2011年度水俣病情報発信事業報告 2

2. 「水俣病を生きる;自己を開示すること/応答すること。自己の水俣病を語ること/それを聞いて応答すること/その関係性をめぐって」

日時:2011年9月9日 14~17時半
場所:埼玉機関誌協会(部屋名称:コラボ21)@埼玉県さいたま市
出席者:吉永理巳子、吉永利夫、遠藤邦夫、永野三智、安藤聡彦、埼玉大学学生13人、院生3人 計21名

・吉永理巳子さん「水俣病を生きる;自己を開示すること」
・吉永利夫さん「水俣病を生きる;自己を開示すること」
・質疑応答/討論「自己の水俣病について語ること/応答すること~その関係性をめぐって~」
special thanks 安藤聡彦と埼玉大学の学生たち(会場準備をしていただきました)

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○自己紹介

安藤聡彦:今回は吉永さんご夫妻とそして永野さんとですね、それから遠藤さんの四人をお迎えしています。今日 は「水俣病を生きる;自己を開示すること/応答すること」をテーマにして、吉永理巳子さん、吉永利夫さんにお話をいただいて、その後討論に入っていきたい と思っています。学生の皆さんは吉永さんご夫妻とは初めてお会いすることになるんですが、1人30秒から1分くらい簡単に自己紹介してください。名前もそ うなんですが、水俣何回行ったことがあってどんな印象持っていますとか、簡単にやっていただければと思います。
学生L:埼玉大学3年のLと申します。水俣合宿は1年生の頃から今回まで3年間で3回行っております。今年行って思ったのは、私は海と空がとても大好き で、1年生の頃からそれが見たくて参加させていただいたんです。それは3年経った今も変わらなくて、毎年行くのがとても楽しみです。夏の自分の中では行事 の一つになっているくらい。あとはやっぱり、こっちとはちょっと違う人の暖かみとかをいつも感じさせていただいています。お世話になっている相思社さん も、まるで自分のおばあちゃん家おじいちゃん家のような感じで、勝手に思わせていただいているんで。本日はよろしくお願いいたします。

遠藤:質問をしていいですか? どちらのお生まれ?

学生L:生まれは埼玉県の蕨です。

学生A:埼玉大学の3年生のAといいます。私も水俣合宿は今年で3回訪れさせていただいています。私にとって 水俣は、さっきLさんも言ったんですけど、本当に自然が豊かなところで、癒される場というか、本当に毎年楽しみに行かせていただいているんです。水俣合宿 参加して、水俣の自然の中っていうのもそうなんですけど、お話を聞かせていただく方が自分の気持ちを素直にお話してくださる中で、その中で一緒に共有でき るっていうことです。自分自身が今の場だと自分がなかなか素直になれないことがあるんですけど、水俣の地に行くと自分が素直になれるっていうか、自分と向 き合える場だなというのが、水俣3回通って今思っていることです。今日はよろしくお願いします。

利夫:生まれはどこ?

学生A:母の実家が群馬で、生まれたのはそこなんですけど。住んでいるのはずっと埼玉の川口です。

永野:お母さんが里帰り出産だったってこと?

学生A:そうです。

学生B:2年生のBです。私も1年生の時から合宿に参加させていただいたので、今年で2回目になりました。私 も空とか海とかきれいだと思うんですけど、星もすごくきれいです。いつも相思社さんの横の道路に寝転がって星を見るのが好きです。ずっと寝転がっているん で蚊に刺されます。蚊が大きいことが印象的で今年も紫に腫れましいた。こっちにはいないなと。

お話とかを聞かせていただいて、受け取りたいなと思って聞くんですけど、やっぱりこう自分についても考えさせられるというか。今萌さんもおっしゃっ ていましたけど、去年行ったときは初めてだったんで、いっぱいいっぱいでした。だから今年は受け取りたいなというのが強かったんですけど、2回目行ってみ たら自分について考えさせられる場だなというのを実感したというか。よろしくお願いいたします。

院生A:大学院の修士2年のAと申します。水俣へは今年で5回目です。いつの間にか一番上の学年になっていま して、なんで5回も行っているんだろうなと考えますと、行けば行くたびに分からなくなるなっていうのはあるんですけど、やっぱり行きたいなって毎年思う。 それが何なのかなっていうのは卒業するまで考えたい。今日の機会を通じても考えていきたいことではあります。よろしくお願いします。

院生B:はじめまして。私は埼玉大学大学院2年のAと同じ学年のBです。私は水俣には過去に2回訪れていて、 学部3年生の時と去年修士1年の時に行かせていただきました。私にとってこの水俣っていうのを振り返ると、やっぱり自分の人生、まだ24年しか生きていな いんですけど、人生の転機みたいなところがあって大学院の修士に進むのは3年生の時に水俣に行って、そこで学んだ、初めて自分が自分から学んでいるなって いう感覚を得たことで、なぜか修士に進んでしまったんですけど。そういうところがあるので、自分の原点みたいなところを見つめ直すにも水俣っていうのが大 きいので、今回も私は特に一人ひとりの方の語りを大事にしたいと思って参加させていただきました。よろしくお願いします。

学生C:1年のCです。1年生なので水俣は今回が初めてだったんですけど、自分は水俣病については未だに難し くて、合宿の事前学習を通しても難しいと感じていました。だけど行ってみて、実際に緒方正実さんとか中原八重子さんとかに会って、水俣病患者としてじゃな くて人として会ってみて実感が湧いたというか、分かったというか、人柄だけかもしれないけど、その背景とかも一人ひとりずつではあるけど分かってきたのは あるかなって思っています。自分自身のことだと、水俣合宿に行く前はいろいろ悩んでいることがあって、水俣合宿に対して悩んでいるのではなくて、自分の今 までの生き方であったり性格とかについて悩んでいます。水俣は時間がゆっくり流れているし、いろんな人と接する中で自分これからどうするかとか。まだ結論 が出たりとか、今大きな変化があったりしないけどちょっと光が見えたというか、そんな感じがして。これから2年3年と行こうと思っているんですけど、その 中で自分の生き方とかそういう部分も見つけられたらなと思います。

安藤:「あばぁこんね」さんとの話をしなよ。

学生C:自分が一番印象に残っているのは「あばぁこんね」の方々との懇親会で、飲み会みたいなやつなんですけ ど。自分はEさんとあばぁの松本仁美さんっていう方が近くにいたんです。その人は高校時代から森林保全に興味を持ち出して、森林のことが知りたいと思って 休学して、1年間バイトしてカナダに1年間留学していたらしいんですけど。その時に自分は日本のことを知らないなというのを感じたと話してくれました。カ ナダの針葉樹林のことは知ったけど、日本のことは知らないという部分もあるけど、日本の文化とか日本のよさとか、日本人の人柄とか着物の着方とかいろいろ あるけどそういう部分を知らないな、と。そのことを自分が聞いた時に、今回はカナダに行ったわけではなかったけれど、自分自身は何回か海外に行ったことが あったけど、自分は日本があまり好きではなかったんです。海外に飛び出したいと思っていたんですけど、それでも今回日本のよさとか日本人だからかは分から ないけど、日本人の暖かさとかを知ることが出来て、これからもそういうよさとかを知っていきたい。まだ1年生だから後4年くらいあるから、今までは外国の こといっぱい知りたいと思っていたけれど、日本のことも4年間で知っていけたらなっていうのを感じました。

学生D:1年生のDと言います。水俣に行ったのはこの夏が初めてです。出身は東京です。水俣の印象は行く前か ら自然が豊かで、空も海もキラキラしているよって先輩方に言われていたんですけど、本当にきれいだなって思いました。海も太陽で光ってキラキラしていて、 得体のしれない虫の鳴き声(笑い)がっていう印象でした。あとは、語り部の方とか「あばぁこんね」の方とかいろんな人の話を聞いて、この合宿は受け止める のが精いっぱいでした。例えば緒方正実さんの「正直に生きる」ってお話があったんですけど、「正直に生きる」ってなんだよって思って?

