今日は鶴木山のおじいちゃんの話を聞いた。

今日は鶴木山という漁村のおじいちゃんの話を聞いた。

おじいちゃんは随分とおじいちゃんだ。でも昔のことをしっかりと覚えていて、静かに語るおじいちゃんの話を聞きながら、お腹の中に熱いものがこみ上げた。

むかし鶴木山では「ケタ」という地引網漁が行われていた。風が吹くとうたせ船で海に出る。主にエビを捕っていたけれど、網には沢山の魚が入った。エビは漁協に卸し、魚たちは漁師が持ち帰って食卓にあがった。どんぶりいっぱいに刺し身が盛られ、鍋いっぱいに魚が煮られた。

夏に学校から帰ると家にカバンを投げ入れて目の前の海に向かった。服を脱いで飛び込み、身体が冷たくなると船や砂浜に寝転んだ。合間に沢山の貝をとり母に届けた。海に迫った山では麦やカライモをとった。

代々漁師の家に生まれたおじいちゃんは、中学を卒業してすぐに漁師になった。水俣まで漁に出かけた。百間港に船を停めるのが常だったおじいちゃんは、そこから水銀が流れ出ることを知らず、海水をくんで米を洗い、煮炊きをし、食器を洗った。当時百間港は漁師たちには人気のスポットだった。
昭和24(1949)年頃から魚が浮き始めた。

昭和31(1959)年、水俣病が公式に確認された。長年の汚染を見続けていた漁師たちは、工場排水にその原因があると考えた。研究機関の発表からチッソが原因であると確信した。

その後、北側の津奈木の漁民が発病した。対岸の天草や出水市などでも猫の狂死が発生、不知火海が広く汚染されていることが分かると、漁民たちの排水停止要求は更に強くなった。

昭和34(1959)年10月、もう一人前になっていたおじいちゃんたちを含む漁師1500人は、チッソ水俣工場へ行き、政府に対して水質汚濁防止法の制定と水俣病の原因究明を、チッソに対しては漁業補償と排水停止を求めた。

話しても話してもチッソは要求を拒否した。漁民たちはついに投石騒動を起こし、警官隊が出動、新聞沙汰にもなった。この頃、チッソはねこ実験で、水俣病の原因がチッソにあることを突き止めた。

翌月、国会の調査団が水俣を初めて訪れた時には救いを求める漁民は4000人にまで膨れ上がった。芦北、天草、八代など各方面から船で水俣に集結した。その内2000人は、チッソに対し団体交渉を申し入れたがまた拒否を受ける。

漁獲量は減り続け、病人は増え続けるなかで、窮地に追い込まれた漁師たちは、ついに工場へ押し入った。結果、多くの人たちが傷を負い、100人以上の逮捕者が出た。

幸いおじいちゃんは逮捕されなかったが、「漁民、またも暴力沙汰」「県市民の強い批判が起きている」「メチャメチャに壊された工場事務所写真」などの新聞記事が出され、市民の意見として「漁民はまるで獣のよう」「暴力行為は許せない」などの意見が掲載された。数日後、水俣市会(市民の会)から「排水停止を阻止する要求」が出された。漁師たちの 暴動は、企業も行政も市民をも、敵に回す結果となった。

闘争を起こすことで状況は更に悪化してしまったけれど、それでも、とるべき道が闘争しかなかったおじいちゃんたち。

おじいちゃんの周りにはその後も、水俣病に倒れる人たちが何人も出続けた。それでもある網元の「鶴木山からは一人も患者を出すまい」という一言から、水俣病隠しが始まった。

「鶴木山には認定患者が一人しかおらんとたい」と、いうおじいちゃん。水俣病隠しをした理由には「魚が売れなくなる」「村に金が入ることで村全体の規範が崩れる」など様々な説があるが、それによって被害者が二重に苦しめられたこと、今になってますます被害が分からなくなっていることは確かだ。

おじいちゃん自身にも、若い頃から様々な症状が出た。手足のしびれ、カラス曲がり、頭痛、めまい、つまずきやすい、お湯の温度が分からない。しかし手は挙げられなかった。

おじいちゃんたち漁師の要求は、根本的なものだった。五十年前、企業は行政は市民は、どうして排水を止められなかったのか。おじいちゃんたちの声に耳を傾けられなかったのか。

福島を見続ける私たちの子孫は五十年後、同じ問いを私たちに投げかけるのだろうか。

どうしてあの時原発を止められなかったの。被害者の声に耳を傾けなかったの。

写真は今日。帆を張っていないうたせ船。

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