患者相談雑感

水俣病センター相思社職員 永野三智

三月二〇日 海岸部に住む方から相談があった。昨年末以来、何度も電話をもらっている。
四十年前に漁業の夫に嫁いだ。夫の両親は水俣病として認定された。夫と自分は棄却され、一九九五年に「私たちの水俣病は終わり」との思いで政治決着の対象となり医療手帳を手にした。直後、夫が身体を壊した。息子は身体が弱く仕事は続かず、自分も身体が弱っていく中なんとか働いたが、ここにきて仕事ができなくなった。
息子が糖尿病を患ったのは、自分の味覚障害のせいと信じている。息子には幼い頃から水俣病特有の症状があるが対象年齢より若く認定されることはない。息子は身体の弱いこと、働けないことのキツさを母にぶつける。「蹴られた背中が痛くて、、、痛くて」。
一見すると水俣病とは関係のない話も沢山あった。四十五分話しを聞いて、また明日、と電話を切った。一回の電話は最高三〇分と決めているが守れなかった。
今日のように水俣病と関係のない話が飛び出すこともままある。数十年続く夫からのDV、昔に受けた性的虐待、躁うつの夫の対応、寝たきりの両親の介護、認知症、ひきこもりの子ども、生活困窮。

四月一三日 今日は近所の老夫婦のところへ行き、息子さんのものの片付けを手伝う。家庭にはこの七年、定期的に通っている。同居の胎児性水俣病患者の息子さんと、最初は話すこともままならなかったが、いまは毎日少し話をしたり、手紙をくれる。
人にとってはゴミにも見えるものが、この息子さんにとっての宝物だ。でもおかげで部屋は片付かない。息子さんは、宝物を親にもヘルパーさんにも触れさせない。「どうにか説得してくれ」、と頼まれたのが去年の春のことだった。
その後、息子さんと宝物の扱いについて相談を重ねた。訴えを聞いていくと、一つひとつに誇りや思い出や心が詰まっていて、涙がほろり、ほろり。
でもこの宝物、「日々増える」もの。このままじゃ床が抜けるかもしれない…。年末になり、「年明けに作業に取り掛かろう」という結論を見い出せた。会員の高坂さんに「こんまりさんの片付け術がいい」と教えてもらい、正月休みに私も勉強をした。が、恐らく全てに「ときめく」だろう息子さん。
年が明け、息子さんの周りにバリアのようにして置いてある宝物を厳選し手渡してもらい、少しずつ運び出した。
ものが無くなると、息子さんとみんなの物理的距離は近くなり、それが心の距離のようにも思えた。
三月、お母さんが入院した。そのことでご本人も不安定になり作業は途絶えた。日常が戻ってくるまでにまた話し合いを重ね、ようやく先日片付けをしようとの結論が出たところ。宝物はまた貯まっている。一歩進んで二歩下がる。そんな日常を、楽しんでいこうと思う。

水俣病と他の相談はきれいには分けられない。そしてどこかの機関を紹介したり、一緒に足を運んだりする必要も、時にはある。繋がりあって、分けず、切らず、包括的に問題を受け止められるような、そんな場所になっていきたい。
と思いながら、そうなると時間も労力もお金もかかる。運営を考え始めたいま、そのバランスがとても難しい。けれど「相思社は何のためにできたの?何のためにあるの?」という問いを常に持ち、患者相談の間口はいつでも開けていたい。

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