遠藤:聞けばよかったのに。

一同:(笑)

学生D:例えば自分がやりたいことをやろうとしても、ある意味それ正直なんじゃないのって思うんです。でもや りたいことって結局目先の幸せとかに囚われちゃって、あれちょっと違うのかなっていうふうに、いろいろ考えたり悩んだりしているところです、以上です。よ ろしくお願いいたします。

学生M:埼玉大学1年のMです。初めて水俣に今回行かせていただきました。水俣の印象は空も海もきれいだった し、夜星がきれいというのが印象なんですけど、きれいだからこそ水俣病っていう事件が起こったっていうことが自分の中では結構辛いものでした。あとは語り 部の緒方さんだったり、中原さんだったり、「あばぁこんね」のみなさんだったり、話を聞いて自分は何をしなきゃいけないかということを考えていて、それは 自分の中で話を吸収してそれを自分の中で活かしていく、これからの生活の中に活かしていくことが自分に出来る事かなと思っていまして。水俣を通じて感じた ことは、自分は人に対して何か壁をつくっている部分があった。だから壁をつくらずに、もっと自分の素直な気持ちを人に伝えていけたらなと思っています。よ ろしくお願いします。
学生E:同じく1年生のEと言います、よろしくお願いします。水俣には今回初めて行かせていただいて、大学に入ってコラボ(教育学部コレボレーション教育 専修)で水俣病の勉強をするまでは、水俣病っていうのは私にとっては教科書に載っている公害であるとかそういう知識でしかなかったんで、水俣合宿の事前学 習をしながら本当にいろんなことがあるんだなということを感じました。今の段階では一つのものが見えてきたりっていうことはまだまだ分からなくて、お話を 聞かせていただいたんですけど、そこから私がどうやって吸収していこうかなってこともまだ考えている、ちょっとまとまらない状況なんです。水俣に行って一 番印象に残っているのは、いろんな人と出会うことが今回できたので、その人たちが暖かくて、本当に患者さんの方のお話を聞いて、あと全然知らないおじい ちゃんおばあちゃんと喋ったりとかもあったんで、それが今回私の中ではよかったなと思っています。今日はよろしくお願いします。

学生F:1年のFです。水俣に今回初めて行きました。大ちゃんと一緒で、海とかやっぱきれいだなって思ったん ですけど、その中でお話を聞いてモヤモヤするのが大きくて。今回の合宿を通して、知らないことが多すぎるなってことに自分で気づきましいた。だから合宿を きっかけにもっと知っていきたいなと思いました。今日はよろしくお願いいたします。

学生G:2年のGです。私は水俣病について知りたいということで参加させていただいたんですけど、それは教科 書だけの水俣じゃなくて現地に行って本当の水俣病を自分が知るっていうのが目的でした。実際に行って水俣病を知ったというよりは、水俣病によって自分を 知ったということでした。例えば水俣病患者さん自身のことを知ったりとか、その人が暮らしてきた環境を知ったり、水俣病について勉強しに行ったのにそう じゃない気がしたんですが。そういうふうに違うなと思って、水俣病を最初は教科書で知って、頭の中で教科書の中での水俣病を想像して行っちゃったので、イ メージが固いというか重いものだと思っていたんですけど、実際に行ったらその人自身がどういうふうに生きてきたか聞いて、自分がどう感じるかとか。例えば 私が一番印象に残ったのは、先ほども出ていたんですけど、緒方正実さんの正直に生きるでした。でも私はそれを聞いて衝撃を受けて、自分は今本当に正直に生 きているのかなって。正直ってなんだろう。「正直にいい悪いはない」って緒方さんはおっしゃっていて、「今自分が感じたこととか思ったことが、それ自体が 正直な気持ちなんだよ」っておっしゃってくださったので、じゃあ今までの自分は何だったんだろうって考えてしまって、今回の水俣合宿はモヤモヤ感があふれ 出ていたんですけど。

私は福島の飯館村の被災された方々に聞き取りに行ったんですけど、人の気持ちを知ったり自分の気持ちを知るっていうのは、人の気持ちを知ることが自分の気 持ちを知ることにつながっている気がするというか。うまく整理しきれていないんですけど、モヤモヤ感が晴れるきっかけを水俣合宿では得たかなという気がし ました。
学生H:3年のHと申します。水俣には1年生から3回目です。今ここ来る前に「なぜ自分は水俣合宿に行き続けているんだろうな」って考えていて、1年目は 先輩方が海きれいだよとか魚おいしいよとか。本当になんか大学生だし遠いところで勉強するのもいいかなって、当時のよく分からない考えから実際に行ってみ て、本当に言葉通りだったので、また来年も行きたいなと思って、また2年の時に行きました。そしたら今度は「なんで自分はここに来ているんだろう」って問 いにぶつかり、結局それはモヤモヤとして残ってしまいました。また来年行こうかという話になり、いつの間にか水俣に立ってたそんな感じです。3年も行って いると、自分と水俣をどうつなげるかみたいなことを考え出すようになって、前2年がなんで行っていたんだろうって後悔というか。

埼玉大学一同:後悔!?(笑)

学生H:後悔というかなんというか。今年は割とそういう目的意識というかをしっかりと持って行こうと思って 行ったせいか、前2年はもったいないことをしたな、楽しんで終わっちゃったなと思っていたんですけど。それでもやっぱり自分は頭の回転が鈍いというか、答 えを出すのに時間がかかる人間なので、今年も水俣行って自分と水俣の関係性というか。特に緒方正実さんの正直に生きるっていう話が印象に残っていて、去年 も同じ話を聞いたんですが。緒方さんの後に山下善寛さんの話もあったんですけど、2人の話が共通しているというか、自分で思い込みかもしれないんですけ ど、やっぱり2人とも同じようなことを言っている感じがしてます。自分たちの水俣病の経験を他の人に活かしてというか、「それをどう活かしていくかは君た ち次第だよ」っていうことを暗に突きつけられている気がして、今それを考えているところなんです。う~ん、どうすればいいんだろうっていう時点で、水俣か ら帰り現実から目をそむけつつあるんですけど。モヤモヤを断ち切ろうとすべく、今日も来ました。よろしくお願いたします。

学生K:特別支援専修3年のKです。

安藤:障害児教育の勉強をしている。

学生K:出身は東京の町田です。水俣合宿っていうことに関して僕は二つあるんです。一つは水俣合宿っていうも のがなかったら、僕にとっての大学生活の活動は限りなくゼロに近いということですね。それはなぜかというと、最大の理由として人脈なんです。安藤先生の尻 にくっついてって、同じ学年のコラボ(教育学部コラボレーション教育専修)のやつらにくっついてって、今年は水俣合宿の後屋久島行ったんですよ。水俣合宿 がなかったらそういった大学生活の活動が全部ないんですね。いろんなもの繋がっていって、今の学びの実りがあるので、そういった意味では水俣合宿は非常に 大きい財産ですね。

二つ目は、H君はカメラが趣味で非常にいい写真を撮るんですけど、今日ここに来る前にその写真を見てきたんですね。今回の水俣合宿の写真を見てきて、まあ みんないい顔しているんですね。水俣っていうのはそういういい顔ができる、そういう環境なんだと思いますね。埼玉に戻ってくるとみんななんかね、湿気のせ いか湿っぽい。水俣にいるとカラッと元気な顔をしているんで、そういう場所が水俣だと僕は思います。よろしくお願いします。

学生J:4年生のJと言います。出身は神奈川の横浜です。僕は1年生のころから水俣に行っているんですけど、 その時にうちの母に「今度水俣に行くことにしたんだよ」って言った時にですね、母が僕に一言っていうのが「えっ、なんで今更水俣なんかに行くの」って。安 藤先生の1年生前期の水俣病の授業っていうのがあって、それをきっかけとして「水俣合宿に夏休み行きませんか」ってなるんです。でも、母の一言を聞いた時 に僕は授業で水俣病のことを多少なりとも知っていたので、まだいろいろ行ってみないと分からないこともあるんじゃないのかなと思ったんです。母からしてみ れば水俣病っていうのはもう終わったことってなっていて、それが不思議だったんですよ。それがきっかけで行ってみて、確かにこれは自分から関わっていかな いと、母がもう終わったこととして認識していたように自分も知ることはなかったんだろうなって感じたんですね。そんなことを思いつつ2年3年と行きまし て、行って何か惹かれるものがあったなと。それはやっぱり今まで話されていたようなことを自分も感じていたなと思って、でも毎年迷うんですね、今年も行こ うかな行かないかな。でも、自分に問いかけてみて水俣に行かない理由がない。行かない理由はないから、じゃあまあ今年も行ってみるかって思って行くと、更 に迷わされたりあるいはいろんな大事な気づきもあったりしたんですけど、そんなことがあって今日もやっぱりお話を聞きたいなと思ってきました。よろしくお 願いします。

遠藤:君のお母さんは何らかの社会運動をやった経験がある?

学生J:いえ、うちの母は普通の母でございます。

安藤:ちゃんと聞いたことあるか? 昔お母さん何やってたかって?

院生C:おいくつなの?

