大熊孝
今日は皆さん遠いところをお越しいただいてありがとうございます。相思社で哲学塾を万全の体制をひいていただいてありがとうございます。永野さんが一年半前に山梨の哲学塾に来られた時に初めて会った時に、「こんな若い人ができるのかな」と思ったのですが、その間に腹の座った女性だと分かりました。ここに来てみたら納得した。相思社の中での永野さんの位置づけが分かりました。哲学塾を組織して軽やかにやっていただいているようで、ありがとうございます。
永野
今日も荒い司会で進めさせていただきます(笑い)。同僚から掛川哲学塾の冊子を見せてもらって、よく分からないけど面白いなと思いました(笑い)。山梨の哲学塾に行った時に、同窓会的な乗りで、私は初めてだったのですが、一〇年位来ているって感じで参加しました。
大熊
その後すぐに新潟にも来てくれたんだよね。それで更に安心したよ。
永野
そうでしたね。哲学塾は対等な形で話ができる場だと思いました。三人委員会に一人で水俣病を考え続けてきた緒方正人さんが入ったらどうなるんだろう思って、緒方さんにお話にいきまして、参加の了解を得ました。
今日はまず、三人員会の特別ゲストの緒方正人さんにお話をいただきます。
緒方正人
緒方正人です。いずれその正体は今日明日のうちにはばれるでしょうから、詳しくは申し上げません(笑い)。私の生まれ育ったところはここから一〇数キロ先の葦北町女島です。家の目の前が不知火海です。昔海だったところを、オヤジが埋め立てて家を立てたので、今も家の下を海の潮が出たり入ったりしている。一日四回の潮の満ち引きの上に住んでいるので、とても心地よい。海の満ち引きが生命運動だろう。海の記憶が今も働いていると感じている。マンションの上層部で暮らすよりよっぽど気持ちが良いなあ。私と水俣病との関わりは、最初の水俣病患者発病が確認された年が、私の生まれた昭和二八年です。生まれたという言い方もできるんですが、ある意味では不知火海の海産物というか農産物というか、自分も不知火海に放出されたものです(笑い)。いずれ回収されるけど、それがだんだんと近く寄ってきている気がします。誰でも放出されて回収される。楽しみにしているわけではないけど「いつでも良いや」と思っている。
六歳の時にオヤジが二ヶ月くらい苦しんで亡くなりました。畳がすり切れるくらいのたうち回って苦しんだ。その衝撃が私を揺さぶり続けました。それは小学校に入学する半年前ですが、ひらがなも書けない、名前も書けない、数字も分からない、お金を使った経験もない。それまでのオヤジとの関係というのは非常に濃密な親子関係でした。私は戸籍上一八番目のラストの子どもです。オヤジは二時間以上寝るのは「それだけで贅沢しとる」とそういう感じでした。冗談半分に「チッソの人たちには、ようもうちの親父を撃ち殺してくれた」「あのまま長生きされたんじゃあ俺のほうがたまらんやった」(笑い)。オヤジにまともに面と向かって話せる人は何人もいませんでした。相撲の部屋の親方みたいなもので、静かにしてくださいという必要がないんです「エヘン」と咳をするだけで静かになるほど迫力がありました。そういうオヤジを男のモデルとして見ていました。私が物心ついた時には姉たちは結婚していたんですが、甥や姪が四〇人位もわらわらいた。子だくさんのところで、しかも自分が戸籍上一八番目。先妻一二人、お袋が六人産んだんだけど、生後直ぐに三人亡くなっている。男で生きているのは俺一人で、女はしぶといですね。うちだけじゃなくて隣も子どもが一二人いた。
昔は今みたいに豊かな暮らしじゃなかったけど、生きていくこと生まれてくる子どもを育てること、海との向かい合う関係、暮らしそれ自体が自給自足みたいなものでした。砂糖や塩いわゆるさしすせそ位しか買っていなかった。そういう自然な暮らしの中で水俣病事件が起きてきた。水俣でも不知火海周辺でもそうでした。チッソという化学工場は近代化を象徴していたんです。チッソが来て一一〇年近くたちます。最初は水力発電所で電気から始まったチッソですが化学肥料も作っていました。ここ三〇年くらいの主力は液晶ですが、最初は世界の七割のシェアを持っていた。ほとんど独占だった。日立は技術の日立で有名ですが、昔から技術のチッソで昔からすごい会社だった。
