもらいたい」と認定制度を二本立てとする改正案を提案している。本来まったく別のものだった認定処分と補償の問題を、県行政自らがからめ続け、問題を複雑にしていたことが明らかになっている。環境庁はこうした中で、認定申請後1年以上を経過した申請者に、医療費の支給を行うことを決定している。水俣病かどうかの医学的判断を伴わない者への医療費の支給は、公害被害者に対しても初めてのものであり画期的なものとなった。しかし国や県にとっては、不作為の違法状態を切り抜けるための苦肉の作であったとも言える。こうした申請協の行動は、多くの申請者や沿岸住民に影響を与え、次々に患者団体が結成されるきっかけともなっていった。
同年11月20日には「茂道申請患者漁民の会」が、75年1月には水俣市湯の児地区住民による「公害による漁民被害者の命を守る会」が結成されている。また県外患者も、同年3月には「関西水俣病患者の会」及び「東海地方在住水俣病患者家族互助会」が結成されて、各地区における申請者の結束が高まっていった。
6月になると環境庁水俣病認定検討会が開かれ(註40)判断条件の整備を行おうとしていた。また先に提起されていた不作為の違法確認訴訟は、76年の12月に判決(註41)が示され、熊本県は控訴を断念し、患者側の勝訴は確定(註42)している。熊本県の認定業務に対する行政の責任が明らかにされた意義は大きい。国と熊本県はここにいたって、大きな3つの課題を同時に克服する手立てを準備することとなった、すなわち増大する申請者と滞留している処分保留者の早急な処理。補償協定書の調印以降経営悪化を迎えているチッソの救援。そして認定者を極力押さえ、チッソの補償金支払いの負担を軽くすることを同時に解決する方法である。
78年6月に、沢田熊本県知事の同席を求めて水俣病問題閣僚会議を開催された。この席で「水俣病総合対策」(註43)を決定している。総合対策は「国の審査会設置。県債の発行。チッソの経営強化。水俣・芦北の地域振興」が柱となっており、不作為の違法が確定したことで対応を迫られていた国と県の最終対応策であった。国は認定審査を直接行うことによって「県行政の能力を超える」とする熊本県の不満に対応しつつ、県債発行による財政負担への不満をかわしている。県債発行によって、チッソの補償金支払い能力を維持させながらも、患者認定の増加による負担の増大を防ぐ手立ても、同時に用意されていた。 用意されていた「新たな環境庁事務次官通知」(註44)は患者側の強い反発(註45)を受けながらも、環境庁の強い意向によって施行され、以後の水俣病事件を、国・県のシナリオ通りに進めていくこととなった。
②まとめ
不知火海の沿岸には、20万人とも30万人とも言われる人々が暮らしていたと言われている。こうした過去に何らかの水銀汚染の影響を受けた人々の健康を可能な限り追跡し、多様な水銀汚染による症状を確定していくことが、行政に課せられた責務である。
熊本県の処分の遅滞を行政の違法行為とした訴えは、未認定患者の行う行政批判の基本姿勢となっている。訴訟の中で行政の行為が違法とされたことで、74年ころから動き出していた未認定患者運動は、大きな転機を迎えている。違法状態を解消するために熊本県のみでなく、国家行政として水俣病の認定をおこなう方針が取られたことは大きい。そして新たな水俣病の判断条件まで示して患者を救済しようとしたことと、チッソを倒産の恐怖から救うことは、当然であるが矛盾している。患者を認定しチッソが補償金を支払う対象者として公に認める行為と、チッソを救うために発行される県債の主体が同じ熊本県にあることも、同様である。
補償協定書の調印以後、多くの申請者の出現によって明らかにされた未認定患者の存在は、今やその被害の存在すら一蹴されようとしている。沿岸住民が、自らの力で見せた水俣病被害の全貌の一端がまた消し去られようとしている。敗北の主因は78年6月の「水俣病総合対策」と、7月にほぼ同時に示された「新事務次官通知」を阻止できなかったことにある。地方行政のもつ様々な限界は当然ながら、今後も水俣市行政が潜在する被害者を掘り起こす努力を行うか否かが、これまでの長い未認定患者問題における責任を果たせるか否かにかかっている。
(3)ニセ患者発言の波及
①経過
水俣病事件は、民事訴訟の判決及びチッソと被害者との間における協定書の調印などによって、大きな山を越えていた。しかし一方で潜在している被害者は多く、問題が指摘(註46)されていた。74年8月に未認定患者が「水俣病認定申請患者協議会」を結成した。申請患者協議会は、申請後数年からひどい場合には10数年も処分されないまま待たされていることに強く抗議して、再三熊本県に出掛けていた。交渉によって徹夜に及ぶものもあり、申請者の増加とともに熊本県行政及び県議会の注目を集めていた。熊本県議会では自民党の提案により、患者の行動をいきすぎとして「暴力排除決議」を採択している。
また患者側は、熊本県を相手取り「不作為の違法確認訴訟を提訴」するなど、熊本県行政を追及する姿勢は強力なものとなっていった。こうした中で一度は熊本県知事から棄却処分され、処分を不満として環境庁に行政不服審査請求を行っていた被害者が、熊本県に差し戻された。これに対し熊本県議会公害対策特別委員会は環境庁に陳情を行ったが、その際杉村委員長らが「申請者にニセ患者が多い/補償金が目当て」などと発言していたことが新聞で報道された。(註47)申請協議会はこうした発言に対し、その発言の真意確認と抗議を行った。杉村委員長をはじめ全委員が、発言を確認しなかったため被害者は退席する委員長に取りすがって確認を求めた。この際に暴力行為があったとして、後日患者2名を含む4名が不当にも逮捕・拘留された。長期に渡って続けられた刑事裁判では、最高裁判所による被告4名の有罪判決が確定している。
また水俣高校で行われた弁論大会において「水俣病と名つけた人は水俣に住んでいる人のことを考えてほしかった。やれ会社が悪いの、補償金を出せのと騒ぎ立て、お金をもらい、楽な生活をしている。・・・水俣病が騒がれてからも、自分から好きこのんで水俣の魚を食べた人がいると思います。・・・ただ会社側が、どうのこうのと言うだけで、お金をもらえることが私はうらやましく思います」との弁論も行われていた。(註48)この弁論の発表に対して患者数名が、76年になって校長に抗議を行っている。これに対し校長は全面撤回を行うとともに、学校内における差別の存在を認め監督不行届を謝罪し、公害教育を促進することを約束している。
さらに79年11月には、第2回経団連フォーラムに出席した森下参議院議員が「熊本県では申請すれば水俣病患者になって金がもらえるから、そのうち県民全部が水俣病患者になる。私も熊本県に住んで水俣病患者になりたい」と述べたことが報じられ、患者が自民党本部に抗議を行っている。(註49)
②まとめ
チッソという一企業の絶対的な力が、今日までの水俣地域の経済を支えてきた。だからこそ、チッソと相対していくこととなる水俣病問題は、多くの市民にとって強いタブーを含んだ問題であった。
水俣病の被害は身体的なもの以外にも様々な被害が報告されているが、被害者は特に「差別」について敏感である。また差別は通常、社会の表面に表れにくい形で行われ、個々人の直接的な関係や地域の中で抗議を行うことが困難な場合が多い。公害対策特別委員会によるいわゆる「ニセ患者発言」は、こうした見えにくい偏見や差別が、新聞報道により明らかになった貴重な例とも言える。また弁論大会という公的な場における発表も、同様であった。
