女性たちの被害=男性たちの被害

不知火海周辺で奪われた赤ちゃんたちの命の話。

今日は午前中、1950(昭和30)年代、不知火海から少し山手にあがった地域出身の男性の話を聞いた。

兄弟は二人。兄はその症状を熊本県に認められた。しかし同じ症状を持つ自分は認められず…

今も続く症状を口にする男性。手足のしびれはきつく、肩から下の感覚はない。注射を打ちに病院へ通ったが、治る気配がないため医者に諦められたと笑った。からす曲がり、身体の痛み。転びやすいのでケガもする。ものを落としやすく包丁や鈍器を持っていると危ない。

当時、水俣から「めごいないさん」と呼ばれる3人の行商さんがてんびんを担いでやって来た。毎日のように魚を買った。行商さんが来られない時は漬けイワシ など保存食にしてある魚を食べた。肉はなかったがタンパク源には不自由しなかった。その魚には水銀が入っていたが、誰もそんなこと教えてはくれなかった。

この年代のお生まれの方にはご兄弟に関して質問をすることにしている。

「ご兄弟はお2人ですか」と尋ねると、「本当は7人やったっですよ」と返ってくる。
「兄や姉や弟妹がおったはずですよ。かあちゃんが産んだ子が、死産したり生まれて何日かで死んでしもうてですね…。私はよう覚えとらんとですけど。母ちゃんはきつかったでしょうね。そがん話はせんですよ。」

女性たちは語らない。私はこのことにいつも危機感を抱いている。

1950年代、世間一般の脳性麻痺の発生率が0.2%だった時、水俣は6%近かった。出生についても、通常は女性100:男性102なのに対して、 1950年代の水俣市袋地域では女性100に対して男性はその半分。男の子の死産や流産の確率が高かったのではないだろうか。これは、後の調査で水銀によ る影響と明らかになった。

障害や病を持って生まれてきた子どもたちの存在の裏側には、生まれてくることのできなかった無数の命がある。

生まれてきた人たちの健康被害はもちろんだが、この男性の兄弟姉妹のように、生まれてくることのできなかった命のことも、どうか忘れないでほしい。お腹の中で10ヶ月あたため続けてきた命を何度も絶たれた女性たちや取り囲んでいた家族の哀しみも。

そして、健康被害を抱えたこの男性はこれからも病を持ち続ける。


写真は水俣市神ノ川の乙女塚にある「水俣の母子像」。沖縄の金城実氏の作品。

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