水俣病関連 詳細年表

和暦 西暦 出来事
明治39 1906 1 12 野口遵、鹿児島県伊佐郡大口村牛尾に曽木電気株式会社を創立
明治40 1907 3 野口遵・藤山常一・市川誠次ら、日本カーバイド商会設立。熊本県葦北郡水俣村に製造工場を設ける
明治41 1908 8 20 曽木電気と日本カーバイド商会を合併し、日本窒素肥料株式会社(日窒)を設立
大正05 1916 3 日窒、水俣工場の専用港として梅戸港の構内整備に着工(翌年完工)
大正12 1923 このころから水俣町漁業組合、日窒・水俣工場に対し排水による漁業被害の補償を要求
大正14 1925 10 12 水俣町漁業組合、日窒水俣工場に対し、漁業補償を要求
大正15 1926 4 6 日窒と水俣町漁業組合、漁業組合は永久に苦情を申し出ないことを条件に、日窒が漁業被害に対する見舞金1500円を支払う
大正15 1926 10 5 森矗昶、日本沃度株式会社を設立(資本金100万円、昭和電工の前身)
昭和06 1931 11 16 昭和天皇、水俣工場を視察
昭和06 1931 11 16 日窒の橋本彦七・井手繁、アセトアルデヒドの製造方法の特許を取得
昭和07 1932 5 7 日窒・水俣工場、第1期アセトアルデヒド・合成酢酸設備の稼働を開始。廃水は百間港(水俣湾)へ無処理放流
昭和11 1936 3 昭和合成化学工業、鹿瀬工場でアセトアルデヒド生産開始。阿賀野川へ廃水放流
昭和11 1936 5 13 日窒・水俣工場、日産6.5トンの合成酢酸製造装置完成
昭和12 1937 日窒、塩化ビニールの研究を開始
昭和15 1940 イギリスのハンター、ラッセルら、有機水銀農薬製造工場労働者4人の中毒臨床所見を報告し、メチル水銀中毒の病像を確立
昭和16 1941 11 胎児性水俣病と疑われる子供が御所浦に誕生(8歳の時に湯堂に移住:1972年の熊大第二次研究班の調査によって発見)
昭和16 1941 11 3 日窒・水俣工場、塩化ビニールの製造を開始(月産3トン)し、同工程からもメチル水銀流出
昭和17 1942 2 水俣市月浦に水俣病患者(4才4ヵ月)発生(1972年熊大第2次研究班の調査で判明)
昭和18 1943 1 10 水俣漁業組合、日窒と補償契約を締結。補償額は152,500円、組合は将来永久に損害補償を要求しない、などの内容(実質的には被害漁場を漁協から日窒が買い上げ)
昭和21 1946 2 日窒・水俣工場、アセトアルデヒド・合成酢酸の製造を再開。廃水は百間港へ無処理放出。アセチレン残渣を含む廃水は八幡プールへ無処理放出
昭和22 1947 12 24 食品衛生法が公布される
昭和25 1950 1 12 日本窒素肥料株式会社(日窒)、企業再建整備法に基づき、新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再発足(資本金4億円)
昭和26 1951     この年より、まてがた・月ノ浦海岸で貝類が減少。水俣湾内でクロダイ・スズキなどが浮上、海草類減少。湯堂などでボラが獲れなくなる
昭和26 1951 8 新日窒・水俣工場、アセトアルデヒド合成の助触媒を二酸化マンガンから酸化鉄に変更
昭和27 1952 9 新日窒・水俣工場、アセトアルデヒド誘導によるオクタノールの製造を開始(日本初の工業化)
昭和28 1953     この頃、水俣湾周辺で魚が浮上、猫が踊り、海鳥やカラスが舞い落ちる現象が見られる
昭和28 1953 12 15 溝口トヨ子(水俣病と公式確認されている第1号患者、水俣市出月、当時5歳11ヶ月)が発病(患者番号1、S31.3.15死亡)
昭和29 1954 7 5 水俣市の男性、求心性視野狭窄などの神経症状を訴えて新日窒付属病院に入院。細川一院長らが初めて接した水俣病患者で、水俣病発見の糸口となる
昭和31 1956 5 1 新日窒附属病院(細川一院長)、小児科の野田医師を水俣保健所(伊藤蓮雄所長)へ派遣し、原因不明の神経疾患児続発を報告(水俣病発生の公式確認)
昭和31 1956 5 8 西日本新聞が水俣病について初めて報道。「死者や発狂者も/水俣に伝染性の奇病」
昭和31 1956 5 28 水俣市奇病対策委員会(研究班長:細川一新日窒附属病院長)発足
昭和31 1956 7 27 水俣市、新日窒附属病院に入院中の患者8人を「日本脳炎疑」として水俣市隔離病舎(白浜病院)に転院させる
昭和31 1956 7 17 『経済白書』が「もはや戦後ではない」と宣言(高度経済成長期へ)
昭和31 1956 8 3 熊本県、熊本大学に奇病の原因究明を依頼
昭和31 1956 8 24 熊本大学、熊本県の依頼により水俣病医学研究班(以下「熊大研究班」)を組織(班長:医学部長尾崎正道教授)
昭和31 1956 8 29 水俣市奇病対策委員会、熊本県衛生部・厚生省に最初の報告書を提出
昭和31 1956 11 厚生省、厚生科学研究班を設置(主任:公衆衛生院松田心一疫学部長)
昭和31 1956 11 3 熊本大学研究班、第1回の研究報告会で、ある種の重金属中毒、人体への侵入は魚介類による、汚染源として新日窒水俣工場排水が最も疑われる、等と結論
昭和32 1957 1 17 水俣市漁協、新日窒・水俣工場に、工場排水の中止と浄化装置設置を申し入れ
昭和32 1957 4 4 伊藤蓮雄水俣保健所長、猫実験で水俣病の発症を確認し、水俣湾産魚介類の毒性を実証(投与開始後10日目)
昭和32 1957 8 1 「水俣奇病罹災者互助会」結成(会長:渡辺栄蔵、後の「水俣病患者家庭互助会」)
昭和32 1957 8 16 熊本県、厚生省公衆衛生局に食品衛生法による漁獲禁止措置の可否を照会
昭和32 1957 9 11 厚生省、熊本県の照会に対し「水俣湾内特定地域の魚介類がすべて有毒化している明らかな根拠は認められない」として食品衛生法は適用できないと回答
昭和32 1957 10 26 厚生科学研究班、第12回・公衆衛生学会総会(~28日)で、水俣病の原因物質はマンガン・セレン・タリウム、出所は新日窒が疑われると発表
昭和32 1957 10 30 水俣市、49患者世帯の実態調査を実施(~31日)漁民の約半数が転廃業、生活扶助17世帯
昭和33 1958 1 武田泰淳 、 『鶴のドン・キホーテ』を「新潮」に発表。1957年当時、すでにチッソが水俣病の原因企業であることが周知の事実と描写