差別問題が持つ困難な課題は多様にあるが、表面に現れにくい問題であればあるほど、そうした機会をとらえて、差別を知り乗り越えるための手立てを見つけ出す努力が行われなければならない。個人ではおおよそ困難な取組みである。しかし水俣市においては「水俣病の病名は変更すべきもの」として語られ続け、様々な市民運動によって主張されてきている。一方で、被害者に対する偏見を取り除く動きは、市行政によってはほとんど取り組まれてきていない。
差別の問題については、水俣市が水俣病事件の中で独自に取り組むことが可能であり、国・県などの対応よりも的確な施策が考えられる事柄である。小中学校の授業や社会教育の中で、抽象的な「差別問題」「同和問題」としてではなく、生きた生身の課題として行政が積極的に取り上げていくべき問題である。
県議会議員や大臣などによって繰り返される「差別的なニセ患者発言」の影響は計り知れない。日常の行政の努力がなければ、小中学生にも「ニセ患者」なる意識が定着してしまう。水俣病事件を抱えた地域だからこそ、言葉一つにも痛みを感じる人がいることを知ることができる。
今後の水俣市の取り組みは、患者への差別解消に重要な意味を持っている。
(三)まとめと残った問題点
73年に患者とチッソとの間で行われた「補償協定書」の調印は、水俣市民と行政を安堵させた。 水俣病事件における被害は、単に補償金によって償われるものではなかった。ともかくそうした金銭による補償が行われ、次には精神的な被害や日常に中での差別といった被害に、行政として対応していくチャンスが、いわば補償協定書の調印であった。しかし急遽出現した「第三水俣病事件」は、水俣病事件を再度水俣市行政から遠ざけてしまった。それどころか以前にも増して、水俣は全国の水銀汚染の象徴として歩き始めることとなっていった。 第三水俣病について、水俣市の対応できることはそれほど多様にあったとは思えない。しかし「ニセ患者発言」については、市政レベルで充分対応が可能だし、むしろ国政や県政レベルでは取り上げにくいものでさえあった。不幸なことに水俣市選出の県議会議員は、この時「ニセ患者発言」を行った加害者の側にいた。このことが恐らく水俣市民や行政の対応を困難なものにしてしまったに違いない。
今日の時点で省みるべきことは、この「差別」に対する対応を、水俣市行政は何ら行って来なかった点にある。小中学校での公害授業にしても、心ある一部の教員の努力によって行われていた程度であり、けして水俣市として水俣病の差別をとらえなおすために行っていたとはいえない。未認定患者運動に対する理解も、根源的には「被害者」との認識が、水俣市民にあるか否かが大きい。
今後は思い切って、水俣市長が未認定患者の要求を持って、被害者とともに、県や国に事態の改善を要請することなども行うべきではないか。水俣市の人口の中で、チッソにかかわる世帯と同様に、家族や身内に水俣病患者の居る世帯は多数ある。チッソ存続を願う市政と、まったく同様のレベルで水俣市政が取り組むべき課題として、いわゆる「ニセ患者発言」「差別問題」はあるのではないか。
(四)資料
(1)朝日新聞 73年5月22日
(2)朝日新聞 73年5月22日
(3)サンケイ新聞 73年6月14日
(4)熊本日日新聞 73年6月19日
(5)朝日新聞 73年7月9日
(6)読売新聞 73年7月12日
(7)熊本日日新聞 73年7月20日
(8)熊本日日新聞 73年11月27日
(9)熊本日日新聞 74年1月9日
(10)「公開質問状」 ヘドロを安全処理させる会 75年2月17日(11)「公開質問状」 ヘドロを安全処理させる会 76年6月3日
(12)熊本日日新聞 74年6月8日
(13)朝日新聞 74年7月24日
(14)熊本日日新聞 74年11月14日
(15)朝日新聞 75年3月12日
(16)朝日新聞 75年6月15日
(17)朝日新聞 75年6月17日
(18)熊本日日新聞 75年8月9日
(19)熊本日日新聞 75年12月9日
(20)西日本新聞 75年12月11日
(21)「公開質問状」 76年6月3日
(22)熊本日日新聞 75年11月11日
(23)熊本日日新聞 77年12月27日
(24)熊本日日新聞 80年4月17日
(25)「水俣湾堆積汚泥処理事業の概要」 熊本県 88年
(26)「水俣病のあらまし」 水俣市
(27)朝日新聞 74年2月20日
(28)熊本日日新聞 74年2月23日
(29)熊本日日新聞 74年7月2日
(30)熊本日日新聞 74年9月7日
(31)熊本日日新聞 74年6月28日
(32)朝日新聞 74年7月16日
(33)「大会決議」 水俣病認定申請患者協議会 74年8月1日
(34)「要求書」 水俣病認定申請患者協議会 74年8月1日
(35)西日本新聞 74年9月8日
(36)朝日新聞 74年9月14日
(37)熊本日日新聞 74年10月25日
(38)西日本新聞 74年12月14日
(39)西日本新聞 74年12月24日
(40)熊本日日新聞 75年6月3日
(41)朝日新聞 76年12月16日
(42)朝日新聞 76年12月29日
(43)熊本日日新聞 78年6月17日
(44)朝日新聞 78年7月4日
(45)熊本日日新聞 78年7月18日
(46)朝日新聞 73年11月15日
(47)熊本日日新聞 75年8月8日
(48)「季刊不知火6」 77年3月1日 P17
(49)熊本日日新聞 79年11月25日
【認定問題期Ⅱ】
(一)時代の概略
1978(昭和53)年6月20日、認定業務促進、県債発行等のチッソ金融支援、水俣・芦北地域振興計画の3つを柱とする、「水俣病対策について」という閣議了解が出された。この閣議了解が、この時期の水俣病事件への行政の取り組みの大枠を規定している。また、それに対応して患者の動きも規制している。そして、この章で検討するすべての事項を制約していると同時に、すべての事件を包含しているとも言える。チッソの水俣市への進出-水俣病事件の発生・発見-原因究明-チッソの責任追及-患者と行政との対立、と続いてきた水俣病事件への行政側の対応の集大成がこの閣議了解に集約されていると言えるだろう。
この閣議了解を一言で言うならば、「国としての水俣病事件の終わらせ方の大枠を定めた」ものと言えるだろう。事実、その後は関係者=行政・患者も一般市民もその路線が作り出す様々な状況に対応せざるを得なくなり、それが今も続いている。
昨今、「既に水俣病問題は終わった。あとはチッソ問題があるだけだ」と言われているが、そういった状況もこの閣議了解で既に始まりを見せていたと言える。既に多くの局面で表面的にはそのことを証明するような事象は起きている。しかし、本当に水俣病事件は終わったのだろうか。チッソさえ立ち直ればすべては解決するのだろうか。ただ、そう思いたい人、そう思わせたい人々がいるだけではないのだろうか。表面的な事象にとらわれずに事件の本質を見ていくことが今だからこそ必要ではないのだろうか。
県債発行は今も続いているが、「患者救済のため」という表向きの理由よりも、口には出さないが「チッソ救済の為の県債」という意識が一般には強いだろう。そして、チッソ救済は患者補償のためというより、社会不安を回避し、社会秩序を維持し、地域社会の安定をさせんが為のものという色彩が強い。秩序の維持、社会の安定は多くの人々の思いであり、そしてそのことによって、少数者である被害者・患者は自らの主張を大声で唱えることをはばかるようになり、社会秩序の枠の中でしか発言できなくなってしまった。世間はそれを当然のこととして受け取り、「秩序を乱さないのであれば協力しよう」といった風潮が生まれてきているように思われる。埋め立て地の完成も「公害防止事業」としての意味あいより、「地域振興に寄与する」ことの意味あいが大きく、人々の関心も埋め立て地の意味そのものにはなく、その活用方法にある。これもまた先の閣議了解の「水俣・芦北地域振興計画」がもたらしたものである。
