お国なまりの味わい

NHKで始まった西郷隆盛のドラマ、方言がうますぎて何言ってんのか分からない、とかネットで話題になっていますね。私はTVを所持してないので観てないのですが。

水俣は、熊本弁が話されているのですが、そのなかでも水俣地方独特のなまりがあると言われています。石牟礼文学ではよくその味わいについて語られることが多く、私は水俣に移住してくるとき、あんな言葉の味わいのなかで生活ができることを楽しみにしていた記憶があります。ところが、残念ながらいまだにそれを感じたことがないのです。

相思社で働いていると職員はみな(関西弁を除き)標準語で話していますし、地元の人は私をよそ者(東京もん)と知ってか標準語で話しかけてきます。天草地方の人もよく来るのですが、本気で話されると味わいどころか、それこそ何を言っているのかわかりません。

でも、そういうことよりむしろ、私は熊本弁や水俣なまりに対して感受性のレセプターのようなものが無いのではないか、と思うようになってしまいました。
というのも、むしろ私がたいへん親しみ・味わいを感じている言葉は、おとなり薩摩のなまりのほうだからです。

水俣から南に10キロ、クルマを走らせ県境を越えて出水市に入ると、言葉のイントネーションががらりと変わります。それはお店のレジのひとの対応ひとつですぐに感じます。鹿児島は、いつだれに対してもイントネーションを隠さない(隠せない?)傾向があるようにも思います。

水俣から3号線で県境を越えると地名は出水市「切通」、これ、「きずし」と読むのです。鹿児島はこういう難読地名ばかりです。これにはわけがあるのですが、とにかく水俣と出水の間には「県境」というよりも、肥後と薩摩との「国境」(くにざかい)が現存していることがわかります。
お国なまりの味わいというと、私は熊本や水俣のそれよりも、この国境を越えた途端に現れる薩摩なまりのほうなのです。

これには恐らく訳があります。不思議なはなしなのですが、鹿児島のイントネーションが津軽(青森)のそれと、とても似ているのです。
私は両親が津軽の人間なので、ずっとその言語環境のなかで育ちました。話すことは(なぜか)できないのですが、津軽の方言は感覚に深く染みついています。それが、薩摩ことばに親しみや味わいを感じる理由なのではないのかと思っています。

不思議なはなし、と書きましたが、実はこれは言葉が中央(京都)から発生し同心円状に地方に伝搬していったとする仮説「方言周圏論」として古くからあります。でも、いくつかの単語や助(動)詞の一致という事実が仮に筋が通っているとしても、イントネーションまでが伝搬するというのはちょっと考えにくい気がします。やはり不思議です。

さらにもっと不思議なのはこれです。

県のカタチまで似ているのです。
もしかしたらこれには壮大な秘密が隠れているのかもしれません!!

(青森県はメルカトル図法により肥大していたので、適当に縮小しています。大きさは正確ではありません。)

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