人権歴史館とフィールドワークと交流会

8月19日~22日まで大阪と京都へ行ってきました。

一日目は人権のことをお仕事にされている中川さんと八木さんに協和町や舳松人権歴史館などへ連れて行っていただきました。伺う前に本を読ませてもらってはいましたが、今回堺へ行かなければ知らなかったことばかりでした。

なんで被差別部落があるの?なんで今でも差別が続いてるの?なんでなんでがいっぱい。中川さん、八木さんとのつながりの中で初めて知ったことや、気付きの瞬間をずっと守っていこうと思います。

舳松人権歴史館の設立は1988年で、水俣病歴史考証館の設立と同じ年です。1950年代の被差別部落の集落のくらしを再現した部屋では、四畳半で内職をするお母さんと娘、雨のために仕事ができず寝転がるお父さんと息子。壁が壊れた薄暗い部屋です。当時はこういった四畳半に5~6人で住むことが一般的だったそう。狭い空間しか与えられず、一日一日を暮らすのがやっとという被差別部落住民の生活ぶりが初期の水俣病患者の様子と重なりました。

次のコーナーは「はんらく」と呼ばれた狭い路地をこれまた原寸模型で再現してあります。汲み取り式便所のすぐ側にある井戸。雨が続くと汚水が井戸の 方へ流れ、衛生的な問題が発生し、病気が流行ります。それぞれの展示に圧倒されて思わずため息が出ました。

再現されたはんらく

再現のときにこだわったトイレ

 

 

 

 

 

この辺りの展示は直感の人中辻さんの頑張りも大きかったと聞いていて、なるほど納得です。

被差別部落住民の受けてきた差別は古く16世紀までさかのぼるという解説に驚きました。そんなに昔から?!結婚や就職差別の歴史、運動の歴史の紹介もありました。1922年、被差別部落の地位向上と人間の尊厳の確立を目的とした水平社が作られてすぐに、堺でも水平社が作られ、当時の舳松の人たちの行動力や意識の高さを思いました。部落差別と闘ってきた人たちの憤りが伝わってくる展示です。

人権ネットメンバーの川添さん(左)と解説してくれた井上さん(右)と

フィールドをご案内いただいた中川さん(左)と八木さん(右)と

 

館内では若手の井上さんに語っていただきました。我がこととして被差別部落の問題を捉え、語る姿に、気付けば自分を重ねあわせ、自己開示の瞬間や結婚の際の話、伝える方法論などお尋ねしました。

 

 

部落解放の集会に参加するきっかけや初めて部落問題を我が事として捉えた瞬間、結婚の申し込みに行くときの普通のドキドキとは全く違うタイプのドキドキ。歴史館へは当事者の子どもたちもやってくるそうで、自分の問題として捉えてもらえるよう、日々研究だそう。時には流行りの言葉や歌を勉強したり。自分と同じ世代で「伝える」仕事をやっている人たちはまだまだ少ないので、うれしい出会いでした!今度は意見交換のようなことがしたい!

考証館と違ってエアコンが入っているので快適に展示を見ることが出来ました。大阪へ行かれた際は、ぜひ行ってみてください♪

その後は、1969年の特措法を受けて改良されていった住宅街を巡りました。舳松人権歴史館で見たようなひどい環境を改善しようと1972年に「堺市同和 対策事業総合計画」が策定されて2000世帯の住宅が新たにできたそうです。実際に当初は高層マンション風の建物が多かったそうですが、途中から近くの工場が土 地を売ってくれたことで空間を大切にした建築を行うようになり、先進的なつくりは全国のアパートなどの建築のモデルにもなったそうです。

全国の建築モデルにもなった住宅

店舗つき住宅

 

 

 

 

 

建物は建て変わったけれど、現在も、顔の見えないインターネットの普及によって掲示板などで被差別部落への非難や中傷は続いているそうです。根の深い差別の構造。初めて身近になった被差別部落の問題は、根は水俣病と同じでした。これから我がこととして考えていきます。

そして、待ちに待ったもやもやの会の方たちとの交流。被差別部落の話は衝撃的なことばかりでしたが、それに向き合い続ける皆さんの運動論や生き方を教えていただきました。長年運動に携わってきた方々です。参考になる話ばかり。根っこは同じことだから、それぞれの持ち場で頑張りながら、繋がっていき、少しずつでも社会を変えていきたいです。

社会的に虐げられている人や、弱者・少数者と呼ばれる人たちが安心して生き生きと暮らしていける社会へ向けて。

交流会にて!

本当にありがとうございました!

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