この章では、先の閣議了解に記された事項を中心に、事実経過の概略とその正否を検討する。それらを、(1)県債発行、(2)水俣市の水俣病への取り組み、(3)未認定患者への取り組み、(4)水俣湾埋め立て地の完成、という4つの項目に分けて考える。
(二) 主要な出来事
(1)県債発行
① 経過
ア チッソの経営悪化
補償協定締結以来、チッソは毎年30億円以上の補償金を支払わなければならなかった。1975年には経常損失30億円を出し、その上に補償金の支払31億円などが加算され、結果として損失は73億円となっている。
続く76年には経常では1億円の利益を出したものの、補償金支払は47億円にのぼり、48億円の損失を出した。この時点で累積債務は276億円に達しており(註1)、この状態が続けば、チッソの倒産は目に見えるといった状況にあった。
イ 閣議了解でチッソ金融支援を決める。
そのような中で、1978年6月20日、「水俣病対策について」という閣議了解が出された。(註2)この閣議了解は3本の柱からなっている。①認定業務の促進、②チッソ金融支援、③水俣・芦北地域の振興である。
このうち①については、同年7月3日の「水俣病の認定に係る業務の促進について」という環境庁事務次官通知(新次官通知)と、同年10月20日第85回臨時国会で、「水俣病認定業務の促進に関する臨時措置法案」(国の審査会の設置)の可決となって実施されていく。
②については、同年8月28日に熊本県と環境庁等関係5省庁による「チッソ株式会社に対する金融支援措置に関する協議会」の発足となり、県債発行へとつながっていく。同年12月19日には熊本県議会公害対策特別委員会で、チッソ県債発行を8項目の付帯決議を附して承認された(註3)。そして、同年12月27日、チッソに対し県債発行による金融支援措置として33億5000万円の貸付(第1回)を行った。その後も毎年6月と12月に分けて40~48億円の貸付が行われた(註4)。
ウ 県債発行を延長、再延長、再々延長、・・・
78年6月20日の閣議了解と同時に「関係省庁間覚書」が出され、その中で県債の発行は1981年度までと定められていたが(註5)、期限が迫ってもチッソの経営は好転せず、かえって累積赤字は膨らみ、80年度末で565億円にのぼっていた(註1)。このような状況の中で、81年11月に、先の「関係省庁間覚書」の一部が書き換えられ、県債発行を84年度まで延長することとした(註6)。しかし、その後もチッソの累積赤字はますます膨らみ、県債発行は3年ごとに延長され、今も発行が続けられている。
エ 水俣市は県債発行の継続を陳情
チッソの経営が悪化し、県債によるチッソ金融支援によってかろうじて経営が続けられるという状況の中で、地元行政である水俣市はチッソの存続強化とそのための県債発行の継続を上部の行政に働きかけていく。
まず、1979年7月31日には、水俣市議会が「チッソ水俣工場の存続強化に関する意見書」を採択し、首相や通産省に送付した(註7)。ついで、80年6月16日には、市議会一般質問の中で、市長は「県債の継続発行を国や県にお願いする」と表明し、同年11月27日には、水俣市と市議会の代表が熊本県議会公害特別委員会にチッソ県債問題で陳情におもむいている(註8)。続いて、83年、86年、87年にも水俣市長や市議会の代表が知事、自民党県連会長、県議会環境対策特別委員会などにチッソ県債の継続発行を陳情している。
② まとめ・・・県債発行の意味=県債発行に至る背景と真の目的
県債発行に対しては、様々な疑問、異論がある。
先の1978年の県債発行を決めた閣議了解では、「原因者負担の原則を堅持しつつ」「経営基盤の維持・強化を通じて患者に対する補償金支払に支障が生じないように配慮するとともに、併せて地域経済・社会の安定に資するもの」「貸付金の元本返済の繰延、金利の減免及びたな上げ等を・・維持」とされ、出発点から「原因者負担の原則」と実情が合わない事の矛盾を取り繕うためのものであることが明らかになっている(註2)。これを受けた同年12月の県議会でも、「県政史上に例をみない全く異例の措置」と認識し、その附帯決議の中でも「法的にも不明確な現状を改め、国の責任分野を明らかにさせる」、「法律上解明すべき問題点が多い。法の整備が必要」、「万一、チッソに不測の事態が生じた場合においては、国において100%の措置をすること」、「今回の県債発行については、今回の措置を前例としない」等が記されている(註3)。
また、当初は期限を限定したものの、その後も3年ごとに延長し、今もって貸与が続けられている事からわかるように、当初から半永久的に「異例の措置」を続けなければならない事は明白であった。「異例の措置」を続けなければならない事自体が既に異常といえる。国や県はどうしてこのような矛盾に満ちた、問題点の多い「チッソ支援県債」に踏み切ったのだろうか。県債発行の本当の意味を考察してみたい。県債が「認定業務促進」と「水俣・芦北地域振興計画」とセットで始まったことから県債発行の本当のねらいが推測される。
新次官通知・判断条件設定と国の審査会設置は「認定業務促進」が表向きの理由であった。それは認定業務の遅れ=不作為違法が裁判で確定したのを受けてのことであった。認定業務が何故に遅れてきたのか、それは補償協定締結によって、認定=補償の図式が確定し、
① 申請→検診→審査→認定→補償
↓
② チッソの負担増→チッソの経営圧迫
↓
③ チッソ倒産→社会問題化
という図式が予測され、③の回避が緊急の課題であった。
この図式に関わってくるのは、国と熊本県、チッソとチッソ地元の水俣市・水俣市民、それに被害者・患者の三者である。被害者・患者は補償を望んでいるのであり、①の図式だけで良かった。国・県、チッソ・水俣市・市民は③を危惧していた。③を回避するためには②をそして①を回避する必要があった。
ここで、国・県、水俣市・市民、及び患者・被害者の三者の立場で問題を見てみたい。
(国・県の施策=思惑)
①判断条件・新次官通知→認定を減らす→チッソ負担減→倒産回避
↓
社会問題化の回避
②県債発行等のチッソ金融支援→チッソ倒産回避
↓
社会問題化の回避
③芦北・水俣地域振興計画→公害では町はつぶれない
↓
社会問題化の回避
(水俣市・水俣市民の思い)
①県債発行等のチッソ金融支援→チッソ倒産回避
↓
生活不安の解消
②芦北・水俣地域振興計画→地域経済活性化
↓
生活不安の解消
(患者の思い)
水俣病に認定→補償 →→ 生活不安の解消
という図式が考えられる。
県や国にとっては、県債発行は新次官通知や水俣・芦北地域振興計画とセットにして水俣病事件がこれ以上に社会問題化するのを回避しようとした。先にも述べたように県債発行も様々な問題を含んでいるが、新次官通知もその後大きな問題を引き起こしている。これについても触れておきたい。
73年の補償協定の締結により、認定=補償という図式が確立された。71年の環境庁裁決・旧次官通知を基準にして認定業務を行っていたが、国や県の予想を越えた申請者、認定者が出てきた。申請者の激増は審査の遅れとなり、認定者の増加はチッソの負担の増大となった。これらは国や県にとって頭の痛い問題だった。審査の遅れは違法状態と訴訟で確定し、チッソの経営も危うくなってきた。そこへ73年には第三水俣病事件が新聞に大々的に報道され、全国的な水銀パニックを引き起こした。政府にとってこれは緊急の課題だった。政府はパニックを鎮めるために、強引に第三水俣病事件に「シロ判定」を下し、県は第三水俣病を発見した熊本大学第二次研究班の班長でもあり、当時の審査会長でもあった武内忠男をはじめ審査会の中心メンバーや検診医を更迭した。武内審査会は71年の旧次官通知に従い審査したため認定率は高かった。