昭和33 1958 2 7 細川一新日窒附属病院長、松本芳医師、市川秀夫医師、湯堂で脳性小児マヒ様の患者をはじめて診察(のちに胎児性水俣病と判明)
昭和33 1958 6 10 浦安の漁業組合員約700人、汚水問題で本州製紙江戸川工場に進入座り込み(浦安事件)、水質二法制定のきっかけとなる
昭和33 1958 6 24 厚生省、参院社労委で「水俣病の原因はセレン・タリウム・マンガン、発生源は水俣工場の廃水」との見解を発表
昭和33 1958 7 7 山口正義厚生省公衆衛生局長、新日窒水俣工場廃棄物に含まれる化学物質により有毒化された魚介類が原因と発表し、関係省庁等に協力を要請
昭和33 1958 7 14 新日窒、「水俣奇病に対する当社の見解」を発表し、熊大研究班や厚生省の見解を否定
昭和33 1958 8 1 水俣奇病罹災者互助会、「水俣病患者家庭互助会」と改称
昭和33 1958 8 11 徳臣晴比古熊大助教授、茂道で発病した中学生を奇病と診断(患者計65人)
昭和33 1958 8 17 熊日・毎日・西日本など各紙、1年半ぶりの奇病患者発生を大々的に報道。再び、パニックに
昭和33 1958 8 18 熊本県、水俣湾内での操業禁止を通達
昭和33 1958 8 21 熊本県経済部、新患者発生に伴い、県漁連・関係漁協・九州各県水産主務部長に対し、水俣湾内漁獲の操業厳禁を指導するよう通達
昭和33 1958 9 新日窒・水俣工場、アセトアルデヒド排水経路を百間港から八幡プールへ変更、水俣川河口へ放流
昭和33 1958 12 4 聖成厚生省環境衛生部長、新日窒水俣工場を訪れ、従来方針を白紙撤回し、奇病原因究明への協力を依頼。工場は協力を約束
昭和33 1958 12 25 公共用水域水質保全法・工場排水等規制法の水質二法が公布される(1959年3月1日施行)
昭和34 1959 1 16 厚生省、食品衛生調査会に水俣食中毒部会を設置(代表:鰐淵健之熊大学長)
昭和34 1959 3 水質二法施行。関係政令未整備により、実際には運用されず
昭和34 1959 3 26 水俣市奇病研究委、水俣市八幡の漁師の男性を水俣病と決定。以後、水俣川河口附近で発病者相次ぐ
昭和34 1959 5 25 水俣市鮮魚小売商組合、結成大会を開催
昭和34 1959 7 22 熊大研究班、有機水銀説を公式発表
昭和34 1959 8 1 水俣市鮮魚小売商組合、地元産魚介類の不買を決議
昭和34 1959 8 5 西田栄一水俣工場長、熊本県議会に『所謂有機水銀説に対する工場の見解』を提出。有機水銀説を否定しつつ、排水処理施設の完備を約束
昭和34 1959 8 6 水俣漁協、鮮魚小売商組合とともに水俣工場内デモ。新日窒と第1回漁業補償交渉(第一次漁民闘争、~30日)
昭和34 1959 8 26 斡旋委員会、水俣市漁協と新日窒に対し、3500万円+年額200万円の補償金支払い・浄化装置設置などの斡旋案を提示
昭和34 1959 8 29 水俣市漁協と新日窒、8月26日に斡旋委員会提示の斡旋案を受諾すると回答(契約締結は翌30日)
昭和34 1959 8 30 清浦雷作東京工大教授、新聞紙上で「有機水銀説は慎重に取り扱うべき」との見解を発表
昭和34 1959 9 23 水俣市奇病研究委、芦北郡津奈木町岩城の男性を水俣病と決定。葦北郡の漁民の新日窒への漁業補償要求が高まる
昭和34 1959 9 28 日本化学工業協会(日化協)大島竹治理事、有機水銀説を否定し「爆薬説」を発表
昭和34 1959 10 6 細川一新日窒附属病院長、アセトアルデヒド酢酸工場廃水投与により猫が水俣病を発症することを確認(猫400号実験)
昭和34 1959 10 6 厚生省食品衛生調査会、合同委を開催。水俣食中毒部会鰐淵代表が中間報告として有機水銀説を発表
昭和34 1959 10 10 細川一、ネコ400号発症を新日窒水俣工場技術部幹部へ報告
昭和34 1959 10 17 不知火海沿岸漁民、熊本県漁民総決起大会を開催。「浄化装置完成まで操業停止、漁業補償要求」などを決議、新日窒は交渉を拒否。漁民ら工場に投石、警官が出動(第二次漁民紛争)
昭和34 1959 10 21 秋山武夫通産省軽工業局長、新日窒本社に対し(1)八幡排水の即時中止し百間港に戻す(2)廃水浄化装置を年内に完成など口頭で指示
昭和34 1959 10 24 新日窒、「水俣病原因物質としての『有機水銀説』に対する見解」を発表し、有機水銀説に反論
昭和34 1959 10 30 新日窒・水俣工場、八幡プールに逆送装置を設置し、廃水を工場に逆送させ再利用
昭和34 1959 11 2 熊本県漁連主催、不知火海沿岸漁民総決起大会。水俣市内デモ行進、国会調査団への陳情。新日窒に団交申入れ、新日窒は拒否。漁民、工場に乱入し警官隊と衝突、100余名の負傷者
昭和34 1959 11 7 水俣市長・市議会議長・商工会議所・農協・新日窒労組・地区労など28団体代表50人、排水即時全面停止は水俣市民全体の死活問題と知事に陳情。県警に対し暴力行為への充分な警備をと要望
昭和34 1959 11 13 厚生省食品衛生調査会、水俣病の主因は有機水銀である、と厚生省に答申。厚生省、その日に水俣食中毒部会を解散
昭和34 1959 11 24 「不知火海漁業紛争調停委員会」が発足(寺本広作熊本県知事・中村止水俣市長ほか)
昭和34 1959 11 25 水俣病患者家庭互助会、新日窒・水俣工場に対し、一律300万円(総額2億2,400万)の患者補償を要求
昭和34 1959 11 28 水俣病患者家庭互助会、新日窒水俣工場に補償要求への回答を求める。新日窒、文書で拒否回答。互助会、市内をデモ行進、工場前で座り込み開始
昭和34 1959 12 16 第3回調停委(15~)。調停委、熊本県漁連と新日窒に対し調停案を提示。一時金合計9,000万円、患者補償7,400万円、一切の追加補償を要求しないなど
昭和34 1959 12 17 熊本県漁連と新日窒、不知火海漁業紛争調停委の調停案を受諾調印(津奈木など3漁協は態度保留)
昭和34 1959 12 19 新日窒、排水処理設備(サイクレーター・セディフローター)完成。アセトアルデヒド廃水の処理水は百間排水口から放出(数日後に再び八幡へ変更)
