相思社の設立
1969(昭 和44)年、水俣病訴訟(第一次訴訟)が提訴されました。1972年には原告患者側勝訴の見通しがつくようになってきました。そのころ から患者たちは判決後のことを考えるようになってきました。水俣病患者とくに訴訟派、自主交渉派患者は地域の中で孤立するしかありませんでした。「地域の 中でいかに生きるか」ということが患者たちの中で大きなものになってきました。また、若い患者、特に胎児性患者の将来が心配でもありました。そういった中 で「患者・家族の拠り所」を作りたいという機運が生まれてきました。
1972年6月に、ストックホルムで第1回「国連人間環境会議」が開催されました。そこに参加した患者たちは「水俣アピール」を読み上げました。そこには「水俣病センター」の設立が呼びかけられていました。
1972年10月には、「水俣病センター(仮称)を作るために」が発表され、センターの果たすべき機能や役割が記されていました。その機能、役割とは次のようなものでした。
1、患者の拠り所となり、闘いの根拠地ともなる。そして「もうひとつのこの世」をつくる場所として
2、潜在患者を発掘し、患者の側に立った医療機関の設立を目指す
3、水俣病資料センターの機能を持つ
4、若い患者のための共同作業所を持つ
「水俣病センター」の設立のためのカンパを全国に呼びかけられました。全国から3,300万円の寄付が寄せられました。そして、水俣病の多発地のすぐ近くの小高い丘に約1,000坪の土地を買い求め、センターの建設に着手しました。
1974(昭和49)年4月、水俣病センターは落成し、「相思社」(互いに思い合う)と名付けられ、活動を開始しました。
その後の活動
相 思社は、未認定患者運動の拠点として様々な活動を行ってきました。患者団体の事務局として、総申請運動、検診拒否運動、棄却取消訴訟、待たせ陳 訴訟、不作為違法確認訴訟、暴圧裁判、ニセ患者発言名誉毀損訴訟、ヘドロ工事差止め仮処分訴訟、川本刑事裁判、原因裁定、チッソ水俣工場前座り込みなど、 常に様々な訴訟や活動の中心となって活動してきました。
患者の側に立つ医療機関もはり・きゅう・マッサージ治療を行う「出月養生所」 を設立し、医療活動を行ってきました。(出月養生所は1986年に相思 社から独立し、今も水俣市内で治療にあたっています)水俣病被害の情宣や交流の場として、資料室を中心に資料集作成・収集・展示・貸出にあたり、1988 年には「水俣病歴史考証館」を設立しました。カナダインディアンとの交流、住民運動との交流、水俣実践学校、水俣生活学校(1982~92年)などの活動 を通じ、多くの人々と交流を続けています。環境調査や監視活動も行ってきました。水俣湾ヘドロ処理工事の監視をつづけ、水俣湾や不知火海のヘドロや魚介類 を採取し水銀調査もしてきました。患者や不知火海住民の聞き取り調査も行ってきました。若い患者たちとの共同作業場としてキノコ工場も運営していました (1981年に閉鎖)。低農薬有機栽培を支えるための堆肥製造・販売もおこなっていました(1977~90年)。また、水俣病患者たちが栽培する低農薬甘 夏やその他の柑橘類の販売も手がけてきました。
1989年に「甘夏事件」を引きおこし、理事が総辞職を表明するなど、相思社は設立以来最大の危機に直面しました。そして「相思社存続・管理運営検討委員会」を設置し、それまでの活動の総括と新しい活動方針を検討しました。検討委員会の答申「水俣病センター相思社の再生を求めて」が出され、それ以降この答申を指針として再出発しました。規模を縮小し、一方では患者運動を支えながら、水俣病を伝えることを活動の中心据えて活動を続けてきました。
し かし、その後水俣病や相思社を巡る状況は大きく変化しました。相思社は長年チッソや行政と対立してきましたが、その中心的な課題が未認定患者救済 問題でした。1995年の政治解決によって未認定患者の「救済問題」は一応の決着を見ることとなり、それ以降相思社は新しい活動の方向性を見いだす必要が 生まれました。また、財政的にも厳しい状況に直面していたこともあり、2000年に「今後の相思社を考える検討委員会」を設置して、財政面も含めて活動の あり方を検討してきました。2001年5月に「転換期を迎えた相思社の活動のあり方(答申)」が出され、今後相思社はこの答申をもとに活動を開始することになりました。
■ 年 表 ■(太字が相思社の活動)
1908 | 水俣村にチッソ工場建設 | |
1932 | 水俣工場、アセトアルデヒド製造開始(水銀使用) | |
