無事にみかんのシーズンが終わりました。
北海道の生協への出荷も先週のグレープフルーツで最後でした。
ついについに、今年も終了。
秋ごろに出荷が始まると、無事に届いたかな、傷みはでてないかな、と不安になります。
そんな出荷に追われる日々も、次は半年後と思うとちょっと寂しいような・・・
ふと新聞を見ればハウスみかんの出荷が始まったという記事が目に入りました。
終ったと思えば、もう次のみかんが出てくるなんて!熊本には1年中みかんが出回っている気がします。
一息ついていると、お世話になっているみかん生産者からインゲン豆をもらいました。
「今年は温州みかんの樹を20本くらい植えたのよ」
「お!じゃあ、来年は収穫が増えますね」
「いやいや、5年くらいたたないと収穫はできんとたい」
「えー!まだまだ先の話かぁ」
「野菜はこうやってすぐに収穫できるから楽しかね」
そうなんです。
樹の人生は人間の時間よりもゆっくりで、収穫できるようになるまでに時間がかかります。
それに、みかんも流行があります。水俣でみかん生産が始まったころ、みんなが作っていたのは甘夏だったそう。
今の消費者に人気なのは、品種改良された甘いみかん。
デコポンやらスイートスプリングやらいろんな品種の流行に押され多くの生産者が育てるようになり、今度は過剰供給ぎみ。
いまや逆に甘夏が不足気味という状況です。
生産の現場はゆっくりなのに、市場の価格と人間の好みが変わっていくのは理不尽なくらい早いです。
だから、樹の時間に合わせながら、生計を立てられるようにみかんを生産することが、どんなに難しいことか。先を見通し、さらに自分の身体と相談し、生産者は樹を植えます。
せっかちな現代人の私には、そんなに長い計画はきっと立てられないだろうと思われます。
そういえば、前に梅の剪定を習ったことがありました。
その年にきちんと梅の実が付くように枝を整えると同時に、花が咲いたときに美しいようにバランスのとれた景観を作ります。
そのためには、出てくる芽がどのように伸びていくのか、ずっと先のことを考えながら、枝を切り、あるいは残さないといけません。予想しながら枝を切るということは、慣れていなかったこともあって、とても難しかったような気がします。
そして、ずっと前に誰かが切ったであろう枝がどの樹にもあることに、安心したことを覚えています。私が剪定をしたずっと後まで、だれかが手を入れて梅を収穫していくことはリレーのようだと思いました。
このようなリレー形式は、樹だけではなく環境全般にいえること。ずっと先にいる無名のだれかが、環境を活かし環境に生かされて暮らすために、今の環境を手入れする必要があります。
けれど、人間は長くても人の一生分くらいの時間までしか捉えられないような気がしています。
せかせかと生きる私のような現代人と、スピード感あふれる社会のいろんなシステムはたぶんもっと短いかも。
樹の時間を考慮できるようになるには、名のないだれかの収穫を考慮できるようになるには、どうすればいいんだろう。