昭和34 1959 12 25 厚生省、「真性患者の決定」などを目的として水俣病患者診査協議会(臨時)を設置。水俣病認定制度の始まり
昭和34 1959 12 25 熊本県漁連、新日窒と補償契約を締結。補償金3500万円。紛争による損害賠償金、1000万円の支払、総額金6500万円の融資など
昭和34 1959 12 27 水俣病患者家庭互助会、幹部会で調停案受諾を決定。1か月にわたる新日窒水俣工場正門前の座り込みを解く
昭和34 1959 12 30 水俣病患者家庭互助会と新日窒、調停案を受諾調印(いわゆる「見舞金契約」)。金額は成人10万円、未成年3万円(年額)
昭和35 1960 1 21 新日窒・水俣工場、アセトアルデヒド廃水を八幡プール経由でサイクレーターに送水し百間へ排水開始
昭和35 1960 4 12 第2回水俣病総合調査研究連絡協議会。清浦雷作、「アミン中毒説」を発表
昭和35 1960 10 25 水俣市漁協・新日窒、水俣病に関する漁業補償の調停案に調印。新日窒、八幡沖海面の埋立権を獲得し、以後カーバイド残渣の処分場とする
昭和36 1961 12 このころ、水俣工場技術部、精ドレンからメチル水銀結晶体を抽出。以降、附属病院、抽出物による発症実験開始
昭和37 1962 4 17 新日窒、労組に対し、安定賃金制を提示(安賃闘争はじまる)
昭和37 1962 8 入鹿山且朗熊大教授、「チッソ水俣工場のアセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから塩化メチル水銀を抽出」と論文発表
昭和37 1962 11 29 患者診査会、16人を胎児性水俣病と認定
昭和38 1963 1 22 新日窒労使、争議妥結協定書に調印(安賃闘争終わる)
昭和38 1963 2 16 入鹿山且朗教授、熊大研究班PHS資金研究報告会で、新日窒・水俣工場アセトアルデヒド工程水銀スラッジから有機水銀塩を検出したと報告
昭和38 1963 2 20 熊大研究班、水俣病の原因物質はメチル水銀化合物、それを水俣湾内の貝・新日窒水俣工場のスラッジから抽出、などを公式発表
昭和38 1963 5 21 新日窒水俣工場労使、地労委のあっせん案に調印
昭和39 1964 6 25 原田正純、17例の胎児性患者の詳細な症例を報告
昭和40 1965 1 1 新日本窒素肥料株式会社、「チッソ株式会社」と社名変更(以下「チッソ」)
昭和40 1965 1 8 新潟水俣病の第1号患者、新潟大学で椿忠雄教授の診察を受ける。椿教授、星野乙松東大薬学部助教授に毛髪水銀量測定を依頼
昭和40 1965 5 31 椿忠雄・植木幸明新潟大学教授、新潟県衛生部に「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流海岸地区に散発」と警告(新潟水俣病の発生の公式確認)
昭和40 1965 6 12 新潟大医学部、新潟県衛生部、阿賀野川流域に有機水銀中毒発生と公式発表
昭和42 1967 6 12 新潟水俣病患者家族13名が昭電を相手取り慰謝料総額4450万円を請求し新潟地裁に提訴(新潟水俣病第1次訴訟)
昭和42 1967 8 30 食品衛生調査会、厚生省に「新潟水俣病は昭電の工場廃液が基盤で発生」と答申
昭和43 1968 1 18 互助会・市民会議の代表、園田直厚生大臣に松橋療護園で陳情
昭和43 1968 1 21 新潟の被災者の会、民水対等の代表、初めて水俣を訪問、水俣病患者家庭互助会や市民会議などと交流(~24日)
昭和43 1968 5 18 チッソ水俣工場、アセチレン法アセトアルデヒド製造設備を停止
昭和43 1968 9 26 政府、水俣病について正式見解を発表(公害認定)。熊本は新日窒水俣工場の廃水に含まれるメチル水銀が原因と断定、新潟は昭電鹿瀬工場の排水が基盤とする「技術的見解」を発表
昭和44 1969 4 5 水俣病患者家庭互助会、総会を開催。確約書提出をめぐり対立。確約書をめぐって「一任派」と「自主交渉派(後の訴訟派)」に事実上分裂
昭和44 1969 4 10 水俣病患者家庭互助会一任派54世帯、補償処理の白紙委任の確約書(“お願い書”)を厚生省に提出。厚相、「第三者機関設置」を確約
昭和44 1969 4 15 湯の児病院に胎児性患者のための教育機関として、水俣第一小学校分校を開校
昭和44 1969 4 20 「水俣病を告発する会」が発足(代表:本田啓吉)
昭和44 1969 4 25 厚生省、「水俣病補償処理委員会」を設置
昭和44 1969 6 14 水俣病患者家庭互助会訴訟派29世帯112人、チッソに対し総額6億4000万円余の損害賠償請求訴訟を熊本地裁に提訴(熊本水俣病第一次訴訟)
昭和44 1969 12 15 「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」(旧法・救済法)が成立
昭和44 1969 12 17 「公害の影響による疾病の指定に関する検討委全体会議」(厚生省)において、「特異な発生と経過」「国内外で通用している」などを理由に病名を「水俣病」と指定
昭和44 1969 12 20 厚生省、救済法に基づき「熊本県水俣市及び芦北郡田浦町、芦北町、津奈木町、鹿児島県出水市及び阿賀野川下流域」を公害地域に指定
昭和44 1969 12 27 救済法による熊本県・鹿児島県公害被害者認定審査会(徳臣晴比古会長)発足(水俣病患者審査会を改組)
昭和45 1970 1 26 第1回熊本・鹿児島県公害被害者認定審査会、既認定患者71人(熊本67、鹿児島4)を救済法に基づき再認定
昭和45 1970 3 7 新潟で4歳の女児が胎児性患者と認定される。新潟で初めての胎児性患者認定
昭和45 1970 5 14 水俣病患者家庭互助会訴訟派・市民会議・告発する会、補償処理案に抗議しチッソ東京本社前に座り込み(~15日)
昭和45 1970 5 25 補償処理委員会、水俣病患者家庭互助会一任派代表とチッソに対し斡旋案を提示
昭和45 1970 5 27 チッソと互助会一任派、斡旋案を受諾調印
昭和45 1970 7 4 熊本地裁、細川一元新日窒付属病院長を臨床尋問。ネコ400号実験などについてメモを提出し証言
昭和45 1970 8 18 川本輝夫ら未認定患者9人、6月審査会の棄却処分を不服とし厚生省に行政不服審査を請求