次の大橋審査会、その次の三嶋審査会のもとで未処分申請者は激増していった。これは認定を減らしたいという思惑から認定審査を厳しくしたのと、武内審査会の経験の深い医師たちを更迭したため検診・審査が滞ったためである。それが「不作為違法」であると裁判所に断じられ、政府や県は対応を迫られた。そういった中で78年の新次官通知・判断条件が出されたのである。
これらは認定業務の促進を表向きの理由にしているが、要するにそれまでの認定基準を大幅に狭めたものであり、「認定制度は患者救済制度ではなく、患者切り棄て制度だ」と言われる由縁となった。水俣病の病像は発生当初の国や県行政の怠慢=調査不足もあり、未解明な部分が多い。この未解明な部分を、認定基準を狭めるといった形で申請者に負わせたのである。当然申請者は認定制度の改悪に異議を唱え、県や国への抗議行動、認定制度を巡る訴訟の提訴へとつながっていった。
先にも述べたように78年の閣議了解を基に新次官通知=「後天性水俣病の判断条件」、県債発行、水俣・芦北地域振興計画が定められたが、これは「国としての水俣病事件の終わらせ方の大枠を定めた」ものであり、それは患者を切り棄てただけでなく、水俣市・市民にも大きな影響をもたらしていった。
水俣市や水俣市民は直接的な利害関係としては患者補償・救済に関わってはいない。しかし、チッソの経営不振→チッソ倒産という図式が大きな不安としてある以上は、その元を作っている患者補償に対し好意を持つことは出来ない。それが妬みと相乗効果を生み、「ニセ患者」の意識を生みだし、増幅していったのである。
水俣市行政としては、表向きはそのことは口に出しては言えないが、そういった市民感情を背景にして、チッソ金融支援や地域振興を上部行政に請願することになる。水俣市行政と水俣市民との共通の思いであることを示すために77年12月の「市民総決起大会」(註9)の動きになる。
市民の生活不安と患者への補償は直接的には対立関係ではないはずなのだが、市民と患者との間に「チッソ」というファクターが介在し、それ故に利害関係・対立関係が生まれるのである。水俣市行政とすれば、多数である市民と少数である患者・被害者の思いを比較したとき、行政の常道として多数派である市民を優先したのである。それが市民大会や県債発行の陳情という積極的な活動と患者補償に不熱心という消極的な行為とにつながっていく。
一方未認定の患者は、 ①認定制度を巡って県や国への要求、②加害者であるチッソへの直接要求、③チッソ・国・県を相手取った賠償請求訴訟、といった形で運動を行っていく。
これらの中で②のチッソを相手とした直接交渉の中で「認定された患者にさえ自力で補償が出来ない状況であり、ましてや未認定の人たちにまで補償することは出来ない」と、チッソは繰り返し発言し、未認定患者は認定制度や県債がチッソの隠れ蓑になっていることを知らされる。そのことが県債に対する不満となり、県債を望む市民や水俣市行政と感情的な対立を生む。これは少数派である患者にとって、多数派である市民への不信感になるのだが、力関係から表に出せないために、かえってくすぶった感情を持ち続けることになる。
(2) 水俣病事件への取り組み
① 経過
水俣市はどのように水俣病事件へ取り組んできたのだろうか。
これは当然それまでの経緯及び現在・未来につながっているものだが、ここではこの期間に限定して、主なものについて考察したい。
この期間に水俣市が水俣病事件に取り組んだもののうち大きなものは、①初の水俣病パンフレット「水俣病のあらまし」の作成と配布、②「市立水俣病資料館」の構想、③その他(「百人委員会」の設置、患者や支援者主催行事への取り組み、水俣市報での取り組み、「環境大学」構想への取り組み、など)である。
ア 「水俣病のあらまし」への取り組み
1986(昭和61)年5月15日、その年の2月に当選した岡田水俣市長は、公式確認30年後で初めて患者団体との対話を行い、その中で「水俣病に対する偏見・差別の解消手段の一つ」として、リーフレットの作成を確認した(註10)。翌87年7月に水俣市は、「水俣病パンフの内容は健康被害と救済の実態に力点を置く」方針を決め、翌88年4月には、2年越しで取り組んできた水俣病解説パンフレットの概要がまとまった。そして、翌89年2月1日、水俣病パンフ「水俣病のあらまし」(註11)を1万6000部印刷し、全戸約1万1400世帯に配布した。このパンフレットは発行の直後から他市からの申込が殺到するという状況だった。なお、この「あらまし」は後に英語版も作られている(註12)。
イ 市立水俣病資料館の構想
水俣市立水俣病資料館が1993(平成5)年1月に正式開館した(註 )。しかし、ここに至る道筋は決して平坦な道ではなかった。つまり、1981年12月の水俣市議会本会議で、市長は「水俣病資料館を建設する」ことを明らかにし、翌82年度から設計にかかり83年度には完成の予定とした(註13)。ところが、翌82年の6月には、市長は市議会一般質問に対する答弁の中で、「水俣病資料館は収集に時間がかかり着工遅れる」と発言し、水俣病資料館の構想自体も後退気味の発言になってしまった(註14)。そして、埋め立て地利用構想の中で再出発するまでの長い空白の期間に入るのである。
水俣病資料館の構想が再浮上し、実現化に向けて動き出すのは、水俣湾埋立にめどがつき、埋め立て地の利用計画が現実の大きな課題として取りざたされた89年5月になってからであった(註15)。
ウ その他の取り組み
市長が市民の声を幅広く聞き、町作りに生かすことを目的として、1986年12月に「百人委員会」を発足させた。会長は紫藤宏商工会議所副会頭で委員は145名、任期は2年だった。2年後の88年12月に百人委員会は「水俣病資料館」や「水俣病シンボル像」の設置、「埋め立て地利用計画には市民の意見も」「水俣病が語りあえるまちに」などの要望をまとめた提言書を市長に提出し第1期百人委員会はその役目を終えた(註16)。翌89年1月には第二期の百人委員会が発足した。委員は148名で、任期は同じく2年であった(註17)。
1981年7月に市民から、映画「水俣の図物語」上映に対して後援してほしいとの要望があったが、水俣市教育委員会はメージが暗すぎて教育上好ましくないとの理由で後援を断っている(註18)。しかし、84年の6月には今度は、映画「無辜なる海」の後援の申し出があり、水俣市教育委員会は後援することを決めている(註19)。この落差は何故であろうか。映画の内容自体が大きな要因とは思われないのだが。この時期に水俣市の姿勢が変化したとは思われず、担当者が替わったか、あるいは判断が一定していないことが原因ではないのだろうか。いずれにしても水俣市としての一貫性のなさが見て取れる。
1986年3月に患者や市民団体が主催する、水俣病公式発見30周年記念の各種行事に対して協力要請の請願や陳情があったが、市議会公特委はいずれも不採択としている。
② まとめ