学生J:今年で55です。母が高校生の時に同級生がある日突然学校を辞めて、どこ行ったかというと水俣に行ったって。それでよく聞くと当時付き合っていた彼が学生運動やってて、それでどうやら水俣で活動をしに行くからついて行ったって話を聞いたんですけど。

安藤:今度ちゃんと名前聞いといてね。

学生J:はい。

安藤:あと、新潟も行ったんだよね。それをちょっと一言だけ。

学生J:大阪にあるあおぞら財団が公害病のスタディーツアーを企画していまして、それで去年は新潟の水俣病っ ていうことで行ったんですね。その時に僕が参加したグループの活動が、新潟水俣病の裁判に関することで、弁護士の方に和解に向けた裁判をおこなっているお 話とか聞いて。患者の人にもお話を聞いたんですけど、そこで一言印象的だったのがいろいろ水俣病を巡っての問題はあるけれど、今は自分の体のことが心配 で、今後の生活のことが心配だって言われていました。非常に現実問題としていろんな水俣病って抽象的に難しいこともあると思うんですけど、その人にとって は日々の生活ができるかできなくなるかっていう瀬戸際に立たされているのが、これは本当に深刻だなと思って。それをそのまま放っておくっていうのは、どう かなということを去年感じました。

院生C:こんにちは、大学院の修士1年になりましたCです。まずは遠路はるばる今日はありがとうございます。 私と水俣の付き合いはもう6年目になりました。何回行ったかカウントができないんですけども(笑い)、なんだかんだで毎年お世話になっています。さっき学 生Jが言ったように、私も最初は学部1年生の安藤先生の講義で水俣病と出会い、そこで最初「水俣病をやります」という話を聞いた時に、「えっ、水俣 病?」っていう。

安藤:やめてくれ、と(笑)

院生C:やめてくれも何も、「なんだっけそれ」っていうような認識でしかなくて、そんなことを同期の友人とかと 話していたのを未だに鮮明に覚えているんです。そこから講義の中で土本監督のドキュメンタリーや水俣病のいろんな本を読んだり、あと夏に今回もお世話に なった水俣合宿という形で、いろんな方のお話を聞きながらどんどんどんどん自分が何も知らなかった、だけれどもどこか分かったようなつもりになっていた。 そういうことを何度も何度も、それが自分に突き当たるっていうような経験がある中で、もっと知りたいな、「何なんだろうこれは」って衝動に突き動かされ て、なんだかんだで6年通い続けているなというように思います。

出身は埼玉県の熊谷市というところなんですが、いろんなところを転々と地方都市というか都市周辺でずっと生活してきました。さっき学生Hも言ってい たんですけど、なんで行くんだろうみたいなところもありつつも、もちろんもっと知りたいという気持ちと共に、お話いただく方であったり、水俣の自然と言わ れてもイメージが全然つかないところから、水俣の風土性っていうんですかね。驚きと共にこういうところって肌に合っているなっていうところもあって、どん どんはまっていくっていうことがありました。それで昨年度学部の卒業論文を書いたんですけど、それは相思社が行っていた実践学校であったり生活学校であっ たり、そういった実践を今追っかけているんです。そういう中で少しずつ「自分はなぜ水俣に行くんだろう」って問いをもう一度起こしているようなところがあ ります。公害と環境問題が全く結びつかないような世界で生きて来て、公害っていうものはもう終わったものだ、過去のものだっていう認識がどこかにあるよう に思います。公害をきちんと伝える場がないまま、一方でエコエコってことが言われている。その歪な関係っていうものを自分は考えていきたいんだなっていう ことを思いつつ、今年もお世話になっているということになります。今日はよろしくお願いいたします。

学生I:2年のIと言います。私は水俣で「本当に終わっていないんだな」と思ったんです。私は2年生で初めて 行ったんですけど、去年は行ってどうするのかなとか、学生とかが行って失礼じゃないかなとか思ってたんです。今年行ってみてやっぱり自分の水俣への付き合 い方接し方とかが、未だ自分の中ですっきりと確立は全くしていないんですけど。大学入って、例えば水俣と出会っていく上で、いろんなことと出会う時にどう したらいいんだろうって思っています。別に自分が一生それに尽くしていこうとか思っているわけじゃないから、何をやる時にもどうすればいいんだろうと思っ ていたんです。水俣行ってどの方も自分の生き方を話してくださって、それと接することと一生やっていこうということより、まずその時出会った人と自分のこ れから生きていく上で感じ取れること、感じるだけでもいいから、それでもいいからいろいろやってみることがいいんじゃないのかなって思いました。今回水俣 行くことで、これから大学生活できっとまたいろんなことがあると思うんですけども、そういう接し方とかスタンスとかちょっと自分の中で出来た気がしていま す。私は現地に行ったのは実際初めてだったので、これなら来年も行けたらいいなと思います。

みんななんかモヤモヤとか言ってたんで、私も違う種類のモヤモヤが一つだけあるんです。みなさんお話してくださる時に、先輩からも言われるんですけ ど「これからそれをどうしていこう」というより、「まず受け取ってくれたらいいんだよ」っておっしゃってくださるんですけど、でもやっぱり実際私たちが伝 えていかなければ、実際今原発のようなことだって起こっているわけだし。起こっているわけじゃないですか。だから受け取るだけじゃ、次のことが実際起こっ ちゃっているんだから駄目じゃないかとも思う。でも自分が今伝えていこうと思っているわけでもないし、でもなあっていうそういうモヤモヤです。今日はよろ しくお願いします。

安藤:はじめまして、安藤と申します。埼玉大学に来て13年ぐらいです。水俣の合宿を始めたのは2005年からですから、今から七年ぐらい前から始めました。

やっていることは環境教育とか、公害教育とかっていうことをずっとやっておりまして、自分の大学の恩師もそういうことをやっていたので、水俣のことに関心 はずっとあったんです。学生さんたちがよく言うんですけど、僕らの頃の水俣はいろんな意味で遠いところがありました。いろんな意味で、物理的な距離も遠 かったですし、それからやっぱり運動の激しさとかいろんなことがあって、そういうことの中でなかなかやっぱり踏み出せないで来ていたということがありまし た。さっき学生J君のお母さんの話がありましたけども、僕も学部二年生の時ゼミがあったんですけど、全く同じなんですけど、ある日突然友達が「大学辞め る」って言って、「どうすんだ」って言ったら「水俣に行く」っていうですね。こないだから名前を思い出そうとしているんですけど、2か月ぐらいしか一緒に いなかったものですから、これからはちゃんと聞いとこうと思うんですけども。そんなことがあったりして、僕自身はその頃重度障害者の支援の活動みたいなこ とをやっていて、いろんなことで?がりを感じていながらも水俣には来てなかったんです。

2000年代の初めぐらいに水俣に行ったんですけど、その時にほっとはうすさんに行って胎児性の方とお話をしていた時に、本当に恥ずかしい話なんで すけど、この人たち僕と同世代だっていうことが衝撃でした。その瞬間に、永本さんと話をしていた時に、研究者としては言わなきゃいけない、やんなきゃいけ ないということはあったんですけども、自分の世代の問題だって改めてその時気が付いたみたいなとこがあってですね。それで自分の世代の問題なんだから、後 の世代の問題でもあるはずだっていうですね、それでもって合宿やりはじめたんです。2005年に初めて行ったとき10人ぐらいだったんですけど、正直言っ てよく集まったなと思ったんです。まさかこんなに長く続くとは思っていませんでした(笑い)。リピーターが出るってことも思っていませんでしたし、僕に とっても水俣合宿っていうのは面白いなと思っています。今日は吉永さんたちや相思社さんのお力を借りて、何をやっているのかどっかで分かるといいな思いな がら参加させていただいてます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

遠藤:安藤自主ゼミって随分謎が深い取り組みだなと思うんですよね。単なる僕の疑問なんですけど、皆さんが3泊 4泊で水俣に来られるじゃないですか。ゼミの単位になるわけでもない何にもならない、かつ何の支援もないから自分のお金で行っている。モノ好きな学生さん だね、と俺は思うわけだよね。でも埼玉大学の学生は評判がいい。どこ行っても評判がいい、ちゃんと聞いてくれるとかちゃんと仕事してくれるとか、ちゃんと 見てるねとかね。いろんな秘密はグループの構成に隠されていて、1年生から修士までいますね。今まで便所を掃除した学校なんてないんです。「何考えてんだ この大学は」っていうね(笑)。だからね、不思議な人たちだなと思うし、いろんな不思議なことがいっぱい起きているし、ネタが山のようにあるなと思ってい ます。自己紹介に突っ込みいれてると終わっちゃうのでももう止めます。

水俣病情報発信事業って環境省と熊本県が、水俣病のことを外へ伝えていこうってことをやっているんです。何人かからも出ましたが「水俣病を伝えるっ てどういうことよ」「知るってどういうことよ」って、それぞれ問いがあると思うんだけども、行政の人たちは中身は問わないんだよ。その中でどういう話が話 され、どういう課題があり次回に何を残したのかが本当は大事なはずだけれども、行政的には全く大切ではありません。

最初言ったのは『ごんずい』でやっているその「水俣病患者とは何か」という議論をベースに、この集いで質疑応答とか水俣行った時の感想も含めてその 関連で話が盛り上がっていくといいなと思ったら、安藤さんから「相思社でもやっとたどり着いた結論に学生をいきなり巻き込むな」ということでした。「自己 を開示すること」ここらへんから始めようじゃないかという、非常に冷静なご指摘をいただき、ほとんど主催者は安藤さんだなと思っています。準備も含めて全 部埼玉大学にやっていただいて、本当にありがとうございます。ではこれにて終わります。

永野:相思社に入って3年の永野と申します。よろしくお願いします。私は相思社から歩いて5分くらいの水俣市袋 出月で生まれ育ちました。集団行動が嫌いで、学校にはほとんど行っていないので、皆さんみたいな人たちが来てワイワイやっているのが新鮮で毎年楽しみにし ているんです。何をしていたかというと、学校に行かずにいろんなところに行って、いろんな大人を見て、ガイアに行って大人たちの中にいたりとかですね、一 人で近くに冷水の森があるんですけど、そこに先生から逃げていたりしていたんです。