その会社が工場から毒を流すということから始まったんですね。昭和三一年に確認から六〇年近くなるわけです。水銀それ自体を使ったのは昭和七年からです。私は水俣病が何時から始まったのかということ言うと、保健所に届けられた昭和三一年の五月一日というのが広く使われますが、どうも面白くないと長年思っていたんです。三〇年位前にどうも的をえていないなと思っていていて、保健所に届ける前にはあったのかなかったのか、毒も水銀だけじゃなくて複合汚染なんで、ヒ素も鉛もタリウムも流しています。いつから始まったかを考えると、チッソが来たときからと言っていいだろう。
もっと他の言い方はないのかなと思っていて、人が人を人と思わなくなったときから始まったと考えたほうがいいのではないか。魂がどこかでおかしくなった時から物事が起きているんじゃないか。私や相思社の人たちや多くの支援者たちは水俣病事件という言い方をしてきたし、水俣病問題とか環境問題とはあまり言わなかった。あえて事件といった。事件というとモノとコトから成り立つ。化学物質としての工場廃液というか水銀というモノ、コトとしての事件です。展開を考えれば命の物語と見ていた。ここ六〇年、チッソが来てから一〇〇年ではなく生命史全体から捉え直す必要がある。
加害者はチッソだという言葉は覚えているが、小さかったから工場も見たことはない。チッソとは何者なのかということが、小さい時から課題としてあった。敵は誰なのか? その正体は? 一円のカネを使ったこともない、文字も書けない、逆に言うと文字でも・カネでもだまされない、学校に行ってないから教育の摺り込みも聞いていない、三つ子の魂というところから、海の異変を見て、親父の苦しい状態を見てきたので、知識的な反応というよりは生物的な反応じゃなかったかなと思う。恨みの心、怨念、闘争心というものをおそらく動物的な反応じゃなかったかな、そっちのほうが腑に落ちる。誰からか教えられたものではない。最も愛した親父が目の前で殺されていく。自然界の逆襲の一つかもしれない。そう考えたほうが興味深いと思う。
相思社にもしょっちゅう来ていました。川本輝夫さんや支援者と、チッソにももちろんですが県庁や裁判所にいったり、自他共認める過激派でした。川本より危ないと言われていた。運動に入る前からデモ隊に殴りかかって逮捕されたこともありました。県知事が握手しようとしてきた時に「お前なんかと握手できるか」と払いのけたんですが、その時に警護の人が捕まえようとしてきたんですが、さすが県知事ですね「やめろ」と言ったんです。話が外れてしまいました。
今から三〇年近く前、一九八五年水俣病の運動から離れました。仲間たちに説明はしたけど理由はほとんど分かってもらえなかった。運動そのものがシステム社会の中に埋め込まれていた。金で処理されることに抵抗感があった。運動側にも原因がある。自然との関係の深い豊かな暮らしから、カラーテレビを持ち車を二台三台持ちという時代になった。何もかもが商品化されていく、値付けされている。人間にまで値段が付けられている。補償金だ和解金だといったところで。その事に抵抗感があった。金じゃない、じゃあ何なのかということについてはうまく答えられない自分がいる。自分がゼロの地点に立ち返ってやり直したい。大変なハードルだった。孤立しますから。家族や兄弟、妻ですら誰も分かってくれない。あの時、一人になる決断をしたんですよね。非常に苦しんで課題に狂った。人間とは何だったのか? 俺という人間は何者なのか? どうしたいのか? それまでぶつかったことのない課題にぶち当たった。自分で宿題を作ったんですよね。そんなことを考えずに暮らしていれば楽なものを(笑い)。
