大師匠と師匠と弟子と

今日は、水俣病犠牲者慰霊祭前日集会と、そのあと溝口先生の祝勝会でした!

ここ最近お疲れモードの先生でしたが、久しぶりに渕上清園(ふちがみせいえん)師匠と再会して、本当に本当に嬉しそうでした。

61年前、溝口先生が高校卒業後の進路を農業と決めたとき、もうひとつ選んだ道が一番自信がなかった「書」でした。熊本市の有名な書家のもとに書を習いに訪れたとき、その書家から「熊本にわざわざ来なくても、水俣に渕上というのがいるじゃないか」と紹介され、渕上清園さんと出会います。
しかし師匠は、当時8時間の仕事をこなしながら、一日8時間、書を書いていました。「人と交流する暇などない」と言って断ったそうです。

しかし諦めきれなかった溝口先生、毎日のように、何度も師匠のもとを訪れ頼み込みます。何度断っても現れる溝口先生、そのしつこさに音を上げた師匠は、弟子として受け入れ、以来、自身の書の合間に溝口先生を教えました。

師匠は芸術家のようです。今日も「書はイメージだ。アトリエは戦場だ」と言いながら書の素晴らしさを語ってくれました。

御年86歳の師匠は、今回の判決を聞いて思ったことがあったそうです。「戦争を経験し、南京を潰した、上海を統治したということを聞き、今日までたくさんの不条理を見てきた。日本には希望がないと思ってきたけど、今回の判決を聞いたとき、初めて「日本に生まれてよかった」と思った」そうです。

師匠の存在は、溝口先生の生き方にも少なからず影響を与えたようでした。
帰りの車の中でも、師匠の話で持ちきりでした。

渕上さんが溝口先生を受け入れ、書を教えていなかったら、今、水俣病センター相思社にいる私は、いないかもしれません。

孫弟子として、渕上さんの存在に心からありがとうと思いました。

溝口先生が初めて渕上さんのもとを訪れたのは、61年前の今日だそうです。
(二人とも覚えているのがすごい!溝口先生にいたっては日記まで保管されています)

明日は水俣病犠牲者慰霊祭、その前に大臣に会いに行く予定ですが、本当に会えるのでしょうか。

左から、渕上清園大師匠、溝口秋生師匠、永野三智弟子

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