中学を卒業して高校から熊本市内に移るんですね。その前にも水俣病のことなんかで少し差別的な話を聞いたりして水俣病に対してのイメージが、私がい る水俣は「水俣病の水俣なんだな」っていうのを思っていたんです。外に出て私がしたことは生まれたところを隠すというか、芦北とか隣町の名前を言っている 自分がいました。だけれども小さい時から近くに患者の方とかいて、愛されて育ってきたというのは感じていて、その葛藤の中にいました。

18歳で子どもを生んで、その前に結婚するんですけど、その後離婚するんですね。その時に、水俣に帰ってくる選択肢があったんですが、帰ってくる気 持ちになれずに、子どもも水俣出身になるな、ということもちらっと思ったりもしました。小学校の頃から習字だけは習っていたんですが、習字の先生が水俣病 の裁判をしているということを知ったんですね。ちょうど熊本市内にいて熊本地裁でやっていたので、傍聴に行ったのですがそこで初めて水俣病を知るというか 衝撃だったんです。全然関係ない、水俣病とは関係ないと思っていたし、もうちょっというと患者さんたちがいるから水俣病の水俣なんだと少し思っていたの で。こんなに近くにいた人が水俣病の裁判をしていたっていうのにも衝撃を受けたんです。その先生のお母さんが17年間放置されていてということを訴え続け ていて、長い期間自分は何を見てきたんだろう。ずっと一緒にいたのに私はなぜ知らなかったのか、知ろうとしなかったのかっていうのが恥ずかしくなって、水 俣病を隠した自分も恥ずかしくなって、その後にしばらく子どもを連れてウロウロしていました。障害者の福祉施設とか作業所とか環境に気を使っているところ に行ったので、そこから水俣病の名前を聞いて。どこで生まれたの、って聞かれて水俣って言うとそこの人が水俣病の話をしてくれる。それまで受けてきた差別 的でない水俣病の話をしてくれる。だんだん水俣病のイメージが変わっていって。

ちょうど子どもが小学校にあがるっていうので、子どもからも学校に行きたいという話が出て、水俣に帰ってみようということで。帰ってみたら私の周り にはいい環境が整っていて、どうせ水俣に帰るんだったら水俣病のことを仕事にしたいなと思って。今もそうなんですけど、水俣出身ということがすって出てこ ないということがコンプレックスで、水俣病のことを知ってからのコンプレックスとしてあったので。一つ挑戦をしてみようということで相思社にはいった。皆 さんが初めて水俣病を知った時と同じような感覚に、水俣出身の私もなっていて、モヤモヤしています。このモヤモヤは大事だと思っています。

今は溝口先生のお家に定期的に通っています。だんだん体が悪くなってご家族の方もだんだん年老いてきて、今介護支援の手続きなんかをお手伝いをして いて、支援ってなんだろうっていうのをずっと考えています。相思社では「患者とのつきあい」ってテーマがあるんですけど、今までのつきあいを見直している と私は思っているんです。でもそのままでは、仕事としては私の中では曖昧になってしまう。付き合いだからいいや、というところが出て来てしまう。今は支援 のプロになりたいと思っている。その支援のプロが何なのかも考えていきたい。

遠藤:みなさんが話されたモヤモヤのこととか悩みのこととか、実は僕が悩んでいることともテーマとしてはとてもよく似ている。だいたい失敗のほうが良い経験値になるので、がんばってねと思っています。

僕が永野のことが気に入ったのは、入社した時の口癖が「相思社は間違っています」と言うんです。「それなら辞めろ」と言うと「辞めない」というし、 「私が変えます」という。今まで間違っていると言って辞めなかった人は珍しい。だんだん高まるやつは珍しい。安藤ゼミの人たちもちょっとそんな気がしてい ます。

正実さんの本を読まれたことと思いますが、あんな人生はそうざらにないなと思っています。正直に生きるといいながら水俣病患者と自分を名乗れるまで は正直じゃなかったんですか、と突っ込んだんですよね。そしたらあまりうまくは答えられなかったんですよね。でもその間も不正直ではなかったんです。水俣 病のことは言わなかったし認めなかったということはあるけれども、そのことで悩んでいた。本当のことと嘘のことの間の境界っていうのは、僕らが考えている ようなものではないのかなというような気もします。その辺が正実さんから聞くというところで学べる。僕ら自身も勉強になっている。

水俣病患者とは何かというところで、実は未だに即答できない。一番標準的なことがうまく答えられない。水俣病事件が起きたことの認識の集大成の中に は、膨大なトリックがあるに違いないと僕は思っています。じゃないとこんな変なことは起きない。順番に江戸時代の歴史を学ぶように、整理されてできるんだ けど、水俣病事件って表の時制上の整理はできているけど、中身のことについて言うと、ずいぶんとタブーとか秘密とかあると思っています。その第一弾が、 「水俣病患者とは何か」だったんですよね。でもその中でも一番核心は、緒方正実の自己を開示すること・吉永理巳子の自己を開示することかなと思います。そ のことからしか始まらないというのかな。みなさんが人に出会って聞いたこともそういうことだと思います。

○吉永理巳子さんのお話

理巳子:改めましてこんにちは。水俣からまいりました吉永理巳子と申します。今日初めてみなさんにお会いして、 埼玉大学の方たちと私は初めてお会いしたと思うんですけど。私がもっと若いころに皆さんに出会えればよかったなって今思いました。こんなに水俣のことを熱 く語ってくれるみなさんっていうのは、私のみなさん頃の年頃では考えられなかったんですよ。だから、すごいなっていうのを正直思っています。

私は水俣に生まれて今も水俣に住んでいるわけです。水俣に生まれて暮らすっていうのは、それこそ普通、もう何の抵抗もなく当たり前のことだと思って ずっと過ごしていたわけですよ。だから私の生まれた時の、家族の状況とかそういったのを話さないと分からないと思うんですけど、私が生まれて3年ぐらい 経って水俣病と出会っているからですね、水俣病があることも私にとっては普通だったんです。そんなにみなさんから特別に見られることではなかったんですよ ね。だから今50年経ってですね、ここでこんなに水俣病のことを、みなさんが水俣にわざわざ何回も来てくださって、水俣について考えてくださるっていうの は、当時の私にとってはちょっと考えられないことだったですね。だから本当はですね、私たちにはみなさんと同じような境遇が欲しかったですよね。私たちは 水俣病っていうのを、水俣にいながらも他所の町で起きた感覚でしかなかったです。小学校、中学校、高校を通してですね。自分たちの町で起きている大変なこ とだっていうような思いっていうのは、私の中では全然なかったです。だから今日来て私の方がですね、衝撃を受けました。そして水俣病っていうのは考えれば 考えるほど、みなさんモヤモヤするっておっしゃったんですけど、やっぱりモヤモヤっていうのが付きまとう病気だなって思いますね(笑)。

だから『ごんずい』の座談会でも水俣病は何かっていうを聞かれたんですよ。私は単純に、最初我が家に水俣病がやってきたわけです。私は自分で水俣 病って思ってなかったんですけど、最初に水俣病じゃなくて奇病っていう名前で我が家にはやってきました。私が生まれたところは水俣湾のすぐそばで、水俣病 資料館に限りなく近いところです。そこに生まれて、まず私が水俣病と出会ったのは、父親が最初に水俣病になったんです。その父親は奇病って呼ばれたですよ ね。私が3歳の時です。3歳の時だから当然私は父親のことは覚えていないです。断片的に覚えているのは、私の父親が病院に入院した時のことです。それから 退院したことを覚えています。1954年、昭和29年に私の父親は病院に入院しまいした。チッソ附属病院に入院しました。そのことを何で覚えているかって いうと、一つは父親が言った言葉なのか、誰が言ったのか、入院した患者さんが言ったのか分からないんですけど、「あー」っていう叫び声を聴いたのを覚えて います。それと、チッソの附属病院っていうのは第二小学校って、私たちの校区の学校がすぐ近くにあったんです。そこの小学校で運動会があってたと思うんで すけど、その運動会の練習をしている音楽が未だに焼き付いているんです。「山の音楽隊」っていう、後になってそれは知ったんですけど。その音楽ですね、そ れを聞いたのを覚えているんです。だから父親の記憶はそれぐらいですね。

それから退院して何カ月かは温泉治療に行ったんですね。その時一緒に連れて行ってもらったのを覚えています。それは自炊の湯治場ですよね、温泉場が 鹿児島県の出水っていうところにありましや。当時この病気には温泉がいいっていうことが言われていたらしくて、そこに湯治治療をするために私と母親と父親 の3人で行ったんですね。その時に自炊をするから残飯が出ます。残飯をね、庭に捨ててたんですよ。そしたら犬が食べに来たんですよ。その犬を追い払うの に、私が確か石かなんかを投げたと思うんですけど、その時にここを噛まれた記憶があるんです。だからそれを覚えています。それが多分四歳の時。5歳の時に 父親は亡くなりました。

