水俣病の第一次訴訟提訴から55年が経った今日、原告家族の聞き書き集『豊穣の浜辺から』第六集を相思社のみんなと「アーユス仏教国際協力ネットワーク」の助成で出版しました。こちらからお求めいただけます。
これまで自身と家族の経験を語らなかった、語れなかった、そして、私たちが目を向けてこなかった人たち。
彼女たちの話を文字にする中で、何度も「私は彼女のことをわかっていない」と分かる瞬間がありました。でも彼女たちは辛抱強く、ていねいに伝えつづけてくれて、おかげでいつも心強く臨みました。語らううち、時代や背景が違うけど、私を通してしか伝えられないこともあると思わされました。
樋口恭子さんは87歳。水俣病第一号患者の溝口トヨ子ちゃんの姉で、この15年の間、相思社に通い、水俣病がまだひどく発生する前の美しい水俣の風景、チッソ前にあった女郎屋、妹の発症、東京での暮らし、そして水俣に帰ってきて、第一次訴訟を闘った家族を支えたことを教えてくれました。何度も語るうち、「うったちは何も悪かことはしておらん」と、実名と顔出し出ることにしました。
松山つたえさんと最初に会ったとき、村で最初の水俣病になった家族をヤングケアラーとして介護した経験、周囲の差別、身を潜めるように生きてきたことを何時間も聴きました。最後に彼女が言った「私みたいな子がいたことを、覚えておいて」の言葉が痛かった。この10年、聴いた話を文章にしました。
坂本昭子さん 大学生として水俣病患者と出会った彼女の目を通した水俣病の患者たちは、誰も彼もがユニークで、アクが強く、彩り豊かです。彼女から聞いた話で、私にとっての患者たちがぐっと近くなりました。中でも、彼女の夫である胎児性水俣病の輝喜さんという人を、どれだけ彼女が「理解したい」ともがいたか。最後に輝喜さんの詩を載せるから読んでください。
今回作ったのは『豊穣の浜辺から』第六集だけど、これまで同じシリーズで5集作っています。あと、他にもユニークな本をたくさん作っているのでこちらのサイトからのぞいてみてください。
https://www.soshisha.org/jp/shop/product-category/books/private-publication
以下は、輝喜さんが、母マスヲさんが亡くなられたときに綴った詩です。十九年前にふたりで掲げた襤褸(らんる=ボロ布)の旗とは、第一次訴訟提訴のことと思います。
私にとって輝喜さんは、幼なじみの父さんでした。それから私の最高の理解者だったおばちゃんの夫でした。こどもの頃に入り浸ったその家でときどき会ったおじさんは、確かに苦しんでいました。でもその意味を私は知ろうとしなかったし、目を向けませんでした。
母体内で水銀による被害を受けた輝喜さん。自身の病を、母の愛と祈りの証といった言葉。それは、自分を愛してやまなかった母、罪悪感を抱いたであろう母への力いっぱいの慰めではなかったでしょうか。
この詩を読んで、初めて輝喜さんを想って、喉からおうおうという声が出て、涙が止まらなくなりました。
輝喜さんは2014年に亡くなってしまいました。この二年、聞き書きをする中で、亡くなってからのほうが、ずっと大きくなる存在が、知りたいと思うことが、あるのだと知りました。
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ああ母であり 同志であり
坂本 輝喜
水俣病三十年を共に生きた最も身近な同志(とも)が逝った。同志の名は坂本マスヲ、母である。山間部の大窪から漁村に嫁いできて三十年。それはまさしく水俣病の三十年であった。
おっかさん 俺さ ゆくぞ あの磯辺の道を チッソが右に見え 天草が左に見える あの磯辺の道を あなたの祈りと怒りと愛と涙の跡を 追ってな
おっかさん 俺さゆくぞ あの患者さんの道を 赤子のためにと 魚貝を食べたんだもの 俺の病気は あなたの愛と祈りの証だもの
これをかかえて 俺さゆくぞ あの磯辺の道を 十九年前に二人で掲げた襤褸(らんる)の旗と共にな
安らかに眠って下さいという心と、安らかに眠れる魂よ、怨鬼となりて撃てという心と...。母よ、同志(とも)であった母よ。あなたに導かれて生きた私よ。
魂は今、あなたのためにどう祈っていいのか苦しんでいます。
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※第一次訴訟
1969年に水俣病患者ら28家族112人が原因企業チッソに損害賠償を求め、熊本地裁に提訴。原因物質メチル水銀の副生や被害は予想できなかったと主張するチッソの過失責任の有無が争点となった。判決は、化学工場の廃水には危険な副反応生成物が混入する可能性が大きかったが、チッソは漫然と流したと指摘。過失を認めて賠償を命じた。チッソは控訴せず、判決は確定した。