昭和45 1970 11 28 チッソ株主総会(大阪)開催。患者および支援者約1000人が一株株主として参加、議事後に患者ら壇上に上り江頭豊社長に加害責任を追求
昭和45 1970 12 18 参院本会議で公害関係14法案が改正・成立(公害国会)
昭和46 1971 3 25 チッソ水俣工場、アセチレン法塩化ビニール製造停止
昭和46 1971 4 22 熊本・鹿児島審査会、前年度に保留となっていた16人中13人を認定。1946年・1961年発病の患者の認定により、53年発生~60年終熄説が破綻
昭和46 1971 4 25 水俣市と水俣保健所・水俣市芦北郡医師会、茂道地区で一斉健康調査を実施。150人が受診
昭和46 1971 6 21 未認定死亡患者の妻ら3家族11人、チッソを相手どり総額約4400万円を請求し熊本地裁へ提訴
昭和46 1971 7 1 環境庁が発足する。初代長官は山中貞則。行政不服審査を厚生省から移管
昭和46 1971 8 7 環境庁、川本輝夫ら9人の行政不服審査に対し棄却処分取り消しの裁決
昭和46 1971 8 7 環境庁、事務次官通知「公害にかかる健康被害の救済に関する特別措置法の認定について」を通知(旧環境庁事務次官通知)
昭和46 1971 9 29 新潟水俣病第1次訴訟で、新潟地裁原告勝訴の判決。昭電に総額2億7000万円の損害賠償額を命じる
昭和46 1971 10 5 熊本県、不知火海一帯住民約5万人を対象に住民検診アンケート調査を開始
昭和46 1971 10 6 熊本県、川本輝夫ら棄却取り消し裁決で差戻しとなった7人を含む16人を認定、1人を保留、1人を棄却
昭和46 1971 10 11 川本輝夫ら新認定患者、チッソとの補償交渉を開始(「自主交渉派」が発足)。チッソ側、補償は中央公害審査委員会の調停を、と語る
昭和46 1971 11 1 自主交渉派18家族とチッソが3回目の補償交渉。患者家族、一律3,000万円を要求しチッソ水俣工場正門前での座り込みを開始
昭和46 1971 11 14 水俣を明るくする市民連絡協議会、結成大会開催。浮池正基市長、「チッソを守るためには全国の世論を敵に回してでも闘う」と挨拶
昭和46 1971 12 6 自主交渉派代表6名、チッソ本社を訪れるも社長が不在のため、本社前に座り込み(~10日)
昭和46 1971 12 8 川本輝夫ら自主交渉派、チッソ東京本社に乗り込み島田賢一社長と直接交渉。告発する会支援者らも本社内で座り込みを開始
昭和47 1972 1 7 チッソ石油化学五井工場労働者200人、自主交渉派患者や記者らに暴行(五井事件)
昭和47 1972 1 8 新潟県・新潟市、阿賀野川の中上流部(旧指定地域外)の8人を含め10人を認定。指定地域外からはじめて認定
昭和47 1972 2 23 自主交渉派、環境庁にて大石環境庁長官・沢田熊本県知事立会のもと、チッソと第1回自主交渉。チッソ、「補償処理委員会の案で」と主張
昭和47 1972 5 26 OECD閣僚理事会、環境政策の国際経済面に関するガイディング・プリンシプルを採択(汚染者負担の原則、PPP)
昭和47 1972 6 5 水俣病患者・カネミ油症患者ら、ストックホルムで国連人間環境会議にあわせて開かれた人民フォーラムに参加、水俣病の記録映画を上映、記者会見、「日本の夕べ」を開く
昭和47 1972 7 1 総理府、中公審を改組し公害等調整委員会を発足(小沢文雄委員長)
昭和47 1972 7 24 四日市喘息訴訟で津地裁四日市支部、石油コンビナート6社に賠償金支払いを命じる
昭和47 1972 10 15 水俣病センター設立委員会、水俣病センター設立について公式発表
昭和47 1972 12 15 水俣病複合施設「明水園」開所。胎児性患者ら13人が入園
昭和47 1972 12 22 第二次田中角栄内閣が成立。環境庁長官に三木武夫が就任(副総理と兼任)
昭和47 1972 12 27 東京地検公安部、川本輝夫を傷害罪で起訴
昭和48 1973 1 20 新認定・未認定患者家族141人、チッソに対し、一律2200万円の慰謝料請求を熊本地裁に提訴(二次訴訟)
昭和48 1973 3 20 熊本水俣病第一次訴訟判決、原告全面勝訴。熊本地裁、総額9億3000万余の支払を命じる。双方控訴せず判決確定
昭和48 1973 3 22 訴訟派と自主交渉派が合流し、東京交渉団を結成、チッソ本社交渉を開始
昭和48 1973 3 24 チッソ東京本社で、嶋田賢一社長、分離訴訟の未認定死亡者1人に対し判決なみ補償を約束
昭和48 1973 4 27 第1次調停申請者30人、公調委調停案を受諾調印
昭和48 1973 5 5 熊本水俣病第二次訴訟派を中心に「水俣病被害者の会」を結成(隅本栄一会長、約100人)
昭和48 1973 5 22 熊大第2次研究班、報告書「10年後の水俣病に関する疫学的・臨床医学的ならびに病理学的研究(第2年度)」を熊本県に提出。武内忠男、総括で第3の水俣病の可能性を指摘
昭和48 1973 5 22 朝日新聞(東京本社版)、一面トップで「有明海に第3水俣病」とスクープ。第三水俣病事件の発端となる
昭和48 1973 6 21 新潟水俣病被災者の会・共闘会議、昭電と「新潟水俣病問題に関する協定書」に調印
昭和48 1973 6 24 厚生省魚介類に関する水銀専門家会議、魚介類の水銀暫定基準を決定(総水銀0.4、メチル水銀0.3ppm。ただし、マグロや川魚は適用除外。成人のメチル水銀週間摂取許容量170μg)
昭和48 1973 7 1 九州大学の黒岩義五郎教授が、「大牟田の男性は水俣病でない」とシロ判定を示す
昭和48 1973 7 9 二次訴訟派を除く患者各派、チッソとの補償協定書に調印。慰謝料1600万円~1800万円、医療費、介護費、年金、葬祭費等
昭和48 1973 8 17 環境庁水銀汚染調査検討委健康調査分科会(椿忠雄会長)、有明海の患者2人を水俣病ではないとシロ判定
昭和48 1973 9 9 財団法人水俣病センターの設立委員会開催。正式名称を「水俣病センター相思社」と決定、田上義春理事長ほか15名の理事を選任
昭和48 1973 10 5 「公害健康被害の補償等に関する法律」(公健法・補償法・新法)を制定(74年9月1日施行)
昭和48 1973 11 20 不知火海30漁協、チッソと補償総額22億8000万円で妥結調印