「水俣病のあらまし」は水俣病事件の地元行政として、早期に作らなければならなかったものであり、遅ればせながらも水俣市行政によって作成され、水俣市全戸に配布された事は評価に値するものだ。内容についてもコンパクトにまとめられており、市民向けあるいは水俣病事件に初めて接するものに対しては親切な作りとなっている。しかし、被害者、市民、行政のなかで対立する事項については、その評価はもとより、対立する問題自体の説明も不足しており、水俣市の対応が事件の後追いに終始し、主導的に動いてこなかったことを表している。記述は、一般的・表面的な知識の伝達に終始している観があり、現実にある問題・対立を解決するには力不足を感じる。当初の目的である「水俣病に対する偏見・差別の解消手段の一つ」とするには、その役割が十分とはいえないだろう。
それ以上に問題なのは時期の遅れである。「水俣病が公式に確認されてからすでに三十二年余の年月」(「発刊にあたって」より)が既に過ぎ去っていたという事である。「水俣市は水俣病に消極的すぎる。無策だ」などの被害者からの言葉を裏付けているとも言えるだろう。なお、91年に発行された「新水俣市史」の中で、水俣病に関する部分がすべて「水俣病のあらまし」そのままであることは、安易過ぎる対応だ。これは66年に発行された「水俣市史」の水俣病についての記述と比較すると落差を感じる。少なくとも、市史だけを見る限りにおいては、水俣市の水俣病に対する姿勢は後退していると感じざるを得ない。
「あらまし」の英語版が作成されていることは評価できる。今後は公害が広がりつつあるアジアの各国に対する、公害先進地としての「ミナマタ」から、警鐘を鳴らすべく、アジア各国言語版の発刊も望みたい。
水俣病事件を広く伝えるためには資料館のような施設が必要なことは、誰もが思うところであり、とにかく水俣市の力によって「水俣病資料館」を開設したことは評価される。しかし、これも開設の時期があまりにも遅すぎた。公式確認から数えても37年もの年月が過ぎており、遅きに失した観は拭えない。また、内容についても不十分である。個々の事項への踏み込み・考察・提言が不足している。表面的な事実の羅列、それも一面からの見方に終始している。水俣市としての反省や県や国に対しての苦言があっても良かったのではないだろうか。対立・異論がある事項については、せめて「両論併記」の姿勢は欲しかった。それに、学芸員も置いていないという状況では将来についても疑問符がつく。資料収集が死蔵にならないように、他の機関と協力して有機的な活用の手段を講じるべきだろう。
百人委員会の設置によって、市長は幅広い市民の声を聞くことが出来るようになった。しかし、その提言が市政にあまり反映されたとは言い難いし、やがて立ち消えになってしまったころかとからも、あまり大きな存在意味を持っていたとはいえない。形は違ってもいいが、市民・住民の意見を聞く・市政に反映させることは今後の課題だろう。
水俣市や市議会は患者や患者に協力的な市民の提唱した水俣病関連の事業や行事に対して慎重過ぎる対応を続けてきた。これはチッソや市民の気持ちを思いはかってのことだろうが、被害者やいわゆる支援者の不信感を増幅させてしまった。
水俣病に対する啓蒙活動は地元行政が中心となり主体的に市民に呼びかけるべき性質のものではないだろうか。それがこの時期には全く見られないこと自体が水俣病に対する水俣市行政の姿勢を表していると思われる。
1988年9月の水俣病公害認定20周年の日に「水俣病歴史考証館」が開館している。相思社は水俣病歴史考証館の開館を「広報みなまた」に掲載して欲しいと申し入れていたが、「市報に掲載するには問題がある」として拒否している。「広報みなまた」には小さなできごとや催しまで掲載されており(註20)、それとの対比を見ると、水俣市の水俣病に対する姿勢が浮き彫りにされているように思われる。
「広報みなまた」は水俣市の方針を市民に伝えるためには、公式の、そして最も有効的な伝達手段である。水俣病は水俣市にとって最重要の課題であるにもかかわらず、あまりにも報じられる回数が少なく内容も不十分で、水俣病に対して消極的過ぎたといえる。そのような姿勢が市民の水俣病嫌い=できることなら触れたくない、という思いと相乗作用を生みだしたのではないか。今日においても、市民の多くは水俣病に対する正確な知識・情報を持たず、数多くの市民が経験している「水俣出身を語れない」という状況につながっているのではないだろうか。
水俣病についての医学や法律面での研究は、いまだに未解明な部分が多いにせよ、訴訟や様々な機関で研究がなされているが、住民レベルでの問題=社会学的な問題点の研究は立ち遅れている。地元行政に直接関わる問題であり、熊大やその他の機関とも協力して研究し、今後の市政に生かしていくことは必要なことではないか。そういったことが、公害都市として世界に名を馳せた水俣市の責務でもあり、そのことから水俣市の将来像を模索するし、実現していくことしか水俣市の未来はないのではないだろうか。
30年、50年という時がたてば、水俣病そのものもやがて忘れ去られていくかも知れないが、それでは積極的な意味で教訓を得たことにはならない。まずは、市民や他の行政、研究機関と協力して、今後どのような施設や機関や研究が必要なのかを検討すべきだろう。例えば「環境大学」は水俣病事件の研究にとって最も有効な構想であろうし、同時に、経済的にもチッソ依存体質から抜け出すためにも有効な手段となるだろう。
一連の「ニセ患者発言」は市民の中にあった「妬み」と重なり合い、患者差別と対立を助長した。市民の中にある、差別意識、嫌悪感、妬みなどは利害の対立から故意に広められたものもあるが、情報不足の中で生じたものもある。住民に正確な情報を提供するのは行政の役目であり、水俣市はそれを怠ってきたと思われる。ここ数年は水俣病事件についての催し、情報も多くなり、「タブー」といった状況からは脱出できたとは思われるが、まだまだ十分に払拭できているとは言えない状況にある。
市民への啓蒙活動にはもっともっと積極的に取り組むべきであったと思われる。今後は過去の失敗を取り返すべく一層の努力をすべきであろう。その一つとして、住民の意識調査などはどうだろうか。しかし、単にアンケートをとることだけでは正確な情報、正直な意識を把握するのは困難だろう。長期間にわたって、ねじれた意識を根付かせてしまっているから。アンケートのとり方、定期的に実施し、変化を掌握することなども検討するべきではないだろうか。
(3)未認定患者への対応
① 経過
ア 認定制度をめぐる訴訟
1977年12月に熊本地裁は、「水俣病認定不作為の違法確認請求訴訟」において原告患者側勝訴の判決を言い渡した。熊本県知事はこれに控訴せず判決が確定した。つまり、水俣病認定業務の遅れが違法状態であることが公的に確定したのである。それにもかかわらず、水俣病認定業務の遅れは解消されることなく継続した。そして、翌78年12月、認定申請中の患者が熊本県知事を相手に、認定業務の遅れに対する損害賠償を求める訴訟(水俣病認定事務に関する熊本県知事の不作為違法に対する損害賠償請求訴訟・待たせ賃訴訟)を熊本地裁に提訴した。また、その前月の78年11月には、認定申請を棄却された患者4名が熊本、鹿児島両県知事を相手にして、棄却処分の取り消しを求める行政訴訟(水俣病認定申請棄却処分取消請求訴訟・棄却取消訴訟)を提訴している。これは認定審査自体の内容の違法性を問うものである。これらの二つの訴訟は認定制度に真っ向から疑問を投げつけるものとして世間の耳目を集めた。ちなみにこの両訴訟は今も(1994年4月)継続して審理が続けられている。
待たせ賃訴訟については、83年7月に熊本地裁が原告勝訴の判決を下している。この判決を不満として国と熊本県は控訴した。それに対し同年9月、待たせ賃訴訟原告らが、水俣市議会議長に対し、国・県の控訴取り下げを求める請願を提出した(註21)。しかし、市長は市議会において、待たせ賃訴訟一審判決に不満を表明し(註22)、同月市議会公特委は原告患者から出されていた請願を反対多数で不採択としている(註23)。
