午前中、ある大学の学生さん達からインタビューを受けました。映像の卒業制作だとか。
昨年の夏休みに合宿に来られて以来、何度かお会いしていますが、たった一年ちょっとなのに、会う度に大人びていかれます。この年代の一年というのはステキ。
彼女たちに「大きくなったね」と言う自分に、あんた誰?と心の中でツッコミをいれます(笑)
昨年はまさか自分が卒業制作のターゲットになるとは思いませんでしたが、最近バタバタと走り回っていたので、止まって考える貴重な機会をいただきました。&色んな質問をいただきました。
●あなたの考える「当事者」って誰ですか?
●あなたは自身を当事者だと思いますか?
●何を伝えたくてここにいるのですか?
●「伝える」や活動の原動力はなんですか?
●犠牲になった猫達をどう思いますか?
●昔と今の猫の扱いの違いについて(彼女たちは水俣の猫をテーマにしています)
●細川一さんについてどう思いますか(私は案内中よく、「細川さんの責任を問う」という話をします)
よく覚えていないけど、ざっとこんな感じです。
また、彼らの悩み(?)、「話をしていても議論になりづらい」という話も聞きました。
高校やなんかに講演に行っても「質問」がでないことがあります。
いやいや、高校生って書いたけど、それって意外と大人もおなじ。
何を考えているのかというと、想像ですが、、、、、、「人より目立ちたくない」「こんな質問していいものか」「そんなことも分からないのかと思われたくない」
そんなところでしょうか。
でもね、蓋をあけるとちゃ~んと考えていて、「ワークシートに考えていることや、質問を書いてください」というと素晴らしいものがつらつらと出てくる。
だから時間をかけて紐解いたり語る自分を育てていくと、きっと議論したり考えをぶつけあうようになるんだと思うのだけど。なんだか世の中忙しくて、そんな時間も限られて。
「相手が嫌なことを言いたくない」とか、「自分が言うことが間違ってるかも」とか、「先生が求める答えを出そう」とか、娘やその周りの子達を見ててもそんな風潮がある気がします。そんな思いも「議論」を妨げているのかな。
私は割りと言いたいこと言っちゃうので、小さい頃からよく親や先生や友達とぶつかっていたのですが、今の子たちはきっともっとおりこうで、考えてて、そういうところでのやりづらさがあるのだと思います。
だからこそ、講話のなかでは対話できる時間を追求したい。
前回、この方たちの一人から「他人の痛みは分からないから自分だったらと想像するけど、でも他人のものでもできれば痛みは感じたくない。関わることは怖くて面倒だけど、痛みに無関心でいることも怖い。当事者として痛みに関わることはどういうことか考えたい」というようなメールをいただいて、最後には「これからも水俣に関わりたい」と書いてくれてて、おー、希望やねと思いました。
最近の若い子は素敵だよ!
なんだか今日は言いたい放題話しちゃったけど、次はそんなことの共有もできるといいな。
猫をテーマにしているということで相思社にある「猫の墓」も撮っていかれました。
昨年の夏休みに合宿に来られて以来、何度かお会いしていますが、たった一年ちょっとなのに、会う度に大人びていかれます。この年代の一年というのはステキ。
彼女たちに「大きくなったね」と言う自分に、あんた誰?と心の中でツッコミをいれます(笑)
昨年はまさか自分が卒業制作のターゲットになるとは思いませんでしたが、最近バタバタと走り回っていたので、止まって考える貴重な機会をいただきました。&色んな質問をいただきました。
●あなたの考える「当事者」って誰ですか?
●あなたは自身を当事者だと思いますか?
●何を伝えたくてここにいるのですか?
●「伝える」や活動の原動力はなんですか?
●犠牲になった猫達をどう思いますか?
●昔と今の猫の扱いの違いについて(彼女たちは水俣の猫をテーマにしています)
●細川一さんについてどう思いますか(私は案内中よく、「細川さんの責任を問う」という話をします)
よく覚えていないけど、ざっとこんな感じです。
また、彼らの悩み(?)、「話をしていても議論になりづらい」という話も聞きました。
高校やなんかに講演に行っても「質問」がでないことがあります。
いやいや、高校生って書いたけど、それって意外と大人もおなじ。
何を考えているのかというと、想像ですが、、、、、、「人より目立ちたくない」「こんな質問していいものか」「そんなことも分からないのかと思われたくない」
そんなところでしょうか。
でもね、蓋をあけるとちゃ~んと考えていて、「ワークシートに考えていることや、質問を書いてください」というと素晴らしいものがつらつらと出てくる。
だから時間をかけて紐解いたり語る自分を育てていくと、きっと議論したり考えをぶつけあうようになるんだと思うのだけど。なんだか世の中忙しくて、そんな時間も限られて。
「相手が嫌なことを言いたくない」とか、「自分が言うことが間違ってるかも」とか、「先生が求める答えを出そう」とか、娘やその周りの子達を見ててもそんな風潮がある気がします。そんな思いも「議論」を妨げているのかな。
私は割りと言いたいこと言っちゃうので、小さい頃からよく親や先生や友達とぶつかっていたのですが、今の子たちはきっともっとおりこうで、考えてて、そういうところでのやりづらさがあるのだと思います。
だからこそ、講話のなかでは対話できる時間を追求したい。
前回、この方たちの一人から「他人の痛みは分からないから自分だったらと想像するけど、でも他人のものでもできれば痛みは感じたくない。関わることは怖くて面倒だけど、痛みに無関心でいることも怖い。当事者として痛みに関わることはどういうことか考えたい」というようなメールをいただいて、最後には「これからも水俣に関わりたい」と書いてくれてて、おー、希望やねと思いました。
最近の若い子は素敵だよ!
なんだか今日は言いたい放題話しちゃったけど、次はそんなことの共有もできるといいな。