昭和48 1973 12 4 水俣病補償協定に基づくランク付委員会が初会合。委員長に忽那将愛(元熊大水俣病研究班長)、委員長代行に笠松章(元厚生省水俣病補償処理委員)を選任
昭和48 1973 12 23 民医連、水俣診療所開院
昭和48 1973 12 25 被害者の会、7月9日の補償協定に準じてチッソと協定を締結
昭和49 1974 1 10 熊本県、水俣湾で汚染魚封じ込めのための仕切網設置作業(~17日)
昭和49 1974 2 22 環境庁・熊本県委託の水俣病認定業務促進検討委員会発足(黒岩義五郎会長)
昭和49 1974 3 3 訴訟派と自主交渉派が合併し、「水俣病患者同盟」(田上義春代表)を結成
昭和49 1974 3 13 認定申請者6人、認定までの医療費・生活補償費を求める仮処分命令を熊本地裁に申請
昭和49 1974 4 7 相思社、落成式と仏壇入仏式を開催。導師は中岡順孝別院輪番、水俣市の源光寺・西念寺住職、患者家族を含め約200名が参加
昭和49 1974 4 8 水俣湾等堆積汚泥処理技術検討委の水俣港計画委が発足
昭和49 1974 6 7 水銀汚染調査検討委員会健康調査分科会(会長:椿忠雄新潟大教授)、有明海地区の「第3水俣病」にシロ判定
昭和49 1974 6 27 熊本地裁、チッソに対し、未認定申請者ら2人らに医療費等の支払いを命ずる仮処分を決定
昭和49 1974 7 1 熊本県、水俣病検診センターで認定促進のための集中検診を行う(~8月31日、460人)
昭和49 1974 7 16 認定申請者179人、「熊本県の認定作業の遅れに対し不作為の行政不服審査請求を環境庁に提出(最終650人)
昭和49 1974 8 1 水俣病認定申請患者協議会(岩本広喜会長、約350人、以下「申請協」)結成、水俣市公会堂で結成大会
昭和49 1974 8 13 水俣湾堆積汚泥処理技術検討委、水俣湾ヘドロ処理事業の「一部埋立・一部浚渫案」を了承
昭和49 1974 9 1 公害健康被害の補償等に関する法律(新法、補償法、公健法)施行
昭和49 1974 9 20 環境庁、認定申請者の不作為行政不服審査で、179人中16人について熊本県の不作為を認容、163人については保留
昭和49 1974 10 24 環境庁、不作為の行政不服審査請求第一次分の残り161人について11人容認、150人棄却の採決
昭和49 1974 12 13 申請協を中心とする患者406人、熊本県知事を相手取り不作為違法確認訴訟を熊本地裁に提訴
昭和50 1975 1 13 川本刑事裁判で熊本地裁、罰金5万円執行猶予1年の判決。川本輝夫、即日控訴
昭和50 1975 1 13 認定患者5人、歴代チッソ幹部を殺人・傷害罪で東京地検に告訴
昭和50 1975 3 9 患者同盟からこの日までに自主交渉派27人が脱退。患者同盟が事実上分裂
昭和50 1975 3 12 熊本県、県議会厚生委で、水俣湾の水銀25ppmのヘドロの推定量は約2倍の150万立方メートルと公表
昭和50 1975 3 14 患者家族114人、チッソ幹部を殺人罪、傷害罪で熊本県警に告訴
昭和50 1975 5 12 水俣市が市内山間部住民7287人を対象に水俣病検診第1次アンケート調査を開始。76年度まで、37,145人にアンケート
昭和50 1975 6 9 水俣病患者補償ランク付委の委員全員が辞表を提出
昭和50 1975 7 17 カナダインディアン水俣病代表団約10人、患者同盟の招きで来日、水俣・新潟を訪問し、患者らと交流
昭和50 1975 7 24 環境庁、患者二人の行政不服審査請求で、熊本県の棄却処分について取消・差戻しの裁決
昭和50 1975 8 7 熊本県議会公特委の杉村国夫・斉所市郎両委員、環境庁に陳情した際、「申請者にはニセ患者が多い」と発言
昭和50 1975 9 6 熊本県・水俣市、水俣湾内で魚を採らないよう呼びかける立て札を設置
昭和50 1975 9 25 申請協、杉村国夫熊本県議会公特委委員長らを名誉毀損で告訴するとともに、公特委に抗議。委員らともみ合う
昭和50 1975 10 7 熊本県警、患者2人、支援者2名を暴行罪の疑いで逮捕。申請協、即日抗議
昭和50 1975 10 23 熊本地検、申請協の患者2人と相思社職員2人を傷害・公務執行妨害罪で起訴(謀圧裁判)
昭和50 1975 11 21 水俣市漁協と熊本県のヘドロ処理工事補償交渉が16億9000万円で妥結
昭和50 1975 11 29 熊本県警、チッソ吉岡元社長・西田栄一・北川勤哉元水俣工場長を業務上過失致死傷で書類送検
昭和51 1976 1 チッソ、県の住民検診で水俣病とされたが、診断通知を受け取る前に死亡した患者の遺族に認定患者と同様の1600万円以上を支払うと約束、覚書に調印
昭和51 1976 3 24 熊本県と申請者7派、神経精神科を正式な審査項目とすることで検診再開に合意
昭和51 1976 5 1 熊本県、公害部直属の水俣病検診センターを設置(清藤武三所長)
昭和51 1976 5 4 熊本地検がチッソの吉岡元社長・西田元工場長を業務上過失致死傷で起訴。申請協・患者同盟など、「過失罪」での起訴に抗議
昭和51 1976 7 29 申請協、補償ランク付委の再発足について世話人会と合意
昭和51 1976 10 1 環境庁、「水俣病対策のため」の『特殊疾病対策室』を設置
昭和51 1976 12 15 不作為違法確認訴訟で熊本地裁、「認定遅れは行政の怠慢」と原告勝訴判決(確定)
昭和51 1976 12 21 沢田一精熊本県知事が初めて水俣市を訪れ、患者各派と面談。申請協はボイコット
昭和52 1977 1 14 「若い患者の集まり」(江郷下美一会長)の約10人、チッソ水俣本部に「仕事と生きる道をよこせ」と要求(若い患者たちが初めて独自で要求)
昭和52 1977 3 6 患者同盟と患者協議会が合併を決定
昭和52 1977 3 19 患者同盟と患者協議会が合併し、「水俣病患者連盟」(以下「患者連盟」)を結成(川本輝夫委員長)
昭和52 1977 3 28 水俣病関係閣僚懇談会開催。認定業務促進策を検討
昭和52 1977 3 29 熊本県議会公特委・厚生常任委・本会議で、「認定業務返上」を決議
昭和52 1977 5 1 相思社、理事会開催。第3代理事長に川本輝夫を選出。「経済自立4カ年計画」開始。申請協の事務局を相思社に移す
