永野三智
中学生に「日本の公害病はいくつあるでしょう」と質問した。子どもたちは口々に「四つ」と答える。「その根拠は?」と尋ねると「教科書に載っているから」。
私が子どもの頃も、イタイイタイ病、水俣病、四日市ぜんそく、新潟水俣病は主要な公害病として扱われていた。日本の公害は、当然これだけではないが、教科書の記述からは私たちの国がこの問題を四つの公害に収めようとする姿勢を感じてしまう。そのことに水俣が利用されていること、加担していることを思うと、なんとも腹立たしく思えてくる。公害列島日本と言われたこの国が起こした数々の事件の歴史や、自然界や人間界に及ぼした被害はどこへ行ってしまうのか。水俣病を軸に活動をするなかで、四大公害とその他の公害では扱いが違うと感じることがある。水俣病はいわばブランド化された公害病だ。7月、他の公害病患者支援者から「水俣は何もしないでもお金が降ってきていいね」と言われ固まった。そういえばまた別の公害病の患者から「水俣は支援者が多くていいですね。私たちは…」と言われたことを思い出した。自転車操業の運動だと自覚し、支援者も少ないと思っていたが、同じ「公害病」の被害地域同志で知らず知らずのうちに、分断が起きていることに、今更気がついた。
そう言わざるを得ない人たちのきつさを知り、自分の無自覚さと、気づかないということの高慢さを恥じている。
昨年12月、水俣市立水俣病資料館の企画展「四大公害企画展 豊かさとひきかえに」というパネルの制作を受託した。行政の資料館お決まりの「再生」や「悲惨さを乗り越えた人間の美しさ」といった趣旨のことは入れなかった。引き起こした被害は決して元に戻せない。被害者が苦しみの中から見出した希望も、軽々しく受け取られたくなかった。水俣病の展示は資料館にあるので入れなくて良いとのことだったが水俣病に対する相思社の主張を入れ込みたいと思い、「水俣病と他の3つの公害病との共通点」という形で表現した。そのうちに、4つだけではない公害病を伝えたいと思い、スペース的に可能な24の公害を取り上げた。四大公害企画展は4月に始まり、2016年末まで展示してある。
四大公害がなぜその名で呼ばれるようになったのか。私の理解では、当事者たちがあげた声が社会運動に発展したから。裁判を起こし、支援の輪が広がり、勝訴したことが大きいと思っていた。一方で被害者の苦しみは同じであるにも関わらず、広がりきらなかった声や消されていった公害病がある。四大公害病 と言われ続けてきた水俣だから、いま他の公害地域の悲劇を語っていく必要があると思っている。
企画展のときに、消されそうになった公害病の代表格である土呂久に興味を持ち、個別に調べた。第一弾の今回は土呂久を特集する。土呂久のヒ素事件は理想的な展開という意味でモデルケースだと思う。ヒ素事件が起き、裁判があり、補償を得、その課題を世界に広げたという展開の仕方と課題の見つけ方。なぜ消されなかったのかにヒントを得ながら考えていきたい。