溝口秋生さんさようなら

葛西伸夫

溝口秋生さんが2017年9月12日の未明、亡くなってしまいました。40年ちかく母親の水俣病認定について闘い続け、2013年最高裁で勝訴し認定を勝ち取った溝口さん。85歳でした。
私は水俣に移住してからのおよそ7年間、溝口さんとはごく自然にお付き合いをさせていただきました。
かつて南袋のご自宅に伺うと、掘りごたつに溝口さんがおばちゃん(奥さん)と息子の知宏さんと3人でテレビを見て団欒らんしていました。そんな幸せそうな日常風景を思い出します。おばちゃんはコロコロと笑い声を立てる明るい方で、いかにも溝口さんと相性が良さそうでした。
7時には就寝するという溝口さんは、よく夕方に伺うとすでに晩酌を始めていました。焼酎を毎晩一合と決め、量って呑んでいました。晩酌の終盤戦あたりでは大変ごきげんな溝口さんと会えました。おいしいお酒だったのだと思います。そんなお酒を医者に言われてやめたのが14年頃だったと思います。少し寂しそうでした。
ご自宅は築100年を超える民家で、いにしえの農機具がたくさんありました。アイガモ農法のアイガモを遠く鹿児島から仕入れてきたといっては自慢げに見せてくださいました。そんな道具やカモに囲まれているときがいちばん幸せそうでした。農業が大好きだったんです。それと読書も本当に好きでした。入院中のベッドの脇にはいつも枕より高く本が積まれていました。水俣病関連の本、石牟礼道子さんの本。新聞も購読されていたようです。
大好きな農業も出来ず、入院生活は辛かっただろうと思いますが、それでもおもてに一切出さず、面会に訪れる私たちをいつも笑顔で迎えてくれました。溝口さんは本当に身の辛さや不幸をおもてに出さない人でした。話を聞いていると、これまで普通の人じゃ耐えられそうにない不運や憂き目にお遭いになっているのですが、そんなことに人生を引きずられず、飄々と流してこられた(ように見える)のです。でも、一方で水俣病問題のような正統な怒りはきちんと表明し、ブレず、決してあきらめない。平和主義や反原発もスタイルが一緒でした。肩の力が抜けた頑固。これが長い長い闘いを征した秘訣だったのかもしれません。
そういえば溝口さんの涙を私は見たことがありません。最高裁判決のときさえ泣いていませんでした。相思社の永野は溝口さんを「仙人」と形容しています。たしかに、世俗的な感情から超越しているような人でした。そんな溝口さん、飄々と逝ってしまわれました。世間は「85歳、老衰」ということで収まりをつけてしまいますが、私は水俣での大切な人が欠けてしまった寂しさを収めるところがありません。溝口秋生さんいままでありがとうさようなら。
ごんずい147 号は「追悼 溝口秋生さん」と題し、様々な方に文章を寄せていただきました。わずかな紙面でとても追悼し尽くせないのですが、これをひとつの思い出にしていただければ幸いです。

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