西川登さんインタビュー2

葛西伸夫

約束の時間に西川さんの家をたずねると、机の上には何冊ものノートやアルバム、地球儀が用意されていました。

葛西 きょうは先日聞けなかった戦争の話と、天文の話を聞きに来ました。
ラバウルのことを調べてきました。恥ずかしい話、場所をきちんと知りません
でした。パプアニューギニアの東方にある島の一部だったんですね。

西川 はい、ニューブリテン島といって九州くらいの面積の島です。日本人がいたのは熊本県くらいの面積で、約九万人の陸海軍がいました。

葛西 きょうも年表を持ってきました。一九四三(昭和一八)年、小倉の兵学校を出たあと熊本十三連隊に配属されるんですね。

西川 はい。配属からひと月ほどした十一月二八日、熊本を出発。命令は前日いきなりでした。戦地ラバウルに行くことになりました。家に電報を打ちました。
「二八 ヒ アサハヤクコイ ノボル」
私は歩兵第一三連隊補充隊歩兵砲中隊として。部隊はぜんぶで五百人。熊本駅から門司に出発しました。駅前は五キロほど見送りの人が並びました。兵隊の名前が書いてある提灯や天旗がいっぱい。二万人くらいいたでしょう。一一月三〇日門司港を出発。四千トンの輸送船五隻。一隻に五百人が乗り、残りの四隻に食料とか弾薬を積みました。船内は一メートルずつ縦に三段仕切ってあって、床から船上まで内側に網がたくさん張ってあった。やられた場合すぐに網を這い上がって外に出られるようになっていました。はしごじゃ足りないから。便所は船の舳先に板でつくってあり、海に落としました。船室はゴザ一枚に七人寝るようになっていました。南の方に行って暖かくなるといろんなところで寝られました。門司から豊後水道を抜け、日本近海を通って東京湾近くまで行き、それから伊豆諸島からマリアナ諸島に沿って南下しました。攻撃された場合、近くの島に助けを求めるためです。ずっと日本領でしたから。しばらくは日本の飛行機が偵察し
てくれました。魚雷を避けるため千鳥足で航行し、一〇日間も船に乗っていました。ヤシの木がたくさん見えてきて、着いたのかと思ったら小笠原でした。
パラオで一週間待機しました。立派な日本人町がありました。救命用の浮きとして孟宗竹を沢山積みました。全員に救命具が配られました。一週間くらいしたら米軍の飛行機が船団の上を飛んでいました。攻撃はされませんでしたが、ありゃこりゃ戦地じゃなぁと思いました。私たちより三ヶ月前に向かった部隊は途中で潜水艦に撃沈され、千人のうち三七〇名しか助かっていませんでした。
一九四四(昭和一九)年一月五日ラバウル港に入港。既に軍艦が二隻、潜水艦が五隻いました。入港したとたんに米軍機が空爆してきました。潜水艦はすぐに潜りました。
それからは毎日のように午前一〇時と午後二時に飛行機が爆撃や機銃掃射をしてきました。二月までは日本の零戦が来て空中戦がありました。
上官将校が私たちの部隊が行く予定だったブーゲンビル島に行くとき、暗号が解読されたのでしょう、上陸時の空襲で戦死、潜水艦もろとも沈没したそうです。私たちは計画を変更し、赤根岬付近の防衛作戦に参加しました。道路工事、電話線の工事などもしました。
一九四五(昭和二〇)年五月ころ、歩兵第五三連隊に編入しました。やがて食料がなくなるというので自給をするように命令されました。負けた後のことも考えていたんでしょうな。終戦のときも、軍隊の編成は解くなと言われていました。
雑木林を切り倒し、焼畑をして開墾しました。
八月一六日、終戦の知らせがきたときは、ほっとしました。日本軍は武装解除させられましたが、捕虜にはなりませんでした。豪州軍(オーストラリア軍)の貨物運搬、兵曹運搬などの仕事をしました。合間に煙草を吸おうとすると火をつけ
てくれた豪州兵もいました。彼らとの諍いはありませんでした。
食料の自給自足は続きました。食料の無いところから少しずつ帰還するということだったんでえらい時間がかかるだろうなと思っていました。