私は記憶にないんですけど、亡くなる前は言葉も出ないで痙攣がひどくて、チッソ附属病院に行ってたった20日で亡くなったからですね、どれくらい病 状がひどかったかわかると思うんですけど。私の父親は病院で亡くなったわけじゃないんですよ、そんなにひどい状況なのに家で亡くなったんですよ。昔は生ま れるのも死ぬ時も家だったんですよね。だから病院からわざわざ、瀕死の状態なのに連れて帰ってくるわけですよね。父親が帰ってくる時の様子を教えてくれた のは、当時、チッソ附属病院の細川先生の運転手さんをされていた方で、坂本さんという方です。その方が私の父親と母親と私の祖母三人を車に乗せて、家まで 連れて帰ってきた。家まで帰る途中に、金毘羅山っていうお宮があるんですけど、その金毘羅山を通って来る時に、父親がキッとひきつけを起こしたそうなんで す。それを私のばあちゃんはしっかり抱きとめとったっていうことなんですけど、それから帰ってきて亡くなりました。

私はお葬式の時に5歳です。集まってくるおばさんにタオルを配って回っていた。みんなが泣くもんだから涙をふくようにタオルを配って回ってた。それ を見ておばさんたちがもらい泣きをしていたということなんですけど。私によく質問があるのは、お父さんが水俣病って知った時にどんな思いましたかって。だ けど私は3歳の時に水俣病と出会っているわけですよ。だからその意識をいつしたのか自分の中ではよく分からないですね。水俣病って知った時にどう思ったか なんて、いつのことなのかぐらい分からないです。それが最初の水俣病と私の出会いですよね。明神って私の生まれたところなんですけど、そこにはたった四軒 しか家がなかった。その中でも私の父親が発狂して亡くなる。隣の胎児性の金子さんとこのお父さんも、私の父親と同じように狂い死をする。私は胎児性という 言葉はあまり好きじゃないんですけど。たった4軒しかいないのに、周りはすごい症状を抱えた病人の人たちがいるわけですよ。だけど暮らしている私たちは、 その人たちが変だとは思っていないんですよね。普通ならそんな病院の人がたった四軒しかいない村に起きるのはすごいことだと思うんですけど、みんな大人の 人たちは平気で暮らしていたっていうか、私たちも平気でそんな人たちと病気の人たちもいる中で平気に暮らしていたんですよ。じいちゃんの発病は私の父親が 亡くなったたった1か月後です。父親が亡くなった後に。その話をする前にその時の家族構成ですが、父親の職業はチッソに勤めていたチッソマン。私の祖父と 祖母は漁師フィッシャーマンです。

学生K:それは父方の?

理巳子:父方ですね。だからなんかこの話をすると、本当に我が家に加害者と被害者がいたというようなことを言わ れるんですけど、そうじゃなくて普通に暮らしていたんですよ。漁師のじいちゃんとばあちゃんが魚をとって来て、私の父親はチッソの勤めが終わったら魚をと りに行ったりして、食べるためにとっていたからですね、普通に暮らしていたんですよ。その中で劇的なのはチッソに勤めていた私の父親が最初に病気になっ て、亡くなってしまったということですよね。父親は36歳で発病し、38歳でなくなりました。

その後に私のじいちゃんが同じ病気になったんですね。じいちゃんは10年間ぐらい、病院に入院しませんでしたから家で寝たきりになってました。だか らじいちゃんは言葉が全くでなくなったんです。「あーあー」とか「こーこー」っていうような言葉しか出なかったですよね。だけど、私たちの言うことは全部 分かってました。だから今私は考えると、私は自分が言葉で話せないイコール、言っても分からないって思っていたんですよね、小さい頃は。じいちゃんは自分 で話が出来ない分、私たちが言っていることも分からないと思っていたんですよ。だけれども、じいちゃんは私たちが喋ることは全部理解できていたし、知って いたんですよね。そんなことは大人になって考えたことです。だからじいちゃんが寝ているところで、枕元で平気でじいちゃんの悪口を言ったり。ですけど、今 になって後悔してます。中学2年生の時にじいちゃんは亡くなりましたが、じいちゃんが寝ているということは、小学生の時はそんなでもなかったんですけど、 友だちを家に連れてくるのが嫌だったんです。じいちゃんが寝ていると「なんでじいちゃんが寝ているの」って聞かれると、「水俣病で寝ている」というのを言 わないかんからですね。なんか水俣病っていう言葉を使いたくなかったんですよね。水俣病っていう言葉を私が使い出したのはつい最近です。小学校中学校高校 通して、水俣病っていう言葉をあまり使った記憶がないですね。水俣病の話を友だちと話したという記憶もないです。学校で水俣病のことについて学習をするっ ていうことも私の記憶ではないです。だから本当に、水俣病について自分で考える時間っていうのがなかったですね。そしてなぜその水俣病で水俣がこんなにい つまでも苦しんでいるっていうのを、私たちは若い時は考えるっていう時間がつくられなかったです。

だから今です、私がやっと水俣病について考える時間をもらっているのは。だから私の年代の人はほとんどの人が、水俣病の歴史についてもあんまり知ら ないんだと思います。原因はみなさんさすがに知っているだろうし、水俣病が移る病気じゃないことは知っているかもしれないですけど。なぜその50何年間も 水俣病っていうのが終わらないのか、なぜ自分たちがこんなに水俣で苦しんでいるのかっていうのは、私たちの世代の人っていうのはあまり分かっていないよう な気がします。

私も偉そうにこんなことを言うんですけど、私も本当に10年ぐらい前から。

遠藤:18年前です。

理巳子:もう18年前になりますか。もうね、逃げ切れるものならば、水俣病から私は逃げ切りたいと思っていたん ですよ。だから、今から18年前っていう指摘があったんですけど、その頃もうあと10年もすれば水俣病も50年経つから、みなさんの記憶から忘れ去られて 風化してしまって、我が家のことを問われることはないだろうっていうのを思っていました。早くあと10年ぐらい経たないかな、早く逃げ切りたいな。水俣 病っていうのが私の中からなくなれば、なんて軽い気持ちで生きられるんだろうかって思っていたんですよ。やっぱり水俣病っていうのは、私は直接面と向かっ ていじめの言葉を受けたりした経験はないです。だけど、水俣の中で語られる水俣病っていうのは耳に入ってくるわけですよ。「あの人たちは人が食べんような 腐った魚を食べて、そして病気になった人たちやろ」とか「あん人たちは補償金が目当てで水俣病になっとらすとやろ」「あん人たちは補償金ばもらって新しか 家建てて、仕事もせずにパチンコばかりしてよかよね」っていうな話が入ってくるわけですよね。私は自分の家族にも水俣病患者がいるのに、その話が入ってく るともうそこにいたたまれない気持ちになるんです。だからその話をされるところから、なるべく遠くに行きたいとずっと思っていました。私も高校生ぐらいの 時に、男の友達の人もできました。だけどですね、やっぱ家族のことについては話さないんですよ。世間話っていうか、他のことでは話すんですけど、家族のこ とについては私の記憶の中ではあまり話したことがないんですよね。父親には話が及ばないんですよ。今になって考えてみると、その人は私の父親が水俣病で亡 くなったっていうのは知っていたんですね。だからそのことを私のことを気遣って話さなかったのか、またその人も水俣病のことを話すのが怖かったのか。とう とう自分の家族のことを話さないまま、その人とはただの友達で終わりましたね。

その人は高校生だから友だちで終わったんですけど、それから結婚をすることになりました。その前に大阪に出て就職したりすることもありました。だけ ども、遠くに行って水俣のことを見て、水俣病のことを口に出すっていうのは多分1回もなかったと思います。その頃は水俣からなるべく遠いところに、場所も 遠いところにだけど、気持ちが遠いところに行きたいで精いっぱいだったからですね。水俣のことを話すっていうことは大阪でもなかったですね。結局は水俣に 帰って結婚をしました。結婚する時の、自分からはやっぱり家族のことを言えなかったんですよ。自分の父親のこと、そしてじいちゃんのこと。私の家族は、水 俣病患者は誰かっていう話にもなるんですけど、認定患者は4名います。私の父親と祖父と祖母と母親、4人が認定患者です。その中でもう3人は亡くなった。

私の家族に水俣病患者がいるっていうことを、結婚する時にはとうとう話せなくて相手方から言われました。結婚するってなると、どんな人と結婚するん だってことを相手方のお母さんはやっぱり心配するわけですよね。やっぱり水俣の人だから、狭い町だからそこの誰それさんって言えば、大概の人たちが「あ あ、あそこの娘さんはこういう人よ」っていうのが分かるんですよ。私と結婚するって言ったらば、相手のお母さんはすかさず聞かれて「お父さんは水俣病で亡 くなっとらす」っていうのを言ったらしいんですよね。私が結婚する前にその相手から「あんたのお父さんは水俣病やったんね」というのを言われました。その 時に私は初めてそうだったっていうのを、お見合いでもなんでもないんですけどね、その時に初めて水俣病のことを話しました。相手の人も私には「ああそう やったんね」というぐらいしか言わなかったんですよね。だから私は非常にその時に肩の荷がおりたような気がした。自分は今までここまで言わないといけない と思うわけですよ。私にとっては水俣病で亡くなった父親っていうのは、人に知られたくない部分だから、だけどもう結婚するっていう相手だから言わないとい けないと思うんだけど、ここまで出かかっているんだけど、それがポロって出てこない。だから相手から聞かれた時は、非常に、もう自分から言わなくていいっ ていう肩の荷がおりたのを覚えています。

それから時間が経って、子どもが3人います。一番下が30になるから、32、34と3人の子どもがいます。もう大人だからそれぞれ独立してますけど、一番下の子がまだ20歳になってなかった18年前に私は離婚したんです。その前後かな。

遠藤:理巳子さんが水俣病患者が家にいると認めた1993年には、まだお子さんは20歳前?

