西川登さんインタビュー

1921(大正10)年 水俣市深川生まれ 7人兄妹の三男。
1938(昭和13)年 日本窒素肥料株式会社に入社
1942(昭和17)年3月 徴兵 小倉教育隊に入隊
1943(昭和18)年11月 歩兵第13連隊要員として出兵
1946(昭和21)年4月20日 浦賀に帰還
1946(昭和21)年8月 日本窒素肥料株式会社に再就職
1975(昭和50)年 退職

久木野川(水俣川の上流)沿いの道を車で10分ほど遡っていくと深川という山に挟まれた集落があります。細い路地を分け入っていくと、やぐらで持ち上げられた風変わりな小屋が見えます。それは私設の天文台。九州で最初の彗星発見者だという西川登さんのご自宅です。戦前~戦後にわたりチッソに勤めていらしたということで、お話をうかがいに行きました。

葛西 今回はお話をうかがうにあたって、1900年から116年分の長い年表を作ってきました。元号と西川さんのお歳も並べています。大正10年のお生まれですね。家業は何をされていたのですか。

西川 はい。七人きょうだいの三男です。家は百姓です。石屋もやっていました。百姓土方です。

葛西 西川さんは、岡本達明さんの『水俣の民衆史 第三巻 村の崩壊』に登場しますね。インタビューだけでなく、地元深川の調査取材までされています。数年間かかったと書いてますが、大変な調査ですね。興味深いのは、深川には小作農家がいなかった、ということです。地主に取られなかったそうですね。

西川 騙されなかったんですね。農地を売らなかった。よそはみんな、ちょっとでも借金でもするとすぐに土地を抵当に取られています。この集落は一生懸命我慢したんでしょうね。

葛西 それと面白かったのは、牛や馬のお葬式も出したという話です。

西川 はい、出しました。みんなでその家にお悔やみに行ったんですよ。香典持って。牛一頭が米の二十俵くらいの価値でした。牛馬がないと仕事になりませんからね。牛の肉も食べませんでした。

葛西 西川さんが子供の頃までそうだったんですね。

西川 終戦後でも死んだらお悔やみに行きましたよ。牛は百円~二百円くらいだった。百円札は自動車と牛が売れたときしか見ることがありませんでした。

葛西 そのうち牛馬が自動車とか機械に代わっていくのですね。

西川 昭和の三十何年まで牛も売ったなぁ。馬も。だいたい牛のほうが多かった。馬は運動しないとだめになってしまう。それと馬は明治以降は軍馬として重用されましたから。

葛西 ところで深川の小学校では男子のほうが多かったと書いていますが、女子はなかなか行かなかったんですね。

西川 そうでした。家の仕事とか子守をさせられていました。

葛西 先生が来させるのに苦労したようですね。

工場で働き始める

葛西 1938(昭和13)年、十七歳でチッソの前身、日本窒素肥料株式会社に就職されましたね。高校は水俣ですか?

西川 1935(昭和10)年に(水俣)実務学校に入りました。三年生になった頃満州事変があり戦争が始まって景気が良くなってきました。それで人材募集があったんです。

葛西 その頃までは昭和恐慌ですもんね。

西川 はい。何百人と解雇されました。「ボーイ」(職工幹部候補生)といって毎年10人から20人しか採らなくなった。一番優秀な人しか。

葛西 鏡工場も閉鎖しましたね。一方で昭和2年には朝鮮工場が作られはじめましたね。

西川 昭和5年ころから水俣からはだいぶ朝鮮に行ってますよ。セメント工場を作りに行きました。チッソは全部じぶんのところで作るんです。水俣から2~300人行きました。深川からも3人ばかり行きましたよ。若い人が夫婦で行きました。

葛西 西川さんがチッソに入るときは、ほかにも選択肢はあったのですか?

西川 なかったなぁ。

葛西 入社試験もあったんですか?

