葛西伸夫
「たった、一升なんです……。たった一升の油に、私たちは50年間苦しん
でいるんです」
患者の下田順子さんは、嗚咽を抑えるように、そう切り出した。
10月に福岡市で開かれた集会会場の正面中央には、最近偶然被害者宅
から発見された、50年前に油症を引き起こした油が三分の一ほど残ったま
まの一升瓶が置かれていた。
水俣病が公害認定された1968年、カネミ油症事件は発生した。
それから50年。いまでも下田さんの体には、その一升瓶のなかにあるものと同じPCBやダイオキシン類の成分が残留している。それは本人だけではなく、彼女の娘の健康も脅かし続けている。
私は、水俣病に関わるようになって以来、同じく「食」を発端とする事件としてカネミ油症事件のことがずっと気になっていた。今回、発生から50年という機に特集を担当した。調べものやインタビューをしていく中で、その想像を超える被害の大きさや深刻さに圧倒された。
また、水俣病とカネミ油症とでは、知れば知るほど、共通項の揃った事件であることがわかっていった。
相違点として、ある意味際立っていたのは、世間での脚光の浴び方の違いだった。
あるカネミ油症被害者が、水俣病のことを「華やかな世界」と表現したことには衝撃を受けた。
彼らは、どうして水俣病にはあんなに人が集まるのだろう、話題になるのだろう、と口をそろえる。
水俣病歴史考証館には、一通の電報が展示してある。
「国家権力こそ暴力だ 弱いもの同士勝利を目指して頑張ろう」
1972年10月31日カネミ倉庫前に座り込んでいる患者、紙野柳蔵が、丸の内チッソ本社前に座り込んでいる川本輝夫に宛てたものである。
きっと川本も連帯のあいさつを返したに違いない。
しかしこの二つの事件は、一方だけが陽の当たらないいばらの道を辿っていくことになる。もう一方があたかも「華やか」に見える程までに。
水俣病に関心を持つ多くの方に、カネミ油症事件にも目を向けてほしい。
よく知るほど、水俣病とまるできょうだいのようなこの事件を、このまま放っておくことができないことを、分かっていただけると思う。