イ チッソ刑事訴訟と第二次訴訟
1979年3月に熊本地裁は「水俣病刑事事件」において有罪判決を下した。この訴訟は82年9月に控訴審判決が、88年2月に上告審判決があり、共に有罪判決を下し、チッソ(元社長、元水俣工場長)は民事責任のみならず、刑事上の責任も確定したのである。同じ79年3月に、熊本地裁は「水俣病第二次訴訟」において原告一部勝訴の判決を下した。この判決に対し被告・原告双方が控訴したが、85年8月に福岡高裁で原告側の部分勝訴の控訴審判決があり、双方上告せず判決は確定している。これは、現行の認定基準が法的にも疑問があること、現行認定制度を続けるのであれば認定制度とは別枠での補償が必要であることを示している。
ウ 国賠訴訟
翌80年5月には認定申請患者ら133名が、国・県・チッソを相手に「水俣病国家賠償請求訴訟」(三次訴訟)を提訴した。これはその後も追加提訴が続き、91年1月の第14陣提訴までで原告数1159名の日本の裁判史上類を見ないマンモス訴訟となっている。同様の国家賠償請求訴訟は、その後も大阪、東京、京都、福岡の各地で提訴が続き、その総数は2237名(93年10月31日現在)にのぼっている(註24)。これらの国賠訴訟は総論としてチッソの民事上の責任が確定したのを受け、国・県の法的責任の有無(=責任論)と、現行認定基準の誤り=個別被害者の水俣病の有無(=病像論)と損害賠償の必要性と額(=損害論)を問うものである。
これらの国賠訴訟に関連し、86年12月、水俣病被害者の会は市議会に対し「水俣病患者の早期救済に関する決議の採択を求める陳情書」を提出しているが、水俣市議会は継続審議としている。これと同様の陳情は他の関係町にも提出されており、86年12月には、御所浦町議会が「水俣病患者の早期救済を求める決議文」を国に送っている。また、87年3月には、田浦町議会も「水俣病患者の早期救済を求める陳情書」を採択している。しかし、水俣市議会は87年3月の議会においても継続審議とした。同月30日には、熊本地裁が水俣病第三次訴訟第1陣判決において原告勝訴を申し渡しているにもかかわらず、同年9月議会においても、88年2月議会においても、市議会公害特別委員会は継続審議としている。水俣市議会が「水俣病問題の早期解決に関する意見書」を全会一致で可決したのは90年9月に至ってからであった。
なお、これらの国賠訴訟については、90年9月の水俣病東京訴訟「和解勧告」を皮切りに各地の訴訟において和解勧告が出されて、今も和解協議が続けられている。
エ 訴訟外の未認定患者の運動
一方、1980年ころからは水俣病認定申請者が検診拒否の運動を始めている。この運動は申請者の共感を呼び、広がりを見せ、79年4月には月間150人検診、130人審査体制が確立していたにもかかわらず、下の表のように81年からは審査対象人数は激減している(註25)。
年毎の熊本県水俣病認定審査会の審査対象人員
1979年 1284人(月平均 107人)
80年 1282人(月平均 107人)
81年 1019人(月平均 85人)
82年 614人(月平均 51人)
83年 456人(月平均 38人)
84年 519人(月平均 43人)
85年 723人(月平均 60人)
86年 1193人(月平均 99人)
87年 1609人(月平均 134人)
これは認定申請者が熊本県の検診・審査体制に大きな不満を持っていることを表している。これに関連し、82年10月に、チッソ水俣病患者連盟・水俣病認定申請患者協議会が水俣市長に対し、三嶋審査会会長を再任するなと申し入れたが、それに対し、市長は会長に適任な人だと答えている(註26)。
認定申請者の検診拒否が広まったこともあり、県の認定業務の遅れはますます顕著なものになっていった。そんな中で、85年5月に細川知事は、認定業務の促進について関係市町長に協力を要請し、同時に検診拒否者に対して医療費助成を打ち切る方針が出された。これに対しては85年9月に、水俣市長は市議会において、県の医療費打ち切りについては軽々しく実施に踏み切らないように希望すると表明している(註27)。しかし、翌86年3月議会において、水俣病認定申請患者協議会が提出していた、検診拒否者への医療費打ち切り反対決議を求める請願を不採択としている(註28)。
同86年4月に、熊本県は水俣病検診に応じない者に対して医療費助成打ち切りを決定し、同年6月には、棄却者の中で四肢末梢優位の感覚障害が認められたものに対しては、再度の認定申請をしていないことを条件に医療費の補助を行う制度(特別医療事業)の開始を決定した。これについて88年6月に市議会は、特別医療事業の適用範囲の拡大を内容とした意見書を承認している(註29)。
チッソの刑事責任が確定した直後の88年3月、チッソに対して直接交渉によって補償を勝ち取ろうとして、水俣病認定申請患者協議会を母胎として水俣病チッソ交渉団(以下交渉団と略す)が結成された。交渉団はチッソと直接交渉を開始するのと平行して、同年7月に公害等調整委員会に原因裁定を申請した。交渉団はチッソが直接交渉の継続を拒否したのを受けて、同年9月チッソ水俣工場前で無期限座りこみを開始した。9月21日、公害等調整委員会はチッソ交渉団の原因裁定申請に対して不受理の決定を下した。いわば門前払いであった。交渉団はこの決定を公害等調整委員会が責任を回避したものと怒り、座りこみはいつまで続くのか見当もつかない状況に至った。
こうした中、9月19日、市長は「双方の意見を聞いてみたい」と市議会で表明し、同22日に市長は交渉団とチッソに斡旋案を提示する意向を明らかにした。そして、同26日、市長は交渉団とチッソに斡旋案を提示したが、チッソはこれの受け入れを決めたが交渉団は拒否し(註30)、座りこみは年を越して続けられ、翌89年3月25日に福島、園田両代議士の仲介、細川知事、岡田市長の立ち会いで交渉団とチッソは覚書を交わし、翌26日に200余日に及ぶ座りこみが解かれた(註31)。この覚書に基づく第1回交渉が同年5月22日に開かれており、これには岡田市長も立会人として出席している。
なお、89年11月に、水俣病認定申請患者協議会と水俣病チッソ交渉団は統合して水俣病患者連合と名を改めたが、その後もチッソ交渉は断続的に行われている。
② まとめ
待たせ賃訴訟や棄却取消訴訟においては国や熊本県の法的責任が問われている。また、一連の国賠訴訟においては国・県及びチッソの法的責任が問われているのに対し、水俣市の法的責任を問う訴訟は唯の一度として提訴されていない。このことは水俣市が水俣病の発生や拡大に対して、法的な責任がないからだろう。しかし、法的な責任がないからといって水俣市になんらの責任もないとはいえない。法的に責任を問われなくても、地元行政としての道義上の責任は存在する。
水俣市にとっては、「違法行為を犯したかどうか」が問題ではなく、「為すべきこと、あるいは、やれば出来たことをしたのかどうか」が問われるだろう。
そのことが被害者や市民、あるいは広く世間に害を及ぼしたのかどうかが問われているのではないだろうか。水俣市として水俣病事件を総括するときに、その視点を抜かしてはならない。もし、現状に問題点があるならば、その原因がどこにあり、その時点で水俣市として何を為すべきであったか、今何ができるのか、何を為すべきなのかが問題なのである。