西川 はい。あんまり通らんかったよ。

葛西 入社してから、建築現場にいたそうですね。どういったものを作っていたんですか。

西川 事務所とか、建物。私は鉄骨(工事)もあとで何でも勉強したんです。戦争から帰ってからは工場の増設の現場監督になった。

葛西 実務学校では専門的な勉強をされたんですか。

西川 はい。建築の勉強をしました。それと商業。

葛西 南福寺にあったその後の水俣高校ですね。深川から山野線で通っていたんですか。

西川 久木野なんかからそうやって来る人もいましたよ。私は歩いて行きました。七時出勤だったので冬なんかは真っ暗でした。八時になったのは戦後に組合ができてからですよ。終業は3時45分。帰宅してから百姓するひともいました。工場は給料が安かったんです。私は夜七時ころまで残業してました。給料が上がるんで。残業が無いのは日曜日くらいでしたね。

葛西 景気も良くなってきていたんですね。

西川 はい、戦争で。

葛西 女の人も工場で働いていましたか。

西川 酢酸のところは三〇人くらい働いていました。事務所では事務仕事をしている女性が何人かいました。設計図の複写なんかもやっていましたよ、青焼きとかで。

葛西 戦前、朝鮮人の方はいましたか。

西川 私のいた頃はいなかった。

葛西 工場内で事故などはありましたか?

西川 そりゃもうありました。爆発なんかちょいちょいありましたよ。戦前から会社は病院の保険なんかもつくりましたよ。

葛西 野口遵さんとか橋本彦七さんとか、いましたか。

西川 野口さんは見たことないなぁ。橋本さんは戦前から知っていますよ。彼は自分で計算して、酢酸工場作りましたからね。戦後は技術的なことで私のところに相談に来たこともあります。

葛西 戦前は娯楽とか楽しみはありましたか?

西川 野球。チームも作りました。あと、演芸会とかいろいろやりました。

葛西 天文はそのころから好きだったんですか。

西川 はい。昭和13年から『子供の科学』を買ってました。それと写真なんかもよく撮りました。写真を撮っていた人はいたけど、現像までやってたのは何百人に一人だったですよ。

葛西 やってたんですか、すごいですね。根っから技術系の仕事がお好きなんですね。絵も素晴らしいのをお描きになるし。

西川 時計なんかの修理もぜんぶ自分でやっていました。

昭和天皇

葛西 時代が少し遡りますが、1931(昭和6)年に天皇が水俣工場に来ました。その時の写真がこれですね。

西川 これは工場の中の御便殿(ルビ:ごべんでん)ですね。休憩所や便所が作ってあります。五〇坪くらいの建物で、天皇陛下のために作りました。終戦後壊してしまって今はもうありませんけど。この辺りには電柱が立ち並び、電線が張られていたけど、天皇陛下が来るときだけ、電柱は撤去し、電線は地下に埋設したらしいです。またあとで戻したそうですけど(笑)。

葛西 このときはご覧になったんですか。

西川 はい、10歳のときですね。学校が休みになって駅前に見に行きました。天皇陛下は水俣駅で降りてきて、駅前で自動車に乗って会社に入って行きました。護衛の人がたくさん付いていてどれが天皇陛下だか分かりにくかったけど、私は分かりましたよ。

天皇陛下がその日に来るというのは前から聞いていたので水俣じゅうから人が集まりました。ちょっとまずそうな人はみんな島(恋路島)に連れて行かれましたよ。

葛西 石牟礼道子さんの本にもその話がよく出てきますね。1949(昭和24)年に天皇は全国巡幸で再び水俣に来ましたね。そのときもご覧になりましたか。

西川 町を少し歩いてから工場内を見て回りましたね。私は現場監督をやっていたので、工場内で見ていました。

幅員、そして再就職

葛西 1942(昭和17)年に21歳で戦争に行かれますよね。このときは志願兵として行かれたんですか、招集ですか。

西川 そのころは二〇歳で兵役なんですよ。水俣で徴兵検査を受けました。水俣の公会堂でした。2~300人は一緒に受けたと思います。私は甲種合格でした。合格して熊本市にある一三連隊に行きました。ただ、このままだと5年は帰ってこられないと思い、また、使われるより兵隊を使う方になりたいと思って、小倉の兵隊の学校(小倉教育隊)に一年間行きました。1942 (昭和18)年の10月31日に熊本に帰ってきました。それから熊本一三連隊として戦地に行くことになった。もう招集兵ばかりで、みんな28~30歳くらいだった。若もんはいませんでした。自分は20人くらいの班長でした。将校は三〇人ばかりいましたが、半分くらいは大学出で私と同年でした。