理巳子:20歳前ですね。ずっと水俣病のことを言いたくないと思っていたんですが、一九九三年頃ちょうど私の連 れ合いが青年会議所っていうところに所属していました。青年会議所っていうところでも、もう一回水俣病のことを学ぼうっていう取り組みがちょうど始まった んです。その時に、私の家族のことを話してくれないかっていうのを私の連れ合いから言われたんですね。私はずっと言いたくない言いたくないと思っていた時 です。その時、ちょうど水俣病を知ろうという取り組みがあった時に、水俣病の本を私にじゃなくて、私の連れ合いにある知り合いが貸してくれた。それを読ん だのが、最初の水俣病との出会いですね。水俣病を知りたくないと思う時には、水俣病のことの本を一冊もひらくことができなかったです。

今の私の連れ合いは利夫さんですけど、その時はもう水俣に来ていました。相思社っていうところに居ました。遠藤さんたちもいました。だけども私は水 俣病のことを避けていた時には、相思社の存在すら知らなかったんです。相思社に行ったこともなかったし、相思社がどこにあるのかも知らなかったんです。水 俣病のことを最初に知ることになったきっかけになった、『水俣の啓示』っていう本ですけど、その本を開いて、やっと水俣病っていうのが我が家のだけの病気 じゃないっていうのに気付いたんです。私にとって水俣病は自分の父親の病気であって、じいちゃんの病気であって、家族の病気だったんですよね。その本を開 いた時に、本当は排水を止めようと思えば止められたんじゃないか。なぜ止めなかったのかっていう疑問がわいてきました。止めさせようっていう人たちをいろ んな手づるで、役所の人だったら違う部署に移したりして、排水を止めさせなかった。
そのことを知った時に、私は父親のことを考えたっですよ。私の父親は自分が何の病気で亡くなったかっていうのは知らないです。私は5歳の時に父親が亡く なっていたから仕方がないと思っていたんですよ。だけど、でも排水を止められたのに止めなかったって。私の父親は裁判をする機会も与えられなかった。私は そう思って父親のことを考え始めたら、父親が生きていたらどんなことを考えたろうかっていうのを思い始めたんです。そしたらですね、もう涙が出て止まらな くなって、夜になって何回もその『水俣の啓示』っていう本を読んだことがあります。父親が生きていたならば、このまま曖昧なことにして終わらせなかったよ ね、っていうのを思ったんですよね。私の父親のイメージは、五歳の時亡くなったからですね、他の人から聞いたイメージしかないです。母親とかおばさんから 聞いたイメージしかないんですけど、私の父親はチッソの中で組合活動をしていた。チッソっていうところは身分制度が徹底していて、どんなに仕事が出来る人 でも学校を出てないと駄目なんです。大学を出てないと、上の方にも上がれないし、認めてもらえないっていうのがあって。給料も安いっていうのがあったんで すよね。だから昭和25・6年に身分制度の撤廃っていう運動をしています。父親がもし生きていたら、そのままチッソが今終わらせようとしているようなこと では、しなかったっていうのが自分の中ではあって。そんなことを考え出したら、黙っていられなくなったんですよね。黙っていようと思っていても、なんか父 親がそんなことでいいのかってことを言っているような気がしたんですよ。私が水俣病のことを恥ずかしい恥ずかしいと思っている間は、子どもたちも水俣病っ てそういうことでしかとらえんだろうって。もっとやっぱりなぜ、なぜっていうのを考えろってメッセージをもらったような気がしたんですよね。その時にちょ うど、「そろそろもやい直しば始めんば」というので、水俣市からだったですよね、あの時にみんなの前で話をしてくれっていうのがありました。1993年、 その時に初めて自分の家族のことを話しました。「やっと話したいと思うようになりました」ですかね。

私が話そうと思っていたのは、みんな水俣の中でも水俣病っていうのは本当に貧しくて、人が食べないようなものを食べる人たちが病気になると言われて いたんですよ。貧しいって、当時はモノもそんなになかったから、貧しかったかもしれないですけど。水俣の人たちがいうように腐ったようなものを食べたりす る、そんな貧しさじゃなかったよなっていうのがずっと自分の中にありました。私たちも普通に、魚はすぐ下が海だからとって食べてました。おやつも、家の周 りにいっぱいあったから、カテシモモっていうモモをとって食べたり。クチナシノハナを食べたり、ナスビを食べたり、それも私たちのおやつです、全部。食べ るものにもそんなに不自由はしなかったんですよ。家で鶏も飼っていたし。お店はなかったですね、そういう意味では不便だったですけど。鶏の卵を食べたり、 つぶして鶏を食べたり。そんなに言われるほど、貧しいのかなっていうのが私の中であったんですよね。

私の兄はクラシックが好きだったから、クラシックを聞いたりしていました。だから「水俣病患者」っていうので勝手にイメージをつくって、「水俣病患 者」イコールこんな人たちって一緒にされるんです。一束にまとめられていたんですよ。だけど水俣病患者っていう人の中にもいろんな暮らしがあって、いろん な考えをもっている人がいるんです。つくられてしまった水俣病のイメージが、私の中にはずっと違和感があったんですよね。だから今でも水俣病っていうのは 私でも分からないです。つい最近、水俣病事件っていう言葉が、ああそうだよな、水俣病っていうのは病気じゃなくて事件なんだっていうことを思うようになっ たのはつい最近です。だからもっとなぜ、なぜっていうのを考えていくのが水俣病なのかなと思います。

私の話はこれで終わります。

○吉永利夫さんのお話

遠藤:理巳子さんの「やっと話したいと思うようになりました」という企画をつくったのが、吉永利夫さんなんです よね。理巳子さんのお話は、94年の環境創造みなまた推進事業という事業の中でやるんです。熊本県と水俣市の事業の事業だったもんですから、僕らは行政に は92年まで協力していないんですよ。相思社というのは元々、行政とかチッソに敵対してきたのが売りだったもんですから、今更一緒にやるっていうのは ちょっとまずいんじゃないのって。支持者に愛想つかされちゃ困るなっていうんでちょっとビビりながら。でもこの時代、僕の勝手な解釈ですけども、1989 年にベルリンの壁崩壊して以来、全世界で社会主義だ共産主義だっていう未来はなくなりましたから、どうしていけばいいのか悩んでいました。水俣をどうすれ ばいいのっていうのは、相思社もけっこう悩んでいたわけです。その時に相思社は甘夏事件を起こすんです。

水俣病事件、運動的かかわりの転機であるという認識がそれなりにはあったのね。やはりこれまでのチッソや行政との関係ではにっちもさっちもいかなく なっているんじゃないの。それもあって、環境創造みなまた推進事業は魅力的ではあったんだけど、結構躊躇しました。ただ、九三年からは恐る恐る関わり始め るんですよね。93年、相思社はユージンの写真を10点だけイベントに出すんですね。その翌年から吉永は全力で環境創造と付き合いだすんです。その時のイ ベントが理巳子さんの「やっと話したいと思うようになりました」っていうのがメインだったんですね。確かに今から振り返れば、非常にいい流れなんですが、 でもその時はドキドキもんですよね。理巳子さん自身が本当にこんなことしゃべってもらっていいのって思うし、相思社がこんなのに関わっていいのって思って いたんです。吉永利夫さんに今の話をもうちょっと詳しく、自分の意志も含めて話してもらいます。

利夫:どうもこんにちは。私は自己の開示を迫ってきたほうなんで、その話をしようというんで来ました。1951 年に静岡に生まれています。だから理巳子さんとはおない歳ですね。1972年に20歳で水俣に来ました。考えてみると、水俣病が発見されたのは1956年 ですから、私が行った時は、水俣病はもう終わっているっていうか、裁判はやっていたんですけど、あとは補償の問題だけでみたいなことだったと思うんですけ ど。それは発見されて16年後ですね。まさかこんなに長くなるとは思っていませんが。今私が水俣に行ってから40年目かな。

私の仕事は遠藤さんも一緒ですけど、みなさんとうちの理巳子さんたち被害者の人たちとかいろんな人をつなげる、今風に言うとファシリテーターの役を やっているかなと思います。私は水俣に行って水俣病センター相思社に入るのはだいぶ後なんですけど。彼女もそうですけど、結婚して離婚して再婚を僕らは経 験しているんですけど。

