永野三智
朝の九時。携帯電話が鳴りました。〇五の番号の着信で、東海地域にお住まいの方。小さい頃からスポーツ万能。運動神経は学年でも学校でも常にトップクラスでしたが、中学生の頃、マラソン大会で途中まで、ダントツの一番だったのに、突然足がつりそうになって立ち止まり、また走って立ち止まり。結局それを繰り返し二位になったことの悔しさを語ります。それ以降、足がつるようになりました。物心ついた頃からある耳鳴り、身体の痛みやしびれに常に悩まされ。それから東海地域に出ていったけど、体調は悪化、大好きなマラソンやスポーツを、したいけれどもできない。運動が好きだから、悔しい、悔しいんですよ。と言われます。
今日の九州内からのご相談の方は、お電話でお連れ合いのこと。妻は不知火海の海っぷちで生まれ魚をたくさん食べた。魚は自分たちでとりに行けたし、親戚からもらうことも多かった。足がつる、頭痛、めまい、皿や茶碗をすぐ落とす、何もないところで転ぶ、耳が聞こえづらい、身体の痛みや感覚の鈍さ、しびれにふるえ。実家は水俣病の話なんてできない家だから、もしかして、なんて思っても聞けなかった。それでもいよいよ妻の具合が悪くなって、彼女の兄弟に相談したら、なんとみんなみんな、水俣病の申請をして十年も前に手帳をもらっていた。私たちは最近まで関東にいたから、何の情報もなくて、どうしてこんなに身体が悪いんかと思っても、誰も水俣病の情報なんてよこさなかった。ようやく三年前に認定申請させたけど、兄弟は三ヶ月や四ヶ月で結果が出たと言うのに、妻にはまだ結果が来ない、こんなに歳をとってしまって、もうお迎えが来てしまう。どうか自分が生きているうちに、妻を何とかしてやってほしい。
話を聞きながら、途中食事の話になりました。「味がわかりづらいということはありますか」と尋ねると、「妻は若い頃に料理教室に熱心に通いましたからね。味覚でというより分量で料理をしています」と答えます。「でも私は若い頃から辛党でね。妻が作った料理に唐辛子や胡椒や塩をたくさんかけて食べないと、なんだか食べた気がしないんですよ」と言う、その言葉が気になりました。あなたはどこで生まれたのか、私はあなたのことが心配ですと伝えると、「私は妻の同級生で、同じ場所で生まれ育っています」と言われ驚きました。症状を聞いていくと、同じく辛い症状があります。「ではなぜあなたは申請をしようとはなさらないんですか」と尋ねると、「この家からふたりも患者を出すわけにはいかんでしょう」と言います。そんなの四十年前の水俣病のドキュメンタリー映画の中のお話だと思っていました。夫の話は続きます。「私は精神は強いと思っています。今は●●の会の責任者をしているから、水俣病になるわけにはいかんのですよ。それに二人暮らしでしょう。私がしっかりしておらないと。だから、どうか、妻だけでも、認定してやりたいんですよ」。
お二人のお話を聞き終えてすぐ、知人からの電話で、知り合いが亡くなったことを知らされました。去年ともに水俣で過ごし、何かがあるときにも無いときにもメールをくれ、東京に行くと講演会の設定を応援してくれ。相思社の会員さんにもなってくれて、いつもありがとうございますの気持ちを込めて、お茶とお手紙を送った矢先。悲しい、悲しい訃報でした。
その後十一時から、京都大学の方々へ、私の伝えたい水俣病と、患者の方たちのお話をしました。
本当に、一日、色んなことがありました。午前中の内に、何度も「生きる」を考えました。
どうか、電話をくれた患者さんたちの一日が、少しでも安らかなものでありますように。亡くなられたあの方が、安らかに眠られますように。そして、患者さんたちのお話はあなたが聞くけれど、あなたのお話は誰が聞くの?あなたの話を聞いてくれる人が必要、とあたたかい心を寄せてくれた京都大学院生の彼女の心にありがとう。
今日は未認定患者がやってきて、その後胎児性水俣病患者のAさんの施設へ行って、お話をする。お話と言っても彼女はしゃべらない。大きなジェスチャーと表情と、そして時々言葉にならない声を発する。その様子で、誰の目にも明らかに、彼女の言わんとすることは分かると思っていた。彼女がトイレに行っているあいだ、一緒に居た方に「彼女のIQはいくつですか?」「彼女はあなたの話が分かるの?」「どうしてあなたには彼女の話が分かるの」と尋ねられた。彼女のIQなんて、考えたことなかった。瞬間的に目眩がする。一瞬だけ、大切な人のことをおとしめられたような気持ちになったけど、でもその人が彼女に接したことがないとか「知らない」ことで湧く単純な疑問でもあるのかもしれない。とても好奇心旺盛な人だったから。「IQがいくつであったとしても、人間は人との関わりや経験によっていかようにも変化していくと思います」などと説明をしながら、それが自分のなかでも釈然としない内に、そしてAさんの納得のいく答えになったのかも分からないままに彼女の施設を出た。その後に会いたい人に会って、聞きたかった知りたかった知的障害者サッカーの話を聞くと、あの目眩を思い出す。わたしに彼女のIQを尋ねたあの人とわたしは同じだと思った。私は知的障害者のことを何も知らない。胸が詰まった。
どうか、この時間の中にある大切な言葉や気付きや、そして胸の苦しさが、すべてすべて私の頭と心と体に残り、日々の暮らしと活動に活かされますように。