昭和52 1977 5 25 申請協・患者連盟、不知火海沿岸各地で総申請運動を開始
昭和52 1977 6 14 川本刑事裁判控訴審で東京高裁、公訴棄却の判決
昭和52 1977 7 1 環境庁、「水俣病対策の推進について」を発表、「後天性水俣病の判断条件」を示す
昭和52 1977 10 11 熊本県、水俣湾のヘドロ処理事業を開始(仕切網の設置作業)
昭和52 1977 11 18 水俣病対策関係閣僚会議、認定促進、チッソ経営健全化、水俣・芦北地域振興について論議。チッソ救済が政治問題化
昭和52 1977 12 4 患者同盟から分離した旧訴訟派、水俣病互助会を結成
昭和52 1977 12 26 不知火海沿岸住民1817人、ヘドロ工事の差し止めを求める仮処分申請を熊本地裁に提出
昭和53 1978 3 20 患者連盟・申請協ら、歴代厚生・通産・農林大臣と熊本県知事ら計21人を殺人・傷害罪で告訴
昭和53 1978 6 16 第6回水俣病関係閣僚会議。チッソ支援のための熊本県債発行・水俣病認定促進に関する新次官通知・水保芦北地域振興・認定業務促進臨時措置法の4項目を閣議了解
昭和53 1978 7 3 環境庁、「蓋然性が高い場合に認定」などとする新次官通知を発表
昭和53 1978 9 22 若い患者の会、「石川さゆりオンステージ」を水俣市文化会館で開催
昭和53 1978 10 3 チッソ、株式上場廃止
昭和53 1978 10 20 国会で「水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法案」が可決成立
昭和53 1978 12 15 申請協22人、熊本県を相手取り1人当たり月4万円の不作為損害賠償請求訴訟を熊本地裁に提起(待たせ賃訴訟)
昭和53 1978 12 20 熊本県議会本会議、「万一チッソに不測の事態が生じた場合は、国において100%の措置を」など8項目の付帯決議を付けて、チッソ県債発行を承認
昭和54 1979 2 14 「水俣病の認定業務の促進に関する臨時措置法」施行
昭和54 1979 3 22 チッソ刑事裁判第一審判決。熊本地裁、吉岡喜一チッソ元社長・西田栄一元チッソ水俣工事長に業務上過失致死で禁固2年、執行猶予3年の有罪判決。被告は控訴
昭和54 1979 3 28 熊本水俣病第二次訴訟一審判決。熊本地裁、原告14人中12人を水俣病と認定。慰謝料は補償協定書を大きく下回る。原告・被告とも控訴
昭和54 1979 7 25 国立水俣病研究センター開所式。上村千一郎環境庁長官が出席。患者団体は欠席
昭和55 1980 3 18 謀圧裁判第一審判決。熊本地裁の竹沢一格裁判長、四被告に対し公務執行妨害・傷害罪で懲役4月執行猶予2年を言い渡す。被告は控訴。
昭和55 1980 3 24 ニセ患者発言訴訟熊本地裁判決。堀口裁判長、熊本県に対し熊本県知事名で謝罪広告と訴訟費用の支払いを命令、県議個人に対する慰謝料請求は棄却
昭和55 1980 4 16 ヘドロ処理差し止め仮処分判決。熊本地裁、原告の訴えを却下
昭和55 1980 5 21 被害者の会、国・熊本県・チッソを相手取り損害賠償請求訴訟を提訴(水俣病第三次訴訟/三次訴訟)
昭和55 1980 6 6 熊本県、厳戒体制のもとヘドロ処理工事を再開。ヘドロ仮処分原告団、水俣市内で抗議のビラ配布
昭和55 1980 9 18 申請協など6団体、検診拒否運動を開始。水俣病検診センター前で集会を開き、抗議文を県知事・審査会長・環境庁長官に提出
昭和55 1980 12 18 川本刑事裁判上告審で最高裁第1小法廷が検察側の上告を棄却、公訴棄却判決が確定
昭和56 1981 7 1 環境庁、「小児水俣病の判断条件」を決め熊本・鹿児島・新潟各県と新潟市に通知
昭和56 1981 8 1 患者連盟臨時総会、「水俣病」を「チッソ水俣病」と呼称し、同会を「チッソ水俣病患者連盟」と改称することを決議
昭和57 1982 9 6 チッソ刑事裁判控訴審判決、一審通り吉岡喜一元社長、西田栄一元水俣工場長に有罪判決
昭和57 1982 10 28 関西在住の水俣病患者・遺族ら、チッソ・国・熊本県を相手取り総額12億5400万円の損害賠償を求め提訴(チッソ水俣病関西訴訟。県外初の国賠訴訟)
昭和58 1983 3 3 水俣湾ヘドロ処理事業、試験浚渫を開始
昭和58 1983 6 7 最高裁、1970年1月の第42期チッソ株主総会決議は無効とする判決
昭和58 1983 7 9 田上義春元東京交渉団長らの呼びかけで水俣病補償協定締結10周年記念「水俣この十年を考える集い」が水俣市公民館で開催
昭和58 1983 7 20 「待たせ賃」訴訟で熊本地裁・柴田和夫裁判長、原告側の主張をほぼ全面的に認め、原告全員に総額2827万円(1人平均118万円)を支払うよう国・熊本県に命じる判決。国は控訴を決定。
昭和59 1984 5 2 東京、神奈川在住の認定申請者6人、国・県・チッソ関連会社3社に対し総額1億1,880万円の損害賠償を求める訴訟を提訴(東京訴訟)
昭和59 1984 8 19 「水俣病被害者・弁護団全国連絡会議」(全国連)発足
昭和60 1985 8 16 熊本水俣病第二次訴訟控訴審判決。1審判決をほぼ全面的に支持、「現行の判断条件は厳格に失する」と批判し、原告5人のうち4人を水俣病と認定。認容額は600~1000万円
昭和60 1985 11 28 京都在住の認定申請者等5人が、国・県・チッソと関連会社3社を相手取り総額9,900万円の損害賠償請求を京都地裁に提訴(水俣病京都訴訟)
昭和60 1985 11 29 待たせ賃訴訟控訴審で福岡高裁(斎藤次郎裁判長)、原告側勝訴の判決
昭和61 1986 3 27 棄却取消訴訟で熊本地裁、4人全員について県知事の棄却処分を取り消す判決
昭和61 1986 4 18 ニセ患者発言抗議事件(謀圧事件)裁判控訴審、4人の控訴を棄却、共同正犯として有罪の判決
昭和61 1986 5 1 水俣病30年実行委員会、市文化会館で水俣病事件物故者慰霊祭、水上勉の講演会などを開催
昭和62 1987 3 30 水俣病第三次訴訟第一陣一審判決。熊本地裁、国・県の行政責任を認め原告全員を水俣病と認定
昭和62 1987 9 18 公害健康被害補償法が改正され、大気汚染地域(全国41か所)の指定が解除される(1988年3月施行)
