溝口訴訟、提訴から今日で11年。

溝口訴訟提訴から、今日で11年です。

2001年12月18日、溝口秋生さんは水俣病と認められず放置され続けたお母さんの無念と、胎児性水俣病の息子さんへの思いから、水俣病訴訟を提訴しました。今年の二月、裁判は勝訴しましたが、熊本県は上告。受理されれば、81才の溝口さんはこれから数年間、更に裁判を闘うことになります。

今私にできることって、溝口さんのことを忘れないように発信することくらいです。そんな訳でちょっと溝口秋生さん特集。


今日は溝口秋生さんのお人柄とその魅力をちょっとご紹介。4月に他の団体の雑誌に掲載した文章を転載します。長くなりますが悪しからず^^

編集長に「溝口訴訟のことを」と言って頂き、書こうとしてはたと困ってしまいました。私は相思社職員でありながら、裁判には詳しくありません。普段も、裁判にというよりも溝口秋生さんに関わると言った方が近いような気がします。といっても大したことはしてなくて、日常的に先生の家に通い、困りごとがあればお手伝いする、ドライブや旅行に行く、裁判の時には耳の遠い先生の横に座り内容をパソコンで伝える程度です。裁判をする「溝口秋生さん」の生活の応援をしたい、溝口先生やご家族が幸せに愉しく生きる手伝いをしたいという気持ちできました。というわけで、今回は先生の人柄と自分のことを書きたいと思います。私が溝口秋生さんのことを先生とお呼びするのは尊敬の意味もあるのですが、私の書の先生だからです。

そもそも先生と私の出会いは今から二十数年前に遡ります。私は溝口秋生さんのお宅の近く、水俣市袋の出月というところで生まれました。小学校入学後、毎週我が家で書を教えてくれたのが溝口先生でした。先生に言わせると不真面目で注意散漫な生徒だったそうです。

が、学校嫌いの私にとって溝口先生は学校の先生以上に「先生」でした。みかんの有機栽培や無農薬アイガモ米作り、環境汚染のこと、新幹線開通(これによって袋の水脈の一部が断たれ、先生のみかん山も一部なくなりました)の反対運動。そして先生はマイノリティの人たちへの強いシンパシーを持つ人で、在日朝鮮人やアイヌの人、沖縄の人のことなど、学校では教えてもらえないことを毎週少しずつ教えてくれました。この問題児を常に受け入れてくれる、数少ない私の理解者でもありました。

そして書の時間になると「正直に書きなさい」「上手に書こうとしない、上手に書こうとするとうそになる」とおっしゃっていました。上から指導したり叱ったりせず、隣で「よーし、いいぞ」「上手いぞー」と声をかけながら教えるのです。そういったお人柄や考えに共感した親たちが子どもを書道教室に通わせた結果、袋にはたくさんのお弟子さんが生まれました。

また、先生が世の中を皮肉った川柳をチョークで自宅前の瓶に書くのも魅力です。最近のものは、「頭の良さ次から次に嘘の出る」「沖縄の鳩はキチキチキチと鳴く(鳩山元首相と基地)」など。「伊達直人より」と大量の野菜を我が家の玄関先に置いて帰られたり、クリスマスには毎年「サンタ苦労スより」と書いたプレゼントをくださいます。毎年私の娘にお年玉をくれるのですが、今年も銀行で二千円札を手に入れて、2,012円をくださる。とってもユニークな人です。また先生は読書家で、七時に就寝のあと明け方に起きて本を読まれます。様々な分野の本を読まれますが、石牟礼道子さんの本もよく読まれているそうで「道子ちゃんの本ば読んだよ」と教えてくれます。裁判のときや集会のときに(書の先生ですので字の間違いについては厳しく)私がパソコンでの文字の変換ミスをすると「みっちゃん、嘘字ば書くな~」と笑いながら注意をするのも先生らしいエピソードです。