未認定患者団体からの要望あるいは運動に対して、水俣市は総じて消極的な対応をしてきた。その内容も国や県の後追いが多く、独自の対応はほとんど見られていない。水俣病の初発地であり、水俣病患者を一番多く抱える地元行政として、権限の有無はともかくとして、国や県を先導していこうという意志が感じられないは残念なことである。
(4)埋め立て地完成
① 経過
ア 百間港埋立工事
百間港埋立工事=公害防止事業は90年3月に埋め立てを終え、事業は完了している。この後は「埋め立て地をいかに活用するか」ということに問題は移っていくのだが、工事そのものについてもいくつかの問題点があるので指摘しておきたい。
A 工事資金の問題(負担割合は適当か、汚染者負担の原則は守られたか)
汚染原因者負担の原則によれば、公害防止事業であるから費用はすべてチッソが負担することになる。しかし、予備調査だとかの様々な名目をつけ、チッソの負担は6割強であり、しかも県がチッソから埋め立て地を買収する形をとってチッソ負担を軽減し、チッソ負担分についてもヘドロ県債を発行して実質的にはチッソはなんらの負担もしていない。これでは原因者負担の原則は名目だけとなり、公害企業に重い負担を課すことによって公害の再発を防ぐという意味あいが無視されてしまっている。
B 工事の安全性の問題(「公害防止事業」としての安全性を重視したのか、財政問題や経済効果を優先したのではないか)
水俣湾百間港の埋立=公害防止事業については、一部住民の間で、工事が公害の拡散につながり危険であるから差し止めを、との仮処分申請が為された。浚渫の基準とされた、水銀含有率25PPMという基準に対しては、それが定められた根拠となる数値や算定方法に疑問があり、「暫定基準」とされ、後に見直すとされていたにもかかわらず、その基準のまま押し切り、工事を終えたことは、いまだに疑問の声が残っている。
また地元行政である水俣市は、市民・住民の安全を最重要視していたのかどうかにも疑問がある。
82年に発行された「市勢要覧」(註34)にヘドロ埋め立て地のことが記されているが、「甦がえれ 幸多き海へ」と表題を付け、「すすむ汚泥処理事業」の見出しのあと、「汚泥が堆積した水俣港の再生を図るため、国、県、市が一体となって大規模な汚泥処理工事が順調に進んでいます。完成後は、大型港湾施設、フェリー基地や大工場団地、公園などが建設されます」(全文)と記されている。ここには水俣病の文字もなければ、水銀、公害防止、安全といった言葉もない。これは一つの例にしか過ぎないが、水俣市としての埋立工事に対する姿勢が見られるだろう。
イ 丸島・百間排水路事業について
水銀を含むヘドロは水俣湾・丸島港だけではなく、それらに続く水路にも蓄積されており、それらのヘドロを取り除く工事=「丸島・百間水路整備事業」も行われた。工事は 総事業費・15億5400万であり、その内訳は、公害防止事業費=ヘドロ除去・7億4400万、水路の整備=公共事業・8億950万であり、汚染原因企業=チッソ・水俣化学の負担は6億570万であった。工事は1986年10月に始められ、88年3月に浚渫が終了している。
この工事についてもいくつかの問題点がある。
費用の問題に関しては、本来公害防止事業であるにも関わらず、公共事業でもあるとの名目から過半の費用を水俣市が負担したことや、チッソの負担分に関してもチッソ所有の八幡プールの買収費用をその相殺にあてるなど、チッソを優遇し、汚染原因者負担の原則はないがしろにされている。
また工事の安全性については、排水路の水から基準以上の水銀が検出されたり(註35)、排水路に続くチッソ工場内でチッソ自身のヘドロ除去工事がずさんで汚濁水が排水路を経て百間遊水池に流れ込んだり(註36)したため、市民が工事の安全を求める要望書を提出したりしている(註37)。工事終了後の88年6月には、排水路から通常の20倍の水銀値を検出されているにもかかわらず、水俣市の監視委員会は安全だとして既に解散してしまっており(註38)、8月に水俣市はあわてて「年内に原因究明を行う」といった失態を演じている(註39)。
② まとめ
水俣湾百間港の埋立=公害防止事業に関して、水俣市は直接の権限も責任も有してはいない。だから、県や国に対し埋立工事の促進を求める陳情を行うしかなかった。埋立工事促進は国や県の意向と合致して、というより、国や県の思惑にそって陳情したと見るべきだろう。
工事差し止めの仮処分が一部の住民から出されたように、公害防止事業というものは、公害の拡散と裏腹の関係にある。安全性に疑問がある以上、それを最も懸念しなければならないのは、地元である水俣市行政である。そして、住民の不安を取り除くのも地元行政の責任である。せめて、工事期間中だけでも「漁獲禁止」ができなかったのか。漁獲禁止が簡単ではないことは水俣病の拡大の歴史が物語っている。しかし、なんとしてでも漁獲禁止をするべきではなかっただろうか。結果的に水俣病の拡大、発生が証明されていないからよかったと喜んではいられない。水俣市はそれらを十分に配慮した施策を行ったとは思えない。工事の促進を求めるあまり、それらをなおざりにしてしまった観がある。
水俣市が住民の安全よりも工事の促進を優先した理由には次のようなことが考えられる。
「水俣の再生が緊急課題」「悪イメージの払拭」「工事で地元が潤う」「市民の願い=早く安全な海に」「埋め立て地の活用を考えた」等々、頭に浮かんでくる言葉は多々ある。しかし、それらは一つひとつ慎重に検討されてはいない。初めから「工事促進は良いことだ」との前提があったように思える。水俣病は「工業立国、発展は正義だ」と国民が当然のごとく考え、実践してきたことの裏返しとして発生したのではなかったか。水俣病事件は「当たり前、当然」と考えることの恐ろしさを告発しているのではないのか。「調和のとれた発展」でなければならないことは今や常識となっている。水俣病の発生の地として、水俣市はそのことを体現し、実践し、そして日本に、世界に提唱する義務と権利を有している。
(三)まとめと残った問題点
(1)チッソ県債について
患者と市民とは直接の利害対立はないはずなのに、双方の生活不安、要求を突き詰めていくと対立構造が生まれてくる。このままで推移するならば、やがて少数派・弱者である被害者・患者は発言権を失い、社会の片隅で生きていくしかなくなり、やがてはその存在さえも忘れ去られていくであろう。それも世の習いであると言えばそれまでなのだが、水俣病事件は忘れ去るにはあまりにも大きすぎる事件であり、被害者の絶対数も住民の中に占める相対数も大きく、社会的に消え去るにはまだ数十年はかかるだろう。早期解決の道はないのだろうか。将来、未来に禍根を残さずに解決する道はないのか。患者と市民に直接の対立関係はないのだから、対立の生まれた原点に戻り、それを回避すればよいのではないか。患者の生活を補償することが市民の生活を圧迫しなければ良いのであり、望むべくは患者の生活補償と市民の生活向上が同時に行われることである。
それには、とりあえずチッソは倒産させない、チッソや行政は県債やチッソの経営不振を理由に患者の切り捨てをしない、水俣市や市民はチッソに頼らない市民生活を作り上げていく、ということではないだろうか。つまり①水俣市と市民は、チッソからの経済的な自立を目指す。②県・国の行政は、チッソ金融支援と同時に患者の早期救済を行う。③患者は、自らが補償要求をするだけでなく、市民や行政と協力し、患者補償要求と同時に水俣地域の振興も考え、その要求も平行して行っていくことではないか。
(2)水俣病への取り組みについて