昭和63 1988 2 19 福岡県在住の認定申請者ら8人、国・県・チッソ等を相手どり「水俣病国家賠償等請求訴訟」を福岡地裁に提訴(福岡訴訟)
昭和63 1988 4 13 申請協・患者連盟の約80人、チッソ水俣工場で久我副社長らと交渉。「水俣病チッソ交渉団」(以後「チッソ交渉団」)の実質的旗揚げ
昭和63 1988 5 30 申請協の申請者ら、「水俣病チッソ交渉団」(楠本直団長)を正式に結成、水俣工場で交渉
昭和63 1988 9 4 チッソ交渉団、チッソとの直接交渉を求めて水俣工場正門前で座り込み開始(1989.3.25までの204日間続く)
昭和63 1988 9 21 公害等調整委員会、チッソ交渉団が申請していた原因裁定を不受理と決定
平成01 1989 1 7 チッソ交渉団の座り込みテントで患者が昭和天皇の死去に伴い半旗の日の丸を掲げたことに対し、支援者らが激しく反発
平成01 1989 1 13 全国連、司法制度を利用した和解による被害者救済制度の要求を総会で決定
平成01 1989 3 25 チッソ交渉団とチッソ、細川護煕熊本県知事・岡田稔久水俣市長の立会いのもとに救済覚書に調印
平成01 1989 11 21 申請協とチッソ交渉団、合併して新たに「水俣病患者連合」(楠本直会長、以下「患者連合」)を結成
平成02 1990 3 31 水俣湾のヘドロ処理事業が終了。県水俣湾公害防止事業所、閉所式を行う
平成02 1990 4 11 IPCS(国際化学物質安全性計画)、メチル水銀の新クライテリアをまとめて各国に通知、「妊婦の場合、現行の50ppmより低い10~20ppmでも胎児に影響がある」と警告
平成02 1990 8 11 水俣市や環境創造MINAMATA準備委ら、「みなまた1万人コンサート」を水俣湾埋立地で実施。緒方正人らが現地でコンサート反対のビラまきを行う
平成02 1990 9 28 東京地裁が東京訴訟で和解勧告。以後、福岡高裁など4裁判所で勧告が相次ぐ
平成02 1990 10 1 環境庁、東京地裁の和解勧告を「病像・責任論に隔たりが大きくある」として拒否
平成02 1990 10 5 チッソ、東京地裁の和解勧告の受入れを表明。熊本地裁の勧告については、後に受諾
平成03 1991 4 26 最高裁、待たせ賃訴訟福岡高裁判決を破棄差し戻し
平成03 1991 11 26 環境庁長官の諮問をうけた中央公害対策審議会(中公審)が「今後の水俣病対策の在り方」を答申
平成04 1992 2 7 東京訴訟判決。東京地裁、国・県の国家賠償法上の責任は認めず、チッソに一律400万円の賠償を命令
平成04 1992 3 31 新潟水俣病第二次訴訟判決。新潟地裁、原告94人中88人を認定、昭電に対し一人当たり300~800万円の賠償を命令。国の責任は認めず
平成04 1992 5 1 水俣市、68年以来24年ぶりに水俣病犠牲者慰霊式を水俣湾埋立地で開催。患者連盟・患者連合は百間排水口で、水俣病互助会は乙女塚で独自に慰霊祭を開く
平成04 1992 12 7 関西訴訟第83回口頭弁論で中田昭孝裁判長が職権で和解勧告。国、原告とも和解拒否
平成05 1993 1 4 水俣市立水俣病資料館が開館(事業費6億1,000万円)
平成05 1993 1 7 福岡高裁、水俣病第三次訴訟で一時金を3グループ・13段階・200~800万円とするなどの最終和解案を提示
平成05 1993 3 6 市民の会、市文化会館で大会を開き、国の積極的関与を求めるなどの決議を採択。患者連合・患者連盟・互助会は欠席
平成05 1993 7 31 環境創造みなまた実行委員会・水俣市、「水俣病を語る市民講座」を開催(~96年3月)。第1回は浜元二徳が「わたしと水俣病」と題して講演
平成05 1993 11 26 京都訴訟判決、国・県の責任を認め、原告46名中38名について、750~350万円の支払いを命ずる
平成06 1994 5 1 水俣市、第3回水俣病犠牲者慰霊式を水俣湾埋め立て地で開催。患者連合、患者連盟の代表者が初めて参列。吉井正澄 水俣市長が市長として初めて謝罪
平成06 1994 7 11 関西訴訟一審判決、チッソに総額2億7600万円の賠償を命じ、12人に除籍期間を適用して棄却、行政責任は否定。
平成07 1995 4 20 熊本県、水俣湾七ツ瀬海域の仕切網徹去作業を開始
平成07 1995 6 21 自民・社会・さきがけの連立与党が未認定患者救済の解決案「水俣病問題の解決について」を正式決定
平成07 1995 9 15 患者連合、福岡市で吉井正澄水俣市長・渡瀬憲明代議士の立ち会いのもと大島理森環境庁長官と非公式会談
平成07 1995 9 26 患者連合・平和会・漁民の会・茂道同志会の代表、月内の解決を求める申入書を環境庁などに提出
平成07 1995 9 28 連立与党(自民・社会・さきがけ)、一時金として一人260万円、5団体に団体加算金として総額49億円などとする水俣病最終解決案を正式に決定
平成07 1995 12 11 新潟水俣病被害者の会、共闘会議と昭電が解決協定書に調印
平成07 1995 12 15 水俣病関係閣僚会議及び閣議で、未認定患者を救済する政府最終解決策を決定。村山富市首相、「結果として長期間を要したことについて率直に反省しなければならない」との首相談話を発表
平成08 1996 1 22 熊本・鹿児島・新潟の3県、政府解決策に基づく総合対策医療事業の申請受付を開始(~7月1日)
平成08 1996 2 23 新潟水俣病二次訴訟の原告が昭電と和解
平成08 1996 2 27 新潟二次訴訟第2陣原告、昭和電工と和解。国への訴えを取り下げ。14年にわたった同訴訟は終結
平成08 1996 4 28 全国連、水俣市文化会館で原告総会を開き、チッソと和解し、国・熊本県に対する訴訟を取り下げることを決定
平成08 1996 4 30 患者連合、チッソと紛争終結・一時金支払いの協定書に調印
平成08 1996 5 1 水俣市主催の水俣病犠牲者慰霊式が水俣湾埋立地で開かれる。岩垂寿喜男環境庁長官や後藤舜吉チッソ社長らが初めて出席。その後、岩垂環境庁長官、後藤俊吉会長はそれぞれ患者団体と話し合い
平成08 1996 5 19 全国連、水俣市で、チッソとの紛争終結・一時金支払いの協定書に調印
