鏡のような海だった。
「これが不知火海か」
水俣駅を降りると、チッソの工場群が威容を見せていた。
足尾鉱毒事件の現場を歩いた私は、「公害は現地から」という宇井純の言葉を思い知り、広島、水俣、長崎の旅に出たのだった。
この私の十九歳の春の旅が、私の人生の始まりだった。
人生はときに偶然を用意する。
水俣からもどると、学生会館で『水俣―患者さんとその世界』が上映されていた。
そのドキュメンタリー映画とやらを見た私は、春の青空を見上げながら、それまでとは
ちがう空を見る思いだった。
私は水俣でまともに患者さんと話もできなかったのに、映画は、患者さんの家々の奥深く入り、カメラと患者さんの共感を映していたのだ。
「水俣病患者支援古本市」を開いていた青年がいた。
「京都にもどったら江口君がいるから」と、聞いていた私は
「あなたは、江口さんという方ではないですか」と尋ねると、
「そうだけど」と不思議そうな顔をした。
終生の友である江口和憲さんとの出会いであった。
私は江口さんが活動していた「京都・水俣病を告発する会」のメンバーとして、水俣に関する映画会をやり、写真展をやり、講演会を開いた。水俣へ出かければ、今度は、形ばかりの援農もした。車の運転ができる人間が役立つのを見たので、運転免許証を取りに行った。
「毒でやられたわたしたちが、農薬をかけたくない」という言葉から、甘夏ミカンの自主販売がはじまった。
学生が消費者と生産者をつなぐ責任がとれるのか、という議論もなにも、とりあえず、送ってもらった甘夏34箱は、スス病で真っ黒だった。ひとつずつタオルで拭いて、配達した。京都を離れる頃は700箱くらいになっていた。今年も何やかや170箱位を販売した。40年目である。
縁があって、ドキュメンタリー映画の世界へ入った。まさか、自分が映画を作る側にまわることなど想像だにしなかった。今でも高校時代の友人たちは、「あの砲丸投げのコバヤシがなんで?」というくらいだ。
自分でもよくわからない。なんで、私がドキュメンタリー映画など作っているのか。
昔の人は写真を撮られると、「魂をとられる」と言ったくらいだから、映画にも魂が映っているに違いない。しかし、それが、むずかしい。自分の価値観が変わらなければならない。未知の世界を歩くのだから。私自身の「たましい」が問題なのだ。
映画『風の波紋』は、誰に頼まれたのでもない。人工透析になり、うつ病になり、もう映画をあきらめかけていた。あるとき豪雪地帯に移住した友人を訪ねた。草木についた朝露のしずくが、真夏の朝の太陽に反射して、山が輝いていた。そのとき、ふと、幼いころの自分や、村の風景が走馬灯のように思い出され、「ここなら映画ができるかもしれない」と思った。ただ、それだけだった。映画と私の生きることと並走した数年間だった。
『風の波紋』を水俣で上映してくれるという。なんということか。
「あなたは、まだ、19歳の魂をもっているか?」
と問われるようだ。
『風の波紋』監督:小林茂
2016年9月1日 62回目の誕生日の夜に。