三〇年前にある日突然なったわけではない。それまでに自分が体験してきたこと、やり合ってきたことがある種の爆発点を迎えた。自分の活動を活火山だと、休火山や死火山にはなりたくない。一人になろうとした時に、何か別の道があったわけではない。何か見つけてからならば変わりやすいが、次が分からないのに一人離れちゃった。これが良かった。ものを考える上で深みが出たと思う。背伸びしていた分深くひっくり返る。山深ければ谷深しとはこのことなんだなと考えた。何百回でも自殺の衝動がおそってくる。生死をかけた中で考えていたことは、水俣のことだけではない。海や山や田畠が新幹線や工場用地誘致で売られていくことを見て、日本全体がゼニ化したことに起こっていた。カネが支配する世の中に生きていることに、自分が行きていることに耐えられなかった。宇宙の大気圏外に行きたくなるくらい。水俣病のことだけを考えたのではなく、水俣病のことは要素として大きかったけれど、社会全体を、薬害事件もそうですし、宗教対立、核兵器、いろんなことがどうしてこうなるんだろうと思っていて。虚構のシステム社会が見えてくるというか。何でもゼニでごまかしてしまうというか。身の丈を超えた札束が飛び交う。とんでもないカネが飛び交っている。
もし自分がチッソの中にいたら、どうしただろうか、という問いを立てた。そういう問い自体は今まではなかった。被害者が加害者を問うと側でいられる安全地帯の中だけでものを考えていた。その中での責任論に過ぎず、責任の行き先はゼニに過ぎなかった。チッソのいたらどうしただろうかと考えた時に、寒気がするくらいに戦慄を覚えた。今まで味わったことのないような、自分の問いに自分が震えた。直感的に、同じことをやらなかったという根拠のなさに気付いた。チッソの責任ある立場にいたら、同じことをしたと思う。運動をやっている時代には、彼らとは一緒のことはしなかったと思い込んでいたんです。かなりの部分は思い込みで生きている。夫婦関係にしても(笑い)。それがひっくり返った。『チッソはわたしであった』という本を二〇年前に出した。チッソはもう一人のわたしであったが本当の言葉だった。「わたしはチッソだった」と主語が私だったが、『我が輩は猫である』と似ていることに気づき、編集者の人も気づいた。それで主語をひっくり返したが、その時のチッソは身の内に発見している。運動上というか社会通念上見ているチッソは、我が身の外に見ている対象物なんです。自分も同じことをしたかもしれないと思った時のチッソは、我が身のうちに発見しているんです。この発見が非常に大きかったんです。オレは何者なのか? 自分の根拠というものを、どっかで水俣病という地点から物事を見ることに慣れてしまった。被害者であるという地点が担保されている。それがある種の物差しを作っていた。自分の根拠というものが。患者家族という視点から見る事になれている。ある種のものさしを作っていた。応援してくれる人は味方と思うし、一緒に活動している人を仲間と、無意識のうちに思っちゃう。あらゆる意味での運動は、良くも悪くも社会教育をしていると疑ってよい。自分は漁師をしているけれども、普通の意味でいれば、魚組の組合員で、熊本県知事の許可を得て操業をしている。これも一つの思い込み。確かな根拠はなくただの泥棒なんです。漁師でありますというのは、人間の娑婆だけで動いている。魚の立場で見れば、強盗殺人、死体遺棄です(笑い)。とんでもない奴らですよ、人間って。魚に一度聞いてみたんですが、魚は「こいつらさかおらんば、この世は面白かばってん」というだろうと思う。生きている魚を捕まえて殺して食って、女衒みたいなことをやっている。それに気がついて一八〇度ひっくり返ったときに、全てがひっくり返った。魚泥棒だったことに気付いた。これは「チッソは私であった」とセットです。