葛西 それから南方で大変な経験をされるんですが、その話は次回まとめて聞かせてください。

日本に帰って来られたのは1946(昭和21)年ですよね。

西川 4月の6日に帰ってきました。

葛西 またチッソに再就職されたんですよね。

西川 はい8月。

葛西 空襲を受けた水俣の街はどんな感じでしたか。工場は既に生産を始めてましたか。

西川 始めてましたが、屋根がどこにもありませんでした。機械のところだけ家を作って運転していた。

葛西 雨ざらし?

西川 そうです。工場以外のところも街じゅう空襲にあいました。深川でも機銃掃射で人が死んでます。となりの娘さんも怪我してます。落ちていた弾を拾ってわたし持っています。(写真あり)

葛西 こんな弾が降ってきたらたまりませんね。

工場は朝鮮工場から戻ってきた人がたくさんいましたか?

西川 まだその時点ではそんなにたくさんいませんでした。

葛西 戦後も工場の建築現場につかれたんですか?

西川 そうです。一年経ってからは現場監督をしました。

葛西 どんなものを作りました?

西川 硫酸のプラントの建物を鉄骨で作りました。肥料を製造する工場、塩ビもやりました。アセトアルデヒドのプラントは最後にちょっと関わりました。設計は専門の人間が行い、建築は下請けです。

葛西 大勢の大工をまとめる大変な仕事ですね。

西川 ええ。三〇〇人くらいを一人でやってましたよ。田舎者もいるし気性の荒い人も多いし、大変でしたよ。

葛西 戦後も怪我とか事故とかありましたか?

西川 事故はよく起こりました。爆発では二〇メートルくらいきのこ雲が上がりましたよ。ガスをつかうプラントでは一気に5人死んだことがありました。

葛西 八幡プールの工事もされたそうですね。

西川 はい、現場監督をやりました。(戦前からあった)堤防の上に、天草から採ってきた石を積んでもういっちょ堤防を4メートルくらい盛りました。その(プールの)中にどんどん排水を流していきました。排水は溜まるから海に流れていかないと言われましたけど、だいたいそれが嘘だった。堤防から滲みて海に出ていったんでしょうな。石灰分は真ん中に溜まって沈殿しましたけど。カーバイド残渣はトロッコで運び込んでいました。排水口を(百間から八幡プールに)変更するための工事もしました。工場からずーっと掘ってパイプを埋めました。六~七〇センチくらいのコンクリ製の土管です。1000m以上あったでしょうね。パイプが破れて自転車屋さんあたりの道が排水だらけになったこともあります。

葛西 漁民闘争は覚えてますか?

西川 はい。会社の中から見ていました。大勢が丸太をもって振り回していました。警察の装甲車みたいなやつをひっくり返して排水溝(工場内)に落とそうとしているのも見ました。素手で持ち上げようとしていたので、とうとうひっくり返せなかったけど。事務所のガラスは全部破ってました。

葛西 その後、安賃闘争ですね。

西川 はい、労働争議ですね。第一だったんで、道路工事とか、ほかのこと(雑役)もちっとはさせられたんですよ。

葛西 第一組合で岡本さんと知り合ったんですね。

西川 はい。友だったんですよ、今でもです。『水俣の民衆史』は私の運転でいっしょに録音機持って聞き取りに出かけましたよ。好かれないと、やまかしいと怒る人もいました(笑)。いまでもあの本は売れているそうですよ。歴史というのは上の偉い人のことばっかり書いていて、下の人の歴史というのはふつう書かれないでしょう。どこそこへ子守に行ったとか。古典ではあったけど。

葛西 はい、本当に貴重な記録だと思います。

きょうはありがとうございました。次回は、今日聞けなかった戦争の話と、それから天文の話を聞かせてください。

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