話はそれますが、中学を卒業して水俣を離れた私は、熊本市に住むようになりました。その頃私は自分の出身を他者に言えずにいました。「水俣出身」ということで嫌な思いをすることがあり、その度に反論する術を持たずに下を向いていました。思い切って書きますが「患者がいるから私がこんな目にあう」と思っていました。そして二十歳の頃、再び先生と出会いました。先生が裁判をしていると聞いて地方裁判所へ傍聴に行くと「水俣病の裁判」でした。こんなに近くにいた先生が水俣病のことで苦しんでいたこと、それに気付こうとせず簡単に水俣を隠してきた自分を知りました。先生の裁判は、熊本県への問題提起であると同時に私自身に対するそれでもあったのです。自分を振り返り顔が熱くなりました。私の頭から溝口訴訟のこと、水俣病のことが離れなくなりました。

その後、溝口先生に寄り添いその中から水俣病を学びたいという思いで、相思社に入りました。水俣病に関わることは勇気のいることで一つの挑戦でもありました。入社してからは患者担当となり、仕事として溝口先生のところへ通うになりました。先生のもとで学ぶ生活の中の水俣病や水俣病の歴史に、様々な理不尽を知りました。これまでの経験や日常の生活の中から、患者にとって「私は患者の味方です」と公言する人が必要だと思っています。そしてその存在は、この水俣で患者の人たちの大きな力になると信じています。被害者手帳受付が始まり、具体的に沢山の患者の方に出会ってからは、強くなる一方です。

そして溝口先生の裁判とは別の気がかりは、この間裁判の場でも訴えている息子さんのことです。提訴した理由のひとつは息子さんに対する熊本県の対応に納得がいかなかったことにも後押しを受けています胎児性水俣病として生まれたにも関わらず熊本県からはその被害を認められず、十分な補償もないまま週に一度ほっとはうすに行かれる他はご自宅におられます。息子さんの存在は先生の気がかりであると同時に私の気がかりでもあります。患者担当の中でのご相談でもあるのですが、胎児性世代の方が世の中に出ていくことが出来ず自宅に引きこもるケースや、身体が弱く働くことができない、また、この地域出身で軽い障害を持った人たちがいらっしゃいます。こういった方たちが、周りも本人も今の状態を認めながら上手に外の世界とコミットしていく方法がないか模索しています。

 

今回の判決では私自身もスッキリしました。水俣病の仕事をしていることを自分から言うことはあまりなかったのですが、判決がきっかけになって色々な立場の人から声を掛けてもらい、水俣病の話をする機会が増えました。話を重ねることが、これからも水俣病患者と共に生きていくと改めて心に決めることに繋がりました。相思社はもともと、「水俣病患者」という社会的少数者や弱者の拠り所として作られました。今後もその根本精神を崩さず、拠り所+患者の方のエンパワーメントになる活動を続けていきたいと思います。そして、安心して迷惑をかけあえる場所を作りたいのです。

勝訴判決の喜びも束の間、三月八日の熊本県の対応は理由も明確でない上告でした。上告が認められると、これからも溝口先生の闘いは続くことになります。この受理されるかどうかを待つ時間さえも先生にとってはストレスなのです。

私が今出来ることはできるだけ多くの人にこの事実を伝え、溝口さんを支える人を増やしていくこと。そして、溝口さんとその家族がひたすら幸せに愉しく生きるお手伝いをすることです。人は闘うためだけに生まれてきたわけではありません。もちろん闘いも大切ですが、幸せになるために生まれてきたのですから。

 

 

2012年2月27日、勝訴の日!

水俣病溝口訴訟控訴審が結審した10月24日

耳の遠い先生は、文字通訳を要します

 

我が娘に書を教える溝口先生

溝口先生からのユニークなクリスマスプレゼントに爆笑

溝口サンタは毎年現れます。

 

 

 

 

 

 

2008年の不当判決後、熊本県庁へ

勝訴祝いの阿蘇で、知宏さんと人生ゲーム中

勝訴祝いに念願の阿蘇旅行へ行きました!

 

 

 

 

 

 

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