水俣病事件のなかで一番大事なことはなんだったのか? 三つのことに集約されると思う。一つ目は、海が汚染されて魚が毒されていると知ってからも、ずっと食べ続けてきた。魚や海への恨み言を聞いたことがない。どっかで泥棒を思っていたからかもしれな。どこに信を置くかとコトを考える上で、存在の根源のこととして私はこれが非常に重要な事と思う。魚とカライモと麦飯に養われてきたことを知っているからだと思う。二番めは、生まれてきたいのちも昭和三〇年台は流産死産も多かったけれど、産み育て二人目三人目も育てた。生命に対する、授かるいのちに対する深い慈愛というか愛情があったと思います。三番目に、家族の中で何人も殺されたり一生を台なしにされたり、寝たきりにされたりということもあったけれど、こちらからチッソの人たちを誰一人殺すことは一度もなかった。深い恨みを持ったけれど、殺されたからと言って、殺し返すというところにはいかなかった。正直に言って、俺が一番危なかったんです(笑い)。そうだったら歴史に汚点を残していた。この三つのことが大いなる誇り、高い精神として良い。戦争とテロリズムが横行するこの世の中で、そこを踏みとどまったことは誇れることだと思う。たまたまじゃない。この三つのことが守られてきたことは、人間の道理を踏み外さないようにというコトが出来たのは、たまたまできたことじゃなくて、長い伝統の中で規範とされてきたことだと思う。
この三つのことが、非常に大事なことで、裁判をして勝ったか負けたかとかは、市場みたいなもの。築地が最高裁。ゼニを付けないと裁判にならないですからね。水俣病を通して、世界を、社会を見る土台になった。考えれば考えるほど、おのれとは一体何者なのかと言うことに打ち当たった。一年ほど狂いに狂って仕事どころではなかった。でも暴力行為はなかった。オレが壊したのは、車とカラーテレビくらい。機械と人間の関係をはっきりさせようとしただけ(笑い)。これを機械均等法と言う(笑い)。テレビに向かって「俺の家に勝手に上がり込んで、ああでもないこうでもないと嘘八百並び立てて、出て行け」と言って投げ出したら「ブシュー」といった。
永野
ありがとうございました。
緒方さんの話を受けて今回のテーマ「私に立ち返り考える水俣と福島」ということで、三人委員会のみなさんに話をいただければと思います。私の隣の内山さんからお願いします。内山さん、ちょっと油断してましたね(笑い)。
内山節
昨日、僕は修験道のTシャツを着ていました。吉野の金峯山寺のTシャツです。あのTシャツは、僕が作ったらどうかと提案をしたんですが、売れ行きが大変良好だということで、僕のところに五、六枚お礼で送ってきました(笑い)。今年はほとんどそれだけで生活をしているんです(笑い)。金峯山寺は修験道の復活に必死になってるんです。人が来てくれるのが嬉しい、知ってもらうのが嬉しいということなんです。明治五年に修験道禁止令がでて、それで公式に復活したのは新憲法が発布された昭和二一年です。だから何十年間か地下に潜っていた。ですから修験道にとって近代の歴史というのは、自分たちが弾圧されてきた歴史なんですよ。だからいかに近代世界と対決するかは、今の修験道の課題なんです。ですから修験道の人たちは、原発に対しては許すまじという感じなんです。理由は簡単でご神体が自然ですから「自分たちのご神体に放射能を振り掛けるとは何ごとだ」というところです。
そのTシャツを着ている人間として、福島の問題って結局人間として許せるか許せないかという話になる。しかし現実は完全に自己矛盾に陥って、結局人間として解決するっていうのは、補償金をもらうとかそういう形でしか解決がつかない。修験道の立場で言えば「福島の大地はこの事態を許すか」というです。そうすると「原発がある限りこれは許さん」となります。これを思い出したのは、緒方さんの話を伺っていて結局「水俣の大地はこれを許すかどうか」それしか最終的にはないような気がしています。もちろん、大地が許すかどうかっていっても「大地が許しますよ」って旗あげるわけじゃないんだけれども、ここで暮らしてきた人間たちが大地が許してるということを感じ取ることができるかどうか。最終的にはそこにしかない、そういう気がいたします。
