水俣病研究会代表・水俣病センター相思社理事長・富樫貞夫
昨年一二月二七日、水俣病センター相思社理事の丸山定巳さん(水俣病研究会会員・熊本大学名誉教授)が亡くなりました。七四年の生涯でした。
水俣病第一次訴訟を理論面から支援する目的で水俣病研究会が発足したのは、一九六九年九月のことでした。それ以来四五年という長い年月、丸山さんと活動をともにしてきました。
水俣病研究会は、一九七〇年八月、『水俣病にたいする企業の責任-チッソの不法行為』と題する研究報告書をまとめ、つづいて一九九六年七月には上下二巻からなる『水俣病事件資料集』を刊行しました。後者は、一九七三年三月の第一次訴訟判決後から関係資料の収集・整理を始め、刊行までに二〇年を超える大変な作業になりました。その間、熊本大学文学部の丸山研究室には約九万点に上る水俣病関係の資料を整理・保管していましたので、その資料をみるために全国各地から研究者が訪ねてくるようになりました。
資料集を編集するための作業も、毎週土曜の午後から夜にかけてやはり丸山研究室でやらせていただきました。夕食時には近辺の食堂で腹ごしらえをして、また編集作業にもどるという生活でした。このように、丸山さんは、長い間、その研究室を水俣病研究会の事務局として提供してくれたのです。
丸山さんが水俣病センター相思社に深く関わるようになったのは、一九八九年の「甘夏問題」がきっかけでした。同年八月の理事会で相思社存続・管理運営検討委員会の設置が決まり、私がその委員長に、丸山さんは副委員長に選任されました。その検討結果は、同年一〇月「水俣病センター相思社の再生を求めて」と題する答申にまとめられ、それをもとに相思社は決意を新たにして再出発することになったのです。丸山さんは、二〇〇一年五月の答申「転換期を迎えた相思社の活動のあり方」を委員長としてまとめ、二〇〇五年以降は理事の一人として亡くなる直前まで相思社運営の責任を担ってくれました。
地域社会学担当の若い講師として丸山さんが熊本大学に赴任したのは、大学闘争最中の一九六八年のことでした。社会学専攻の学生にとって調査実習は必修科目ですが、丸山さんは早くから水俣市とその周辺地域の住民を調査対象として繰り返し水俣病被害の実態調査に取り組んできました。調査を始めたころはまだパソコンのない時代ですから、データの集計などはすべて手作業でした。その後、丸山さんは、他の研究者らとの共同研究として調査対象を広げながら繰り返し水俣病被害の調査を行っています。
一九五六年五月の水俣病の発生確認からすでに半世紀を超えましたが、これまでに行われた水俣病関連の調査は、医学を中心とする自然科学的調査や社会学を中心とする社会科学的調査など、膨大な数に上ります。しかし、これらの調査によってメチル水銀汚染の詳細なメカニズムを含めて水俣病事件の実態がどれだけ解明されたかは疑問です。つい数ヶ月前のことになりますが、これまでに行われた水俣病事件調査の内容とその評価について丸山さんに検討をお願いしました。しかし、これはかなわぬ夢となりました。
丸山さんとは公私にわたり長いお付き合いをさせていただきましたが、なかでも忘れられないのは、一九九五年一一月から一二月にかけて約一ヶ月間ドイツを中心に水俣病を伝える旅をしたことです。ことの発端は、緒方正人さんからアウシュヴィッツ(ポーランド)にいっしょに行ってもらえないかという相談を受けたことでした。折角の機会なので、ドイツを中心に大学や環境団体とも交流し水俣病の真実を知ってもらう機会にしようということになり、「水俣病に関する国際交流計画」を作成しました。計画の作成にあたっては、ボン大学から水俣病の調査にきていた若い研究者とベルリン自由大学から熊本大学文学部(社会学専攻)に留学していた学生という二人の若いドイツ人女性が全面的に協力してくれました。参加者は、緒方さんのほか、水俣病研究会から丸山さんと私、事務局として相思社の吉永利夫さんの四人です。
まず、ベルリンからアウシュヴィッツに直行し、その後、ハイデルベルク大学などいくつかの大学で講演し、ボン市環境局などを訪問して環境行政の実際を見学させてもらいました。ちょうど訪欧中に開催されていたハレ大学主催の日独学術週間にも招待され、環境問題に関するシンポジウムに参加しました。そこにはドイツ駐在の昭和電工社員も招待され、日本の公害対策について報告していましたが、自分の会社が引き起こした新潟水俣病については一言も触れず、官僚の作文のような内容でした。討論に入って、私たちは真っ先にこの点を追及しました。結局、討論の大半は私たちと昭和電工社員との激しいやりとりに終止し、ほかの参加者から発言する機会はほとんどないまま終了しました。主催者にとっては、まったく予想外の経過だったでしょう。
ベルリン駅のホームでは、丸山さんがバッグからパスポートを抜き取られるというハプニングがあり、全員冷や汗を流すという一幕もありました。ホームで偶然拾ってくれたアフリカからの黒人留学生に助けられ、パスポートを再び手にしたのは発車一分前のことでした。これも忘れられない思い出です。