5月1日13時30分、乙女塚にて水俣病犠牲者慰霊祭が行われました。
互助会の人たちが1981年以来毎年変わらず続けて来られた慰霊祭。
朝から水俣病被害者互助会事務局の谷由布ちゃんと一緒に乙女塚へ手伝いに行って、大変なんだなぁとしみじみ。
道具倉庫から椅子や台を出し拭きあげ、乙女塚まで登る階段の石を修復調整します。筍が石段を押し上げ、板を壊していたのですが、この時の由布ちゃんの働きぶりに感服です。
11時半を過ぎると、患者さんや遠方から駆けつけた支援者が集まって入れ替わりでご飯を食べます。エミ子さんのカレーは玉ねぎの歯ごたえが良く大人気で す。最近はどんなしているの?何歳になったの?いつまでも若いわね。親戚の法要のような賑わいですが、一つ違うのはみんな普段着ということ。この風景は毎 年変わらず、アットホームで大好きです。
そして13 時半。50 人が集まる中を慰霊祭が始まりました。上村智子さんのお父さんが「水俣病患者だけでなく、それを支え続けた松本勉さん、宮沢信雄さん、原田正純さんたちも 亡くなっていかれた」と挨拶をされ、それぞれの方が患者の人たちにとってどれだけ支えだったかと偲ばれます。
暑い日差しの中をお坊さんがお経を唱え、一人ひとりが塚の前で焼香をします。公式確認のきっかけとなったあの娘さんのことを思いながらお参りをしました。認定されたから終わりではなく、ずっとずっと続く暮らしに思いを馳せ。
認定されるとか、されないとか、医療手帳とか被害者手帳とか対象外とか、そんな風に人を分けずに。公式確認よりずっと前に、水俣病と知らされずに亡くなっ ていった人たち。母のお腹のなかで絶たれてしまった生命たち。当時そこに生きていたというだけで犠牲になった生きとし生けるすべての生命。海。その全てに 祈りを捧げようというのが乙女塚慰霊祭です。
茶話会は、昔胎児性患者と支援者のお泊り会が行われていたみんなの家にて。むかし「天の魚」が上演されていた舞台を見ると丸木位里さん俊さんの大きな布の絵が目に飛び込んできます。慰霊祭を終えると人数が減り、それでも30 人近くでのおしゃべりが始まりました。
一昨年まで毎年乙女塚の慰霊祭にいらしていた原田正純さんのお連れ合いの「正純さんがついてきたようです。私もいま、水俣から元気をもらっています」という一言にしんみりとしました。
今年は福島からも駆けつけてくれて、「原発事故で死んだ人はいねぇと言うけど、そんなの嘘っぱちだよ」という言葉が胸に残ります。
福岡高裁での闘いが決まった原告の方たちの国の対応を巡る話や今後の闘いにかける思いに、これからも続かざるをえない水俣病を思います。
昨年の12月、月に一度若い人たちでエミ子さんのもとに集ろうと決めて半年が経ちます。当時の話を聞くにつけ、この乙女塚と慰霊祭の意味を考えながら、今度は私たちの世代で守り、続けていこうと思っています。
※鹿児島まであと100 メートルという県境に、乙女塚はあります。水俣病患者の田上義春さんが開いた自然農園に、俳優の砂田明さんが移り住みました。そこに胎児性水俣病患者とし て生まれ1977年、21歳で亡くなられた上村智子さんと生類すべての鎮魂のために乙女塚が建立されました。
私の記憶の田上義春さんは、虫と話ができて袋小学校でうさぎ追いを教えてくれるおじさん。砂田さんは、がん末期だったからか痩せて眼光が鋭い人でした。両人は亡くなられましたが、今も砂田さんのお連れ合いが暮らし、塚を守っておられます。
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