田辺広喜さんインタビュー 鬼塚巌「工場俯瞰図」とともに思い出を語る

田辺広喜(たなべひろき)
1940(昭和15)年。水俣生まれ。1956(昭和31)年チッソ入社。
鬼塚巌さんたちとともに8ミリ撮影隊「グループ8」を結成。多くの貴重な映像記録を残す。
現在、千葉在住。

長年千葉にお住まいの田辺さんは5月、水俣のご実家を手放すため「最後の帰水」をされました。考証館にお連れすると、鬼塚巌さんの「工場俯瞰図」に長い時間足が止まり、工員時代の出来事、馴染み深い街や親しかった人たちをめぐり思い出話があふれました。


鬼塚さんは感心ですよね。ほんとに緻密に描いている。これを見ていると工場にいたときのことが彷彿としてきますよ。
私は小・中学校はそれぞれ第二でした。その辺は「田圃」って書いてるど、ほんとに田んぼばっかりでしたよ。
(工場内の図をのぞき込み)ここに「男湯」って書いてますよね。父はチッソで硫安を作っていた工員でした。社員の家族はチッソの風呂の切符がもらえました。そのころ工場には入れたんです。
「硫安工場」。ここにあった冷却器のパイプの周りには、結露して氷が出来ていて、父はよくそれを割って食べさせてくれたのを思い出します。
二小にいた頃はよく工場で爆発があったのを覚えています。校庭の前には線路が引いてあって、街のほうまで延びていたんですよ。沼地でしたから埋め立てる残渣を運ぶためのものだったんでしょうね。でも爆発のあとはトロッコに負傷者が積まれてごろごろと走って行くのが見えました。附属病院まで運ぶんです。
沼地の残渣のなかには金物も混じっていて、よく拾いに行きました。売るんですよ。昭和二〇年代は一回二円から三円になりました。結構な金額です。
中学を卒業してチッソに入社しました。筆記と面接の試験がありましたよ。同級生が何人か入社しました。その年の入社は全部で五〇人でした。一中から来た山下善寛さんも同期ですよ。
たまたま女性が25人。男女半々でした。その頃チッソでは「ミナロン」という商品名の人工繊維を作り始めたんです。それでこの年だけ女性を多く雇用したのだと思います。
景気がよくなり始めた頃でね、私は三年後の景気がどうなるかわからなかったので、今のうちに就職しておいたほうがいいと思って受けました。
裕福な家の子どもは大学にいくし、商店の跡取り息子なんか以外はみんなチッソを受けていましたよ。でもほとんど落ちてます。倍率が十倍くらいあったんじゃないかな。
私は、中卒で入社して、働きながら水俣高校定時制に通いました。山下さんは生徒会長、私は副会長でした。工場では学生服と学帽で働いていましたよ。「合成棟」って書いてあるでしょ、この近くの電気関係の修理をする課に配属されました。いわゆる電気屋です。
入社して三年して漁民闘争がありました。見てましたよ。ガスタンクがある近くでタバコを吸いながら入ってきますから怖かったですよ。僕らのところまで彼らは来ました。でも壊したのは事務所だけでした。熊本に行ったとき、帰りの列車で裁判のあとの彼らと乗り合わせたんですけど、怖かったですよ。こっちがチッソ工員だとバレたらどうしようかと。そのころ水俣病の認識はまったくなかったんです。
4年間、定時制高校に通いながら働くという生活から抜け出し、ようやく自由な時間がとれると思っていたら安賃闘争が始まり、こんどは組合の活動で猛烈に忙しくなりました。
私たちは安賃闘争以前に春闘とか年末の時期に陣内社宅とかの偵察をしてたんです。誰が誰を訪ねてきたとか、どこどこの係長がどこに行ったとか、みんな警戒してたんですよ。組合意識というよりも、そういうのをやってたもんだからみんな組合に集まっていったんですよ。そのせいか同期入社はほとんど二組に行かずに一組に残りました。二組に行きたいとかいう葛藤はまったくありませんでした。ただ最初のうちは差別はまだ全然分からなかったんですよね。あとで二組とは年収がずいぶん違っていましたけどね。私は結婚はずいぶん後だったけど、子どもがいる人たちはほんとによくがんばったと思いますよ。
僕らはたまたま8ミリをやっていたんですよね。地元の祭りなんかを撮っていたんです。でも一九六八年に新潟水俣病の人たちが水俣に来て、こうこうこういう事情だということを聞いて撮り始めて、ようやく初めて事態を認識し始めたんです。
8ミリを撮るメンバーは「グループ8(エイト)」として活動し始めました。鬼塚巌さんや緒方政美さん、私と、糸田憲夫さん、あと2~3人いました。グループで撮るフィルム代はみんなで、組合で撮る場合は組合で出しました。
鬼塚さんも元々趣味で子どもたちを撮っていました。でも最初に劇症型患者にカメラを向けたのは彼でした。私はとてもじゃないけどできませんでした。その点鬼塚さんは肝が座っていましたね。
水俣病というと、僕の祖父が昭和30年に亡くなっているんですよ。今思うと劇症型ですね。魚はもっぱら行商人から買うのですが、最後はうちの前に行商人が店を作ってそこで売りはじめたんですよ。うちは親が天草ですから、魚は好きで毎日食べていました。
ストライキのあと、私は珍しく原職復帰しました。第一組合はほとんどあちこちに飛ばされたでしょ。飛ばされるとばかり思っていたのに、チッソは私をなめてるなと思いました(笑)。でもカーバイト製造に移されました。そこでは石炭と石灰を電気炉にいれて、長い鉄のショベルでかきまぜ、そこに電極を入れるんです。すると下から溶けたものが一トン出てきます。それを一時間に一回、五右衛門風呂のようなものに入れて自然冷却します。それを砕いてアセチレンを発生させ、アセトアルデヒド棟に運んでいきます。すごい臭いでした。
数年後、千葉の野田工場に転勤しました。野田では石牟礼智さんと社宅がお隣同士でしたよ。野田工場が三菱マテリアルに売却されるとき、協定で希望者はチッソが引き取ることになっていました。わたしは水俣工場に帰れる可能性に賭けてチッソを選びました。けれど五井工場に移され、けっきょく定年までそこで働きました。あのときチッソを希望したのは私だけだったと聞いています。

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