1956 | 水俣病公式確認 | |
1957 | 水俣病患者家庭互助会結成 | |
1959 | 見舞金契約 | |
1968 | 政府、水俣病を正式に公害病と認定 | |
1969 | 水俣病訴訟(第一次訴訟)提訴 | |
1971 | 自主交渉闘争、チッソ本社前座り込み | |
1972 | 原告患者の中に「患者・家族の拠り所を作りたい」との希望が芽生える | |
第1回国連人間環境会議(ストックホルム)で水俣病センターの設立を呼びかける | ||
全国から寄付を募る | ||
1973 | 水俣病第一次訴訟判決。原告勝訴 | |
1974 | 水俣湾に仕切網設置 | |
水俣病センター落成。「相思社」(互いに思い合う)と名付けられる | ||
水俣病認定申請患者協議会結成 | ||
キノコ工場竣工。患者と共同作業開始(~1983年) | ||
水俣湾内水銀ヘドロ、魚介類の採取と水銀分析 | ||
1975 | 熊本県議杉村らの「ニセ患者発言」 | |
カナダインディアン水俣病患者代表団との交流 | ||
1977 | 未認定患者運動の拠点としての活動を開始。様々な訴訟や運動を展開 | |
「水俣実践学校」開始(1週間ほどの夏期セミナー、水俣病学習と交流) | ||
患者らが栽培する低農薬甘夏などの販売を始める | ||
1978 | 新次官通知。チッソ県債発行開始 | |
1979 | 「出月養生所」を設立。はり・きゅう・マッサージ治療を行う(1986年に相思社から独立) | |
1980 | 水俣病第三次訴訟提訴 | |
写真集「水俣 現存する風景」出版(写真 芥川仁) | ||
1982 | 「水俣生活学校」開設(1年間のフリースクール、水俣病と有機農業の学習、~1992年) | |
関西に移住した水俣病患者が関西訴訟を提訴 | ||
1983 | 資料室完成。水俣病関連資料の収集・整理・展示・貸出・資料集作成などを行う | |
1986 | 水俣湾沿岸の生物分布調査を行う | |
公式確認30周年、アジア民衆環境会議開かれる | ||
1987 | 不知火海沿岸の聞き取り調査を行う | |
1988 | 「水俣病歴史考証館」開館 | |
1989 | 甘夏事件で相思社理事総辞職 | |
水俣病患者連合結成 | ||
1990 | 考証館移動展を各地で開催(~1994年) | |
水俣湾公害防止事業(ヘドロの浚渫埋立)終了 | ||
機関誌発行開始 | ||
環境創造みなまた推進事業開始(~1999) | ||
1993 | 「絵で見る水俣病」出版(日本語・英語版) | |
1994 | 水俣の再生を考える市民の集い「そろそろもやい直しばはじめんば」の実行委員会に参加 | |
1995 | 政府、水俣病「最終」解決策を決定 | |
1996 | 公式確認40周年、水俣・東京展開かれる | |
1997 | 水俣湾の仕切網撤去 | |
インターネット・ホームページ開設 | ||
1998 | 「絵で見る水俣病」インドネシア語版・タガログ語版出版 | |
2000 | 政府、国費投入によるチッソ金融支援策を決定 | |
2001 | 水俣病関西訴訟控訴審判決 | |
2001 | 水俣水銀国際会議参加者を対象とした講演会を開催 | |
2002 | ヨハネスブルグ・サミットに参加。水俣病写真展、セミナーなどを開催 | |
2004 | 設立30周年事業、セミナー等の開催、記念誌等の出版 | |
新作能「不知火」の奉納公演が夕刻、恋路島を背景に水俣湾埋立地で行われ、全国から1300人が立会人として参加 | ||
2005 | 相思社理事会において水俣に建設予定の産廃処分場建設反対を決議 | |
新保険手帳が再開され相思社では申請の手伝いをはじめる(最終的には6000人以上の相談者あり) | ||
2006 | 水俣病公式確認50年事業で、パネル展示・水俣の約束・慰霊等の事業に参加 | |
2007 | 相思社機関誌100号発行 | |
2008 | IWD東亜水俣、水俣の産廃処分場計画を撤回する | |
2009 | 水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が成立 | |
2010 | いわゆる水俣病特措法の患者救済策開始(2012年7月まで) | |
水俣病特措法の地域振興策を受けて水俣市に5つの環境モデル都市円卓会議が設置される | ||
2012 | 4月から一般財団法人水俣病センター相思社となる |