環境創造みなまた推進事業のところでは、だいたい遠藤さんが今話しましたけど、水俣湾の埋立地のヘドロ処理が終わって、熊本県は水俣のマチづくりを しようということを考えたんだと思います。県の人たちがやってきて、とにかく明るい街にしようというんで、「一万人コンサート」っていうのを埋立地で企画 します。我々相思社としてはそんなもの土砂降りになっちまえみたいなことを思っていました。というぐらいの時代もありました。その時に緒方正人さんが嫁さ んと一緒に「人殺しの水銀ヘドロの上でお祭り騒ぎですか」というビラを会場で配っていた。それを見て何日か後の新聞で、当時の細川知事がもうあすこの場所 で歌舞音曲はしません、みたいなことを言っています。後で聞く話ですけど、これが大きな転換点になって、熊本県としては明るい水俣みたいなことだけではこ りゃ駄目だっていうことになった。「水俣のマチづくりは水俣病のことを真正面に据えてやらないと駄目だってことに気付いたんです」っていうのを、後から聞 かされました。ということで、相思社に水俣病の写真を埋立地のイベントに展示してくれっていう依頼がきました。最初の年は断りました。

理巳子さんと私が知り合っていくのは、本願の会っていう緒方正人さん、石牟礼道子さんたちが中心になった団体の会議です。本願の会は、埋立地に自分 で彫ったお地蔵さんに思いを託して置いていこうとしていました。その人たちの会で理巳子さんが活動を始めていたので、水俣病のことをやっていた相思社の職 員の吉永は知り合っていくんです。青年会議所の人たちともだんだん僕らは知り合っていく。それまでは自民党、共産党はとんでもない奴の両極端だと僕らは 思っていましたから、自民党の人も青年会議所、商工会議所、みんな悪の根源みたいな思っていましたから、やっとそういう人たちと会って水俣病のことを話す ようになったんです。

後から聞いたらそんなチラシを回してくれたんだっていうくらいですけど、そのことをきっかけにして彼女は本を読みだして、水俣病のことを考え出した と思うんです。その時に、県の企画で副知事が来て挨拶するとか、他の水俣市民の人たちも、自分の水俣、水俣病への思いを文化会館という一番水俣の中で大き なホールで話しましょうってやっています。その頃一番仲の悪かった被害者の会の人と私が、並んで司会をする「もやい直し」みたいなこともしましたね。

彼女に「こういうことやるんだけど、話をしてよ」と開示を迫ったこともあります。今回、開示って話でちょっと考えてきたんですけど、どういう思いで そのときに私がこの人に「話をしてよ」、と考えたのかなと思い出すと、ほとんど何も考えないで言ったんです。みんなもびっくりするかもしれないけど、かな り適当に「話してくれない?」ぐらいだったと思う。彼女が話すのは大変だなってことはいくら私でも分かってはいました。人前で話すことも初めてだろうと想 像はついていたんですが、あまり分析はしていません。今でも同じようなことをやってます。

私はこれから来週水俣に帰って、次の日からまた大阪に3日間っていうのがあるんですけど、それは旅行社を周る営業マンになるんです。要するに「水俣 に来てくださいよ」っていう営業をしている。みんなも修学旅行行ったと思うけど、修学旅行って要するに学びのテーマがないといかんのよ。ディズニーランド に行く学校が一番多いんだけど、ディズニーランドに行くのはつけたしの位置づけです。でも本当はそれがメインなんだけどね。東京に行く学校は「東京の歴史 を学ぶ」とかね、科学館に行きますとか学びの部分がないとっていうのがあります。とにかく学びが必要なんです。水俣で何をやっているかっていうと、学びの 要素をつくっている。簡単に言ってしまうと、お寺に行ったり神社に行ったりするのがあるように、水俣病資料館見られますよとか、語り部の話が聞けますよ、 というのが水俣でいうと売りです。来てください、1泊2日しないと学べませんよっていうのを今やっている。要するにもっともっと来てほしい。人をいっぱい 集めている。

私はいろんな人をつかまえて話すのと同様に、この人にも気楽な軽い気持ちでちょっと話してよと言ったんですね(笑い)。面白い人だなって思うと「修 学旅行が今度来るんだけどちょっと話してよ」っていうノリで今でもやっています。これはね、どっかで自分では図っているつもりではありますね。この人はあ んまり無理言うと悪いなっていう人なのか、押せば話すなっていうのはたぶん私の感覚で図ってはいるつもりです。基本的にはそういう軽いノリなんです。みん な修学旅行生の前に出てやるときはかなり緊張してやる。さっきからみんなにも出ていたけど、モヤモヤしている。みんなね、水俣の人も。そのモヤモヤを話さ ないといけないわけだから「え、吉永さん何話せばいいんですか」みたいにかなり緊張して電話かけてくるやつとかいる。「そんなことはどうでもいいんだ よ」、とか「適当に話してくれればいいんだよ」とか、話したいことまず語ってもらう。でも「今度来る学校は水俣の人権のことを学びたい先生なんです」「今 度来る学校は水俣の再生を一生懸命子どもたちに伝えようとしている先生なんです」ぐらいのことは言います。だから「水俣で経験したこととか、水俣病のこと で気になっていることを話してくださいね」というのをやっています。だからこの20年ぐらいやっていることは全然変わらないですね。開示を迫ることを今も やっている。

もう一つやっているのは、開示を迫りながらお金にしているのがよそと違う。要するに普通は、沖縄のひめゆり資料館には証言員がいましたけど、基本的 にはボランティアなんですね。全国的にはこれが多いんです。被害を受けた側の、広島のあるいは長崎の原爆のことを話してくれる語り部というか証言員は、み んな多分ボランティアだろうと思うんです。ところで質問だけど、例えば理巳子さんが水俣から出て行くケースで、小学校から呼ばれたりいろんな自治体から呼 ばれると謝金をいくらもらうと思う?

学生K:10万円?

利夫:俺がやりたいのは10万円もらおうって思っていますが、まだそこまでは言っていない、3万円。水俣でやる ときは2万円。更にファシリテーターが必ずついて行きます。遠藤さんがついて行ったり、俺がついて行ったり。俺らは1万5千円。だからちょっと離れたとこ ろでやると4万5千円の企画になる。遠藤さんたちには話してくれた市内の人に五千円払ってますね。昨日まで普通の市民だった人に、いろいろ付き合いができ て、あっ面白いじゃんと思うと、その人に5千円払う。なんでそんなことをやっているかっていうと、水俣の人口は2万8千人ですが、高校生含めて小学生から 2万8千人全員開示させたい。開示して価値があるやつらだと思っている。それが幼稚園の子どもでも、今の子どもたちもどっかでテレビ見ながら、ニュースで 水俣病のことが流れると横でプチンと切ってしまう親がいたり、あるいはまた「こんなことやってんだよね」って幼稚園の生徒の前とか小学生の前で言っている 親がいると、私は想像しているんです。中には「患者の人たちは大変だね」って言っているかもしれない。とにかくそういう経験を子どもたちも親もしている。 これは立派な商品だなと思っている。他所から来た人に、幼稚園児が「僕のお父さんはね」って言えるんだったらこれは立派な商品。お前3万円もらえるぞって いう話だと思ってやっています。いつもそんなこと考えているわけじゃないけど、やっていることはそんなことです。

なぜ開示させたいかというと、この人がいつも困ってきたのは、水俣病は隠さなきゃいけないわけ。なぜ隠さなきゃいけないのか、なんで被害者が自分の ことをいやだと思わなきゃいけないのか、っていうことを私は変えたいと思っています。更に、変えていくためには話す方もプラスにならないといけないと思っ ているんです。三方良しっていうのもありますが、水俣病の語り部も一緒だと思っています。来てくれるみなさんもリピーターになったように、3万も4万も金 払って行くんでしょうけど、それでもまた来年も行こうと思っている人たちがいる。語る方も自分のいやなことを言うんだけど、お金のためにやっているわけ じゃないけど、多少お小遣いになると思う。それを我々は水俣に還元する。宿泊につながったり、お弁当につながったりっていっているんで、やっぱり嫌なこと を嫌なことだと思っている人が、多少の良いことにもつながる。というのと、修学旅行や研修で他所から人に来てもらうっていうのは、水俣の人たちにとっては 「なんで?」だと思っている。

このシーズンは一回調査したほうがいいと思うけど、観光バスが水俣の中をうろうろしている。要するに熊本県の小学5年生がバスに乗っていっぱい来て いる。水俣の人たちは多分、何人かは嫌な顔をして見ている。「また来ている」「水俣病のこと」「水俣病のことって、いいながらまた来やがった」って思って いる人もいると思うけど、他所から来るっていうのは魅力があるからですから、水俣病だろうとなんだろうと魅力があるから来る。それをお前らも魅力だと思え よっていうことですね、僕がやっているのは。お金をちゃんともらいながら、この人たちだけじゃなくて水俣に生まれて育ったあるいはよそから来た水俣の人 は、自分たちの地域にある素晴らしい水俣病を売り出せ、素晴らしいものだと思え、ということをやるために今の仕事もやっているんだと思います。そうするこ とで被害者に対する偏見、差別意識がなくなってくるだろうと思っています。そういう流れがないと人権学習やっているだけでは、被害者に対する偏見がなくな らない。この人たちが苦労して、正実さんたちもそうだと思うけど、何も悪くないのに嫌な思いをしているのは変わらない、それを変えようよと思ってやってい る。自己開示をこれからも迫るのかなと思っています。

