水俣在住の溝口秋生さんが12日の未明に亡くなりました。あまり説明が必要無いかもしれませんが、溝口さんは40年ちかく母親の水俣病認定について闘い続け、2013年最高裁で勝訴し認定を勝ち取った方です。
2016年の5月6日自宅で転倒し骨折。それから長い入院生活となりました。最近は病院の食事に少ししか手を付けないようになり、ほとんど残されていました。8月には痩せて二回りほど小柄になったように見えました。先週になると起き上がる体力も無くなり、点滴だけとなりました。週末、高熱が続き危篤状態となりました。でも11日の夕方から平熱に戻ったというので、私は峠を越えたとばかり思って安心していました。翌朝4時半ころ、息を引き取ったと連絡が入り呆然としました。少しはまた話ができるようになると思っていたので、あっけない幕引きに感じられました。
水俣に移住してからのおよそ7年間、私は溝口さんとごく自然につきあわせていただきました。積極的にかかわるというよりも、自分の生活や仕事のいろんな場面に溝口さんがいらっしゃったという感じです。
かつては袋のご自宅にうかがうと、掘りごたつに溝口さんがおばちゃん(奥さん)と息子の智宏さんと3人でテレビを見て団らんしていました。そんな幸せそうな日常風景を思い出します。おばちゃんはコロコロと天衣無縫な笑い声を立てる方で、いかにも溝口さんと相性が良さそうでした。
7時には就寝するという溝口さんは、夕方に伺うともう晩酌を始めていました。焼酎を毎晩一合と決め、量って呑んでいました。夏はビールから始めていたようですが。(そういえばキリンの季節限定ビール「秋生」を好んでいました。ご自分の名前だからです。)晩酌の終盤戦あたりでは大変ごきげんな溝口さんと会えました。おいしいお酒だったと思います。そんなお酒を医者に言われてやめたのが14年ころだったかと思います。身体のあちこち調子悪いといっては入退院を繰り返すようになりました。
決定打は昨年の骨折でした。歩けなくなりました。返す返す、最後の入院は気の毒でした。みかん作りができなくなるのがいちばん辛かったのではないかと思います。ご自宅は築100年を超える民家で、いにしえの農機具、古道具もたくさんありました。アイガモ農法のアイガモを遠く鹿児島から仕入れてきたといっては自慢げに見せてくださりました。そんな道具やカモに囲まれているときが幸せそうでした。本当に農業が好きだったんです。
もうひとつ好きだったのが読書。病室にはテレビは置きませんでした。そのかわりベッドの脇にはいつも数冊の本が積まれていました。水俣病関連の本、石牟礼道子さんの本。新聞も購読されていたようです。病室に行くとよく新聞の記事を話題にしました。
溝口さんは循環器系の具合も良くなかったらしく、病院食は信じられないほど塩分が控えられていました。あれでは誰でも食欲が落ちてします。もっと美味しいものを食べて、できればお酒も飲んで、あのおうちとか、みかん畑で逝ってほしかった。なんて、勝手なことを思ってますが。
でも入院生活はホントは辛かっただろうと思いますし、私も病室でお会いするのが悲しかったです。
ホントは、というのはあの方、身の辛さや不幸を表に出さないんです。話を聞いていると、普通の人じゃ耐えられそうにないような不運や不条理な目にも遭っているのですが、そんなことに人生を引きずられず飄々と流してこられた(ように見える)のです。でも、一方で水俣病問題のような正統な怒りはきちんと表明し、ブレず、決してあきらめない。平和主義や反原発もスタイルが一緒でした。力が抜けた頑固。これが長い長い闘いを征した秘訣だったのかもしれません。
そういえば私は溝口さんの涙を見たことがないのです。最高裁判決のときもだぶん泣いてなかった。相思社の永野は、溝口さんは仙人なんだからと言うのですが。たしかに、世俗的な感情から超越しているような人でした。だから自分でなく、母親の認定を勝ち取るというのはいかにも溝口さんらしい闘いだったと思います。
そんな溝口さん、飄々と逝ってしまわれました。
世間は「85歳、老衰」ということで収まりをつけてしまいますが、私は大切な日常の1ピースを失ってしまった寂しさを収めるところがありません。溝口秋生さんいままでありがとうさようなら。