葛西 どんなものを食べたんですか。

西川 甘藷(さつまいも)やタピオカを作りました。タピオカは収穫量が多いんです。やがて陸稲、バナナ、パパイア、たけのこ、さといも、生姜、ゴーヤ、こしょう、日本から持ってきたなすやきゅうりも作りました。たばこも吸いたい
ので栽培しました。塩は海岸でドラム缶で海水を煮詰めて作りました。煙
がみられたら爆撃されるので、煙道を長くしました。ドラム缶ひとつで二
升五合の塩ができます。食用油は椰子の実の内側を削って煮て絞って油を採りました。圧搾機は私が作りました。芋に油を付けて食べるとうまかったです。他には、長さ一・五メートル、重さ八キロくらいの青いトカゲ。長さ二メートル・重さ十五キロくらいの黒いトカゲ。海岸にうようよしているんです。七〇センチくらいの黒トカゲはおいしかった。それと、がまがえる。一メートルくらい地面を掘ると虫を食べようとして落ちて、上がってこられない。それをとって煮て食べました。二匹もたべると腹いっぱいになって、ごちそうでした。おいしかよ。幅が七〇センチくらいはある大コウモリはだいぶ鉄砲で落としたけど臭くて食べられなかったので原住民にあげました。野生の鶏、野生化した豚。魚はダイナマイトで気絶させてとりました。最初は大きいものがとれたんですが、だんだんいなくなりました。それと大へび。全長一・五メートル胴回り八センチのを夜
に鉄砲でとったけど、肉は飯盒に半分くらいしかなかった。汁に混ぜて食べました。骨は塩つけて食べました。

葛西 ラバウルの現地の人はどんな暮らしでしたか。

西川 男性は耳に穴をあけて長く垂らして、長さ二メートルくらいの木の槍を持っていて、下は腰巻き足は裸足。女性は黒の腰巻き、半袖上衣でした。髪はちぢれ毛で男女ともおんなじです。家は三メートル角で木造、屋根壁ともに茅でできていました。

葛西 豪州軍の仕事は辛かったですか。

西川 豪州軍の仕事は一部行ったけど、私たちは相撲大会や演芸会を行ったりして楽しんでいました。それと映画上映会。上原謙が出ていたよ。一九四六(昭和二一)年三月二一日、私たちは五〇〇名で輸送船で日本に出発しました。
出帆のあと汽笛が長く鳴り渡り、水葬が行われました。病気でしょうな。もうちょっと生きていれば家族が待っているとそのとき思いました。
四月二日、神奈川の浦賀に着き、汽車に乗りました。浦賀も大阪も焼け野原でした。水俣に着いたのは四日。家族はみんな元気でした。

葛西 戦後、ラバウルで一緒だった人と会いましたか。

西川 熊本のお寺のお坊さんだった兵隊が遅れて引き上げてきたというので会いました。お坊さんだったので、絞首刑の立ち会いをさせられていたそうです。豪州軍の刑務所には第六師団長はじめ偉い人ばかりいたそうです。「百人斬りの大
佐」といって有名なひとの死刑にも立ち会い、形見を預かってきたそうです。

葛西 ラバウルでもあったのですか。

西川 「百人斬り」は中国で、その後南方に来ていたんです。

葛西 そうでしたか。ほかにはお会いしましたか。

西川 私たちの第一三連隊は三千人いたのが、終戦時は三八名でした。あとは戦死です。

葛西 そうなんですか……。最後に愕然とさせられました。やはり悲惨な戦場だったんですね。きょうは貴重なお話、どうもありがとうございました。

西川さんの最大の趣味【天体観測】
西川さんはチッソ在職中に建築の技術を活かし、自宅の屋根に天文台を作りま
した。レンズ以外はすべて西川さんの設計・制作です。
チッソを五四歳で退職してからは昼と夜がひっくり返るような観測の日々。西
川さんが追いかけたのは彗星でした。
二〇年にわたる約三千二十四時間の観測の末、ついに一九八七(昭和六二)年、
新しい彗星を発見しました。西の山際に近い夜空(うお座付近)に、いつもとち
がう星像を確認しました。証拠を残すためにすぐに東京天文台に電報を打ち、そ
れから電話をしたそうです。やがて第一発見者と認められました。
時間差で三人の日本人が発見していましたが、発見した順に「西川|高見沢|
多胡彗星」と命名されました。前年にハレー彗星接近による彗星ブームがおこっ
ていたため話題になりました。次に地球に接近するのは西暦四九六六年です。

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