平成08 1996 5 22 水俣病第三次訴訟・福岡訴訟・京都訴訟原告団、チッソと和解し、国と熊本県への訴えを取り下げ。一連の国家賠償訴訟は関西訴訟を除き終結
平成08 1996 9 28 「水俣・東京展」が開幕。水俣病犠牲者の遺影などが展示され、3万人が来場(~10月13日)
平成08 1996 10 27 水俣市、「水俣メモリアル」で地域再生を願う「出発(たびだち)式」を開催
平成09 1997 1 25 水俣病被害者の会全国連絡会、水俣市で結成総会を開催
平成09 1997 3 11 棄却取り消し訴訟の控訴審判決で福岡高裁、棄却処分取消の判決
平成09 1997 3 26 芦北町湯浦に芦北もやい直しセンター「きずなの里」が落成
平成09 1997 4 28 団体加算金の支給対象外となった出水の会、与党三党・チッソに対し、約1億5000万円の損害を求める調停を水俣簡易裁判所に申し立てる
平成09 1997 5 1 川本輝夫ら、「水俣病現代の会」結成、チッソの存続強化や総合対策医療事業の立法化など4項目の要望書を石井道子環境庁長官らに手渡す
平成09 1997 6 8 新潟被害者の会、新潟で初の犠牲者慰霊式を行う。国や昭電は電報とメッセージのみ
平成09 1997 7 4 チッソに対する新たな支援策を閣議了解
平成09 1997 7 5 国水研、「水俣病に関する社会科学的研究会」を発足。原田正純・富樫貞夫らも参加
平成09 1997 7 9 国水研、水俣病関連資料整備検討会を発足
平成09 1997 7 17 熊本県が水俣湾の魚介類調査結果を発表。3年連続で国の暫定的規制値を下回る
平成09 1997 7 29 福島譲二熊本県知事が水俣湾の安全宣言。8月から仕切網撤去工事に着手する方針を明らかにする
平成09 1997 10 11 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議、水俣市で総会を開き、正式に解散する
平成09 1997 10 11 「水俣・東京展」実行委を中心に「水俣フォーラム」が発足(栗原彬代表,実川悠太事務局長)
平成09 1997 10 15 チッソによる水俣湾内の魚介類の買い上げ事業終了。水俣市漁協、自主規制を解除。漁業再開
平成09 1997 10 16 チッソと水俣市漁協が仕切網撤去の完工確認書に調印
平成09 1997 11 4 鹿児島県水俣病出水の会、国・与党三党・チッソを相手取り、団体加算金など1億5千万円を求める訴訟を熊本地裁八代支部に提起
平成10 1998 2 13 「水俣市総合もやい直しセンター」(愛称「もやい館」)が完成
平成10 1998 9 19 日本精神神経学会、「1997年判断条件は科学的に誤りで、感覚障害だけで水俣病といえる」との見解を示す
平成11 1999 6 9 水俣病に関する関係閣僚会議、チッソの公的債務を国が肩代わりする抜本的な金融支援の政府案を正式決定
平成11 1999 12 24 「水俣病出水の会」の団体加算金に関する訴訟で、熊本地裁が原告の請求を棄却
平成12 2000 5 19 「私にとっての水俣病」編集委員会、水俣市民からの聞き取りを掲載した『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』を発行
平成13 2001 10 15 水俣市で水銀国際会議が開かれる。45か国から水銀汚染に取り組む研究者らが参加
平成14 2002 8 26 持続可能な開発に関する世界首脳会議(サミット)が南アフリカ共和国のヨハネスブルグで開催される。相思社も参加。
平成16 2004 10 15 水俣病関西訴訟で最高裁、国と熊本県の責任を認め、賠償を命じる。水俣病国賠訴訟では初めての最高裁判決で、行政責任を明確に認める
平成17 2005 2 5 芦北町・津奈木町などの認定申請者40人、「水俣病被害者芦北の会」(森下紀裕会長、以下「芦北の会」)を結成
平成17 2005 2 20 水俣病不知火患者会(大石利生会長、以下「不知火患者会」)発足
平成17 2005 10 3 不知火患者会50人が国・熊本県・チッソを相手取り、損害賠償請求訴訟(ノーモア・ミナマタ国賠訴訟)を提起
平成17 2005 10 13 水俣病保健手帳受付再開
平成18 2006 11 27 国の行政不服審査会、緒方正実の認定棄却を取り消す裁決を下す
平成19 2007 3 10 熊本県の認定審査会が2年7ヶ月ぶりに開催、緒方正実に認定相当と判断
平成19 2007 3 15 熊本県、緒方正実を認定
平成19 2007 4 27 新潟水俣病の未認定患者12人、国と新潟県、原因企業の昭和電工を相手どり1人1200万円、計1億4400万円の損害賠償などを求める訴訟を新潟地裁に起こす(新潟水俣病三次訴訟)
平成19 2007 5 16 関西訴訟で勝訴した大阪府の女性が熊本県に対して棄却取消を求め提訴
平成19 2007 10 7 愛知県に在住の認定申請者や保健手帳所持者ら30人、「水俣病・東海の会」(以下「東海の会」)を設立
平成19 2007 10 11 被害者互助会の9人、国・熊本県・チッソに一人当たり1600万円~1億円(総額2億2800万円)の損害賠償を求める訴訟を提起
平成20 2008 1 25 溝口棄却取り消し訴訟、原告敗訴の判決
平成21 2009 7 8 水俣病特措法成立
平成22 2010 3 15 不知火患者会訴訟・第4回和解協議。熊本地裁、一時金210万円、療養手当は平均月15000円などの所見を出す
平成22 2010 5 1 水俣病犠牲者慰霊式、鳩山総理、現職首相として始めて参加。慰霊式後、水俣病特措法による救済措置の受付を開始
平成22 2010 12 15 松本龍環境大臣、チッソの事業再編計画(分社化計画)を認可
平成23 2011 1 12 チッソ、水俣病特措法に基づく事業再編計画で、同社の事業を引き継ぐ新事業会社「JNC」を設立
平成23 2011 3 25 不知火患者会訴訟(ノーモア・水俣・熊本訴訟)が和解
平成24 2012 7 30 水俣病特措法による救済措置の受付を終了
平成24 2013 10 7 熊本市と水俣市で「水銀に関する水俣条約」国際会議が四日間開催される
平成28 2016 2 3 日本政府、「水銀に関する水俣条約」を批准

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