○質疑応答

遠藤:公害とか、沖縄もそうだし、広島、長崎いろんなところでいろんな公害や戦争やらの被害があるんですけど も、それを商品化しようなんて考えているのは吉永利夫以外にはいない。相思社はこっそりやってるんですけども。どこもね、自分たちのやっていることは社会 的に意義があると思ってやっているんですよね。これは意志としては大事なんですけど、残念ながら長く続かないですね。やっぱりこれを続けられる仕組みをつ くるためには、それなりに金も必要だし、やっている人のインセンティブが生まれないと続きませんから。そういう意味で、吉永さんがやっていることは、この 資本主義社会の中で事業化しようという場合には必須ですよね。そういう意味で言えば、沖縄も広島も終わりに向かって始まっている。

実はそこばっかじゃなくて、資料館の語り部制度もこのままじゃ長くは続かないですよね。一体全体、いつまで水俣病を伝えればいいのかっていうのもあ るし、永遠にできるわけでもないし、何をどういうふうに考えればいいのか長らく僕らのテーマです。こういうことはどちらかというと、水俣に来ていろんな人 の話を聞かれたみなさんの中に答えがあると思っている。僕らの方は、答えは持っていないです。典型的には吉永さんがね、何の考えもなしに自己開示を迫って いる、今も迫っている。それはほぼ吉永さんの直感で、大方、直感が結構この人あっているんだよね。事態をよく、正確に把握していて。それは皆さん自身が水 俣に来ることの中にあるだろうし、いろんな人の話を聞いた時に思っていることの中に答えと発展する契機があるんで、残念ながら俺たちの中には多分ないんだ よね。俺たちも何とかしようという意思がないといけないんだけど、俺たちが一生懸命ああしたい、こうしたいって思って、大方空振りになっていて今までね。 そういう意味でね、僕や吉永さんにとってみると、埼玉大学の学生っていうのは、こんなうまい素材はないんですよね。今でも僕なんかは平然と言いますが、水 俣病を素材に仕事をしてきたと思っていて、みなさんは更にもっとおいしい素材なんですよね。この後、意見交換や疑問やらできればいいなというふうに思って います。よろしくお願いします。

安藤:とりあえずは、理巳子さんと利夫さんのお話でみなさんで質問があったら。

遠藤:あと、今回水俣に来て不思議に思ったこと、疑問に思ったことなんかもあれば是非一緒に。

安藤:とりあえずはお二人の質問の方から。あるいは意見でもいいですけど。

遠藤:僕としては彼あたりから。学生Cくん。

学生C:理巳子さんに。今回のテーマは自己を開示することなんですけど、それにはちょっと関係ないかもしれない んですけど、自分が小さいころに相手がおじい様の言っていることが分からないけど、理巳子さんとかの言っていることは伝わっているんだってことが分かっ たって言ってました。自分も水俣行く前だと、障がい者の施設に行ったりすることもあって、自分の兄が身体の障がいを持っているんです。そういう施設に行く ことが多くで、双子なんですけど兄は身体だけの障がいだから、自分の言いたいことはちゃんと言うし、知的な障害はないので大丈夫ですけど、施設にいる人の 障がいはさまざまで、やっぱり自分の言いたいことを伝えられない人もいます。そういう人に対してはどう思っているのか分からないし、逆に自分の思っている ことを伝えようとしてもそれは難しいのかなっていうのを感じていました。今回水俣に行ってみて、ほっとはうすのことだったり、話そうとしているのは分かっ て、でも分からないっていうこともあって。自分たちが伝えようと思って問いかけたりするときに、相手は分かってくれているんだなっていうのを感じる時が あって、自分はそういうきっかけがあったんです。理巳子さんはおじい様は自分の言っていることは全部分かっていたんだと思う、というのはどういうきっかけ があったのか。

理巳子:もちろん大人になってから思ったんですけど、うちの祖父はもともと漁師だったんですよ。一緒の漁師仲間 のおじさんたちがよくうちのじいちゃんの寝ている枕元に来ていろんな相談っていうか、話をしていたんですよね。だから今思うと、言葉はじいちゃんは出てこ なかったんですけど、おじさんたちの相談相手に多分なっていたんだなと思うんですよ。私のじいちゃんは網元だったからですね、漁の仕方とかそういうのもよ く知っていたんですよ。だからなんで来るのか、まだ小さかったから分からなかったんですけど、ちゃんと相談役になってたんだなっていうのを思いました。そ ういったことで、じいちゃんは実は自分では言葉は発せられなかったけども、私たちが言っている意味とか、自分がやりたい意志とかちゃんと伝えていたんだな というのが分かったんです。

10年間近く寝込んだままのじいちゃんっていうのを、その時にどんな気持ちだったのかなっていうのも私も考えるようになりました。その頃っていうの は介護の制度とか何もない時です。家でおしっこを私も取ってあげたこともありますし、うんちも取ってあげたこともある。だけどじいちゃんは全部分かってい るんですよね、自分がされていることも分かっているわけですよ。私の母親はじいちゃんにとってはお嫁さんですよね、息子の嫁です。父親が亡くなった時、私 の母は28歳だったからですね、28歳のお嫁さんに自分の下の世話を、じいちゃんはさせないといけないっていうその思いっていうのはどうだったかなって。 本当に息子が亡くなって申し訳ないなってこと思っているじいちゃん。そしてまた自分がそんな体になって、世話もさせないといけないということを考えた時 に、病気になったじいちゃんが、一番本当は辛い思いをしとったなっていうのをですね、やっとそんなことを考えられるようになりました。

安藤:じゃあどうでしょう。

院生A:お話ありがとうございました。お二人の接点となった大きな出来事として、利夫さんが理巳子さんに対して お話をしてくれないかと頼まれたっていうお話があったと思うんですけども。その時に、利夫さんはあまり何も考えずにということを言われていたんですけど、 理巳子さんは利夫さんの言葉を受けて、その当時どう思ったかっていうことについてもう少し詳しく聞かせていただきたいんですけど。

理巳子:確か市役所の方と二人で来られたと思うんですよ。「実は今回こんなことをするので話してくれないか」と いうのを、言われてきたんだと思うんですけども、その時はやっぱりなんかこう、そんなに重要なことを言ってくださいというようには、多分市役所の方も。そ の市役所の方もざっくばらんな方でしたから。そんな気持ちでは迫られなかったんですよね。だからかえって迷う時間が少なかったっていうかな。そんなに私も 拒まないで「いいですよ」という返事をしたと、その時は思います。あんまり重要なことだというような印象を受けなかったのがかえって気楽にしてくれたん じゃないかな、とその時は思いましたね。

「話したいように思うようになりました」というタイトルなんですけど、それもその市役所の吉本さんが夜に電話かけてきて、「おい、話の内容はなんに すいや」って言う。「そうですね、そろそろ話そうかなち思うようになったですけど」ち言ったら、そしたらそれがそのままタイトルになってたんですよ。そん なに大変なことだよっていうようなメッセージがなかったのは、私にとってはかえってその時にはよかったのかなって思います。

利夫:本になっています、今の話と喋っている内容と、私が司会して。ボロボロだね、ボロボロ泣いてましたね。

理巳子:『再生する水俣』かなっていうので出ています。

学生J:利夫さんの話では、開示を迫るときに割と直感で、基準は自分の中にあるけれども、割と自然と迫ったと おっしゃっていたんですけど、例えば僕の友人とか僕自身に人に言えない気持ちがあった時に、それがどちらか気付いた時に、それを心配してその人の気持ちを 何か打ち明けてほしいという気持ちを抱いたりすんですけど、開示を迫る、自分自身から迫っていくっていうのは抵抗があって。

安藤:みなさんの世代はそれをやらないと思うんだよね。開示を迫るって多分やんないんじゃあない?

学生J:それって、とてつもないことだなって思った。

安藤:世界にない。開示を迫るって。

学生J:開示を迫るっていうのは聞いたことなくて。それはなぜ、っていうのでさっき二つ、水俣病を隠さなきゃい けない人たちがいるっていうと、水俣病患者に対する差別偏見をなくしたいという気持ちっていうのが、僕の解釈ですけど、それが強い信念のように利夫さんの 中にあったから開示を迫れたのではないのかなというふうにお聞きしたんです。利夫さんご本人はどのように思っているのか、もう一度お話をしていただきたい んですが。

利夫:今ちょっと嫌になっているけど。

遠藤:この人の集中力は30分くらいかな。

吉永:それじゃないんだよ。これからも自己開示を迫ると思いますと、最後に言ったじゃない。今回の企画があった から少し考えなきゃなと思って、少し考えたことなんだけど、やっぱり今何人いるかっていうと30~40人くらいのプロフィールを持っている。それを先生た ちに送っているわけ、メールでね。先生はそれを見て、遠藤さんのお話を聞きたいです、みたいなことをやっているわけね。だから40人ぐらいの人に迫るって いうほどじゃないけど頼んでます。ちょっと嫌になっているのは、あなたが言った信念かどうか分からないけど、決意と覚悟がなくなっているんだな。だんだん 自分で考えると薄くなっている。だから理巳子さんに頼んだ時なんか、もしこの人がその場で泣き崩れてどうにもならなかったら、横から出て行ってもうちょっ と抱き