永野三智
6月、福岡県大牟田市の大原俊秀さんを訪ねた。今年で閉山から20年を迎えた三池炭鉱跡を巡った。午前中は「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」の藤木雄二さんとともに同行いただいた。午後からは炭塵爆発裁判の原告で被害者の妻である松尾恵虹さんのもとへお連れいただいた。
三井三池炭鉱の技術力と労働力は三井財閥に莫大な利益をもたらした。1959年には石炭産業の全国的な再編成の一環として、数千人の労働者を失業に追い込む炭鉱閉鎖の計画を発表した。それを受けた労働者たちは閉鎖計画に抗議するためにストライキに突入。日本労働組合総評議会の議長で合化労連の太田薫から加盟組織として支援呼びかけを受けたチッソ水俣工場第一組合の労働者は、三池へ応援に駆けつけた。
一方で水俣では1962年、チッソが第一組合に対し、賃上げ交渉を通じて4年間の長期賃金協定を提示し、あわせて合理化のための人員整理を行わないことも示唆した。それと引き換えに、争議の放棄を求めたことは、新日窒労組にとって合理化のための組織破壊を狙ったものだった。労組はストライキ体制を組んで争議(安賃闘争)を始めます。渦中にあった労働者の元へ、返礼のようにして応援に来たのが三池の炭鉱労働者たちだった。
その後、暗くて過酷な炭鉱労働のなかで1963年、戦後最大の労働災害と言われる炭塵爆発事故の犠牲が生み出される。わずか四家族が提訴した裁判では、医師の原田正純、チッソ第一組合元委員長の岡本達明、水俣病研究会の富樫貞夫らは、毎月三池に通っての裁判支援を行った。
争議や裁判によって生まれた強い結束を追いながら、その歴史の一部を紐解く。