昨日は年に一度の法要会でした。
法要会は、患者代表の挨拶で始まりました。漁村で生まれ育ち、今も漁師をして生きるこの方が、仲間たちが減っていくことに触れて「今年の犠牲者は●人です」といった言葉が印象的でした。
今年亡くなった方のことを考えると、水俣病を発症してから亡くなるまで、随分と時間が経っているのですが、この方は仲間たちが水俣病によって身体の自由や人との関係をも奪われ生きたことを忘れず、友人を失った時に「水俣病犠牲者」と表現します。
その後、お坊さんの読経にあわせて、皆でお経を唱えました。それぞれの大切な人への祈りを共有し、声が重なる時間が私は好きです。
そのあとは茶話会です。溝口先生が持ってきてくれた温州みかんや相思社職員が準備したお菓子を食べながら、数年ぶりに会う顔もあり賑やかに進みました。先生のみかんは甘みも酸味もしっかりとあり、濃厚なみかん。今相思社に来ると食べられますよ!
昭和一桁生まれのおばあさんたちは、水俣病になる前の、モノはないけど幸せだった暮らし、発症後の苦労を語ってくれました。法要会の参加は水俣からの患者に加え、隣の芦北町女島の患者の方が多いのですが、水俣病を毛嫌いしたり魚が売れなくなるからと患者を隠した漁村も多くある中で、女島は漁師が一丸となって運動を起こしました。だから今も相思社との付き合いが深い方たちが住んでおられます。
この日初めて考証館にやってきてその流れで法要会に参加した方は、考証館見学後に患者と間近に接し、水俣生まれでありながらこれまで水俣病を知ろうとしてこなかったことを悔やんでいました。別れ際、相思社での再会を約束しました。
私は皆さんの送り迎えと受付を担当しました。帰りの車の中で石牟礼弘さんという元学校の先生にお話を聞きました。私の地元、袋中学校に勤めたのが1967年の春。その頃にはもう奥さんの石牟礼道子さんが水俣病をテーマにした苦海浄土の元である、「海と空の間」を書いておられました。
翌年の1969年に公害認定、その翌年には水俣病第一次訴訟が始まり、激発地の袋に勤務していた弘先生は仲間たちと共に患者の支援をします。患者たちが運動に使うタスキやゼッケンを作ったり、今は亡き方たちの陳述書を書くことを手伝ったり。私も聞き取りの際に同じような仕事をしていますが、水俣病とその方の人生の関わりをより深く知る入り込む作業になることもあります。私のような立場ならいざしらず、当時教員という立場にあった弘先生。
「圧力はなかったのですか?」と聞くと、「そりゃありましたよ。でも当時は組合があったでしょ。それに私自身はクビになっても土方でもなんでもして子どもたちば育てていけばいい、それよりも大事なことが目の前にあるっちゅう覚悟で応援しよりましたから」と返ってきました。当時の支援者の覚悟を改めて思いました。
今年五回目の法要。小さい頃に馴染みの顔だった方や、大切な方のご家族のお位牌。相思社に入ってからお付き合いが始まり最期までご一緒した方。年をおうごとにお位牌への思いは強くなっていきます。来られた方たちにはまたそれぞれの思いがあられたでしょう。昨日はそんな思いに少しだけ触れた一日でした。