日本の場合ってちょっと悲劇的かもしれないと思っているのは、元々はどんな社会でも共同体自体がそうなんですけど、人間たちが暮らす以上制度とかシステムっていうのは何らかの形ではあるわけです。だけど、例えば昔の法律で言うと、幕府が出している法律がある、藩が出している法律がある、だけど実際にそこに住んでいる人にとって一番強い役割を果たすのは村の掟なわけです。掟っていうのはかなり厳しい言葉に聞こえますが、「絶対これやっちゃだめだよ」という厳しいのもありますが、ほとんどは自分たちが生きていく世界の中で何となくみんなが「そうだね」と思っている意識が掟です。だから生きていく世界では掟が一番優先していて、それで最後の幕府の方まで来ちゃうと、本当に遠くにある法律っていうか、そんな感じだったんですよね。法とか制度とかあっても、それを事実上骨抜きにしたり、覆してしまうような力をかつては地域社会が持っていたと思ってもよい。
この形を転換しようとしたのが明治なわけで、明治になった時に、思想史的に言えば儒学系の勢力が明治維新をつくると言ってもよい。儒学の特徴っていうのが、制度があってこそ人間の生きる場所がある。すべてに制度が前提に置かれるという意味。制度っていうのがもっとはっきり言えば国家なんです。だから国家があってこそ、すべての人間の生きる世界があって、だから国家がない、制度がないってことは、生きる場所がない。そういう考え方を骨格として持っています。そう思っている人が明治維新を作っているということがある。
鬼頭秀一
いろんな思いがあるんですけども、緒方さんの言うように、水俣病人を人を思わなかったことから始まりました。原発のことについてもそうですが、かなり危機的なんです。まさにいろんなものがいま噴き出してきたなという感じがするんです。原発いまの再稼働のことにしたって、水俣もそうだったと思うんです。やはり経済のためにはチッソの排水を止めないで欲しいという陳情までありましたよね。日本全体、高度成長社会の中で、チッソの操業を止めたら「日本経済が立ちいかなくなる」と全国的な理解があったわけだから、日本全体がチッソを支えたと言えます。今の原発でも同じようになってるわけです。「経済が立ちいかなくて人間が生きられるのか」と論を立てると、やっぱり原発を再稼働しなきゃいけないという話がでてくるわけです。それが理性的な判断というか、わりと物分かりのいい人たちが議論をする中で出てきている。そういうものが表面に出てきているということ自体が、ある意味では社会が分かりやすくなっているとも言えます。根源的にそういう事態に対して、どう考えていくのか。福島でもいろんな方にお会いしています。避難するのか、留まるのかという議論もあるし、そこでどう生活するのかということもある。そこでいろいろな思いに引き裂かれながら暮らしてるという現実がある。私はこのことは、放射能の被害というより福島原発の被害が人をそこに追いやっていると思います。解決がどうなのかという話がありましたけども、解決というのはほんとにどうあるのか分からないけど、なんか形が出来ないとだめなんだろうなと思ったり。私は福島に行って人にあって話を聞きますが、私がなにができるわけでもないんだけども、話を聞いてる中でここで生活も含めて何かきちんと変わっていかないと、どうなんだろうなという感じがしています。そうした状況と、緒方さんが言われたことがまさに出会っています。
