水俣港から水俣湾対岸の漁村地域を眺望。鉄橋の奥が坪谷漁村。尖っている山は矢筈岳。
「水俣病センター構想」が芽生えたのは、地域で孤立していた一次訴訟の原告たちが判決後に「患者・家族の拠り所を作りたい」との思いからでした。「互いに思い合おう」という意味を込めて「相思社」と名付けられ、1974年に活動を開始して以来、50周年を迎えました。いま改めて水俣病事件が現代に問いかける意味を、これまで相思社や水俣に様々な形で関わった方々とともに考え、対話し、交歓する場を作り出したいと思います。
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