新潟水俣病患者初来水

今日は何の日。1968年1月12日。新潟水俣病患者が初めて水俣を訪れた日。
水俣病の公式確認から三年、1959年「見舞金契約」によって水俣病は無きものとされた。
1963年、熊本大学医学部は水俣病の原因を突き止めた。しかし、社会的処理は終わったとされたあとだったため、国がチッソの同業他社、7社8工場について、何ら対策を取ることはなかった。そして1965年、再び新潟で水俣病が起きた。
67年、新潟水俣病患者は原因企業である昭和電工に損害賠償を求めて公害史上初めての裁判を提訴した。それを受けて水俣の患者は新潟に1万円の寄付を送った。68年、新潟の患者たちは水俣の患者からの寄付を使って来水し、「自分たちは絶対に曖昧には解決しない」と言った。水俣の患者たちは、水俣病が終始曖昧にされたことで、新潟水俣病が起きたことに責任を感じざるを得なかった。
次に新潟の患者は「ともに闘おう」と呼びかけた。訴訟中、昭和電工はその原因を否定し続けており、新潟の患者たちは、熊本水俣病患者に助けを求めた。国に自分たちの被害を公害と認めさせるための「公害認定」が必要だったのだ。初めて両方の患者が握手をした瞬間だった。実際にともに戦ったのは、同日に結成された、水俣病対策市民会議のメンバーたちだった。
双方の患者・関係者が声を上げたことによって、科学技術庁は新潟水俣病を、厚生省は水俣病を公害として認定する。ただし通産省の傘下にある科学技術庁は新潟水俣病の原因を曖昧なまま認定したため、水俣の場合とは状況がまったく違い、その後も新潟の患者たちの原因追求の闘いは続いた。
新潟にならって裁判を始めたことで、終わりにさせられていた水俣の運動は再開した。皮肉なことだが、新潟で水俣病が発生しなければ、「水俣病」は1959年には終わらされていた。裁判もなければ、教科書にも載らず、現在の私たちは水俣病を考えることもなかっただろう。社会には、こうして闇に葬られた事件が数多くあるのだと想像する。

国家や企業、多数者や無関心の生んだ同調圧力は、社会の倫理や同義の基準を押し下げて、水俣病を拡大させ、さらに新潟水俣病を生んだ。忘れることは、過ちを繰り返すこと。何度も繰り返し思い出すために、書いておく。

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