システムに対抗するのは何かといった時に、私は抵抗の原理を言って来たんです。要するにそれに抵抗したり、被害者と位置づけていく論理なんです。しかしこれは一種の二元論のような形になってしまうので、最近は地べたを這いつくばっている人間としてのリアルな自分、ということから出発すると言うようになりました。それはおそらく実際水俣病の患者さんたちもそうだし、被害をいろんなレベルで受けているものが、一人のところに集約してくる実感をどう捉えきるかというところがないと、実は被害全体が捉えきれない。さっきの福島のことに関しても、放射能で影響があるかないかとか、そういうレベルの問題ではなくて、そもそもそういうところに振り回されながら、避難してみたけどどうもうまくいかない。戻ってきてそれなりに覚悟を決めるんだけれども、じゃあそれで大丈夫かというともちろん不安もある。それで不安を語ると「あんた何様よ」と言われる。Tさんはそうした行動の中で、そういうものを一手に引き受けているわけですよね。そこのリアルな被害をどう覆していくか。あるいは身体がもって実感しているような世界だと思うんですけれども、そこからいろんなものを変えていったり、見ていくような形にならないと、たぶんこのシステムは覆らないかなと感じています。
大熊孝
私は二人のように高尚なことは言えないんだけれども、緒方さんの話の最初にでてきた潮の満ち引きはすごいなと思うんです。先日田中さんに案内してもらって、佐賀平野の治水を見てきたんです。これをやったのは今から四百年前の成冨兵庫重安っていう人です。日本で人の名前が町名についてるのは成冨兵庫だけじゃないかと思うんだけど、兵庫町っていうのと重安町っていうのがあります。この人はね、有明海の六メートルの干満をいまから四百年前の成冨は全部それを見抜いて、ものすごい緻密な治水をやってるんです。僕らは自然をきちんと読み解かない中で、公共工事をガンガンやっている感じです。
球磨川の下流の荒瀬ダムがいま撤去してる最中で、どうなってるかなと思ってちょっと覗いてきました。見たらもう大きな石がかなり流れているから、これは多分全部撤去してしまえば、かなり自然回復するだろうなというふうに思っています。そういう意味では、荒瀬ダムの撤去は、自然回復っていう意味では新しい展開になるのかなと思います。まあともかく、僕らは自然をほんとにダメにしてきてるっていうか、資源の収奪の対象としか見ないできているっていうところに、近代はこれで立ちいかなくなるということだと思うんです。だからもう一度自然のもっている鼓動っていったかな、それをもう一度我々が身体で、よく感じてそれを技術の中に活かしていかない限りダメなのかなっていうのを、ここに来て正人さんから話を聞きながら再確認したということであります。
鮭の放流をしていると申しましたけれども、今筑摩川まで鮭を還しています。ちょっと前まで一匹も戻ってこなかったのが、去年は秋の間で四〇八尾です。今日はまだ聞いていないんですけれども、一〇月一日の段階で一〇〇尾戻ってきたんですよ。去年トータル四〇八尾で、一〇月始まった段階で一〇〇尾戻ってきている。これは新潟県と長野県の県境にあるダムまで戻ってくる数で昔はゼロです。今何が困っているかっていうと、水産資源保護法というのがあって、鮭を取って食べてはいけないということになっているんです。ところが現実に信濃川でなく近くの川なんですけど、ここには漁業権がまったくないんです。ここに、毎年結構上って来ているんですよ。皆さん「鮭取って食べた」って言うと警察が来て捕まえますから、「鯉を食べた」とか「鮒を食べた」と言ってどんどん食べているんですよ。制度としては鮭を取って食べてはいけないことになっていて、それはただ宙に浮くだけなんですね。還ってきてもどうにもならないんですね。だから現実には鯉だ鮒だと言って食べている。これどうしたらいいのかと、水産資源保護法を変えてもらいたいと思うんだけれども、これはものすごく壁が厚くて今のところ変えられないんです。漁業権の担当をした手塚さんにちょっと聞きたくなった。だから、制度と現実が完璧に乖離しているんですよね。でも制度がずっと残っていて変えられない。
※この原稿は、三人委員会の当日の内容のほんの一部になります。
内容をすべてまとめた小冊子は→こちらで販売中です