「水俣病のあらまし」は市民向け、あるいは水俣病事件を知らない人たちに向けたものだが、もっと踏み込んで、「水俣市から日本、世界に訴える」といった内容のパンフレットを日本語版と英語版、韓国語などアジア言語版に作成してはどうだろうか。水俣病資料館については、展示内容の充実を求めたい。そのためには体制の整備や人員、予算の拡充が必要だろう。市民向け広報活動の充実も望まれる。「広報 みなまた」を充実させるのはもとより、地域ごとにこまめに広報活動を続ける必要性もあるだろう。教育への取り組みも重要だ。小学校、中学校、あるいは高校向けの副読本の制作に取り組んでみてはどうか。水俣市内の学校だけでなく、日本全国で使用できるようなものの作成を望みたい。
近ごろはずいぶんと改善されて来ているが、水俣病事件に関わる行事の積極的な開催も必要だろう。水俣市民だけでなく、水俣市以外の人が見ても納得できるようなものを望みたい。できることなら、再度「環境大学」の構想に取り組んで欲しい。水俣市が水俣病事件に取り組む姿勢が明確にされるだろうし、大学は経済効果も大きい。チッソ工場は大学の敷地として立地的にも最適だし、水俣病事件の教訓を研究する場としても意味があるのではないだろうか。チッソの企業城下町から、水俣病を教訓にした学術(観光)都市に変貌できれば町の活性化にもなると思われるのだが。
(3)未認定患者への対応について
未認定・未救済の患者が市民の中にも多く含まれている。水俣市は地元行政として、被害者=市民の立場に立って患者の救済に努力すべきだろう。
現在、未認定患者救済の問題は患者自身の運動だけで解決できない段階に来ており、行政が絡まなければならないことは誰でもが認識していることだ。チッソは自らが水俣病事件の加害者であることは認めているが、未認定患者救済については最も消極的であり、他人(行政)まかせにしている。国や県は訴訟の被告にもなっており、法的な行政責任を追及されているが、今のところ法的に責任無しとの立場に立っている。また、中央へいくほど患者の実情や市民の実情が伝わらないという現状がある。だから、被害者や市民の立場に立って考えていない。患者救済を切実な問題とは認識していない。だから、対応が消極的になっている。そのために解決が長引いている。水俣市は国や県に比べれば、財政や権限の部分では弱いけれど、患者や地元の気持ちを最もよく知っている、知り得る行政であるから、被害者や市民の声をまとめて、県や国にあたるべきではないだろうか。
また、被害者と市民の対立の解消と、要望の統一に積極的に取り組むべきだろう。被害者と市民との共通理解、共通の願いを作り上げ上部の行政に要望していくのが地元行政としてのつとめではないか。水俣病発生以来、チッソに気兼ねをし、住民の意識を高める事に努力を怠り、分裂状態を作り、その解消に消極的で分裂の継続を許してきた事の責任は重く、それらの反省の上に立ち、積極的にことにあたってもらいたい。
今後は「しなかったこと」を反省し、世界に名を知られた水俣病の地元行政として、公害を経験した都市が、その経験を生かし、「さすが水俣市」といわれるような、施策を行う事により、住民がどこへ行っても「水俣出身です」と胸を張って自慢できるような町にしていく事が、望まれる最善の道ではないだろうか。
なお、今回の時代区分の範囲には入らない90年以降に至って、水俣市が中心となった企画、イベント、集会などが行われている。一見すると、それ以前とは様変わりしたように見える。これは水俣市が主体性を持ち始めたことの証なのだろうか。それとも、単にチッソの弱体化や水俣市民の世代交代という状況の変化によるものだろうか。いずれにせよ、チッソの城下町という呪縛、国-県-市という行政組織の末端という位置づけから脱出し、主体性を持った「地方自治」を作り上げる絶好のチャンスであることは間違いない。このチャンスを生かすのも殺すのも、水俣市行政と市民の今後の動きにかかっている。
(4)水俣湾埋め立て地について
水俣湾埋め立て地は単なる埋め立て地、空き地ではない。そこには様々な人々の思い、苦しみが埋め込まれている。そのことの意味を忘れることなく、跡地の利用を考えなければならないだろう。
(四)資料
(1)「『チッソ株式会社に対する金融支援措置』についての経緯」 平成5年2月 熊本県環境公害部環境総務課発行 P120
(2)同上P1 「水俣病対策について」昭和53年6月20日 閣議了解(資料6-2)
(3)同上P8 「熊本県のチッソ株式会社に対する貸与資金に関する附帯決議」(資料6-3)
(4)同上P116 「チッソ貸付資金の貸付状況」(資料6-4)
(5)同上P3 「関係省庁間覚書」1(3)
(6)同上P35 「関係省庁間覚書の一部改正」 昭和56年11月20日
(7)89年8月1日 熊本日日新聞記事(資料6-7)
(8)80年11月28日 熊本日日新聞記事(資料6-8)
(9)「陳情書」「決議文」78年1月10日 水俣病対策・水俣・芦北地域振興・チッソ水俣工場存続強化・市民運動の会会長・市川秀夫(資料6-9)
(10)86年5月16日 毎日新聞記事(資料6-10)
(11)「水俣病のあらまし」 1988年11月 水俣市役所福祉生活部公害課発行
(12)「A Summary of the Minamata Disease」November 1988, Minamata City Department of Welfare Issues Divison of Pollution Control 92年3月31日 水俣市作成
(13)81年12月16日 毎日新聞記事(資料6-13)
(14)82年6月15日 毎日新聞記事(資料6-14)
(15)89年5月3日 熊本日日新聞記事(資料6-15)
(16)「水俣市百人委員会提言書」 88年12月6日 水俣市百人委員会発行、及び「広報みなまた723号」 1989年1月1日 水俣市発行
(17)「水俣市百人委員会提言書」91年1月27日 水俣市百人委員会発行
(18)81年7月2日 熊本日日新聞記事(資料6-18)
(19)84年6月17日 朝日新聞記事(資料6-19)
(20)88年9月1日 「広報みなまた」第716号(資料6-20)
(21)83年9月11日 熊本日日新聞記事(資料6-21)
(22)83年9月13日 熊本日日新聞記事及び朝日新聞記事(資料6-22)
(23)83年9月15日 熊本日日新聞記事(資料6-23)
(24)「訴訟概要」 93年10月 熊本県環境公害部発行 P1「現在係属中の水俣病関係訴訟事件」
(25)熊本県作成「水俣病認定審査状況」 1994年2月28日付けを元に相思社で作成
(26)82年10月14日 熊本日日新聞記事(資料6-26)
(27)85年9月19日 朝日新聞記事(資料6-27)
(28)86年3月28日 熊本日日新聞記事(資料6-28)
(29)「水俣市議会会議録」88年6月第2回定例会 水俣市議会事務局発行 5-23「水俣病特別医療事業の強化を求める意見書について」
(30)「斡旋案」 88年9月26日 岡田市長の「斡旋案」及び10月1日の交渉団から岡田市長への文書(資料6-30)
(31)「覚書」 89年3月25日(資料6-31)
(32)「水俣湾堆積汚泥処理事業の概要」 88年 熊本県作成
(33)「水俣病のあらまし」 88年11月水俣市役所福祉生活部公害課発行 P13「公害防止事業」
(34)「みなまた ’82市勢要覧」 水俣市役所発行 P32~33
(35)86年9月5日 朝日新聞記事(資料6-35)
(36)86年9月16日 熊本日日新聞記事及び朝日新聞記事(資料6-36)
(37)86年10月10日 読売新聞記事(資料6-37)
(38)88年6月1日 西日本新聞記事(資料6-38)
(39)88年8月31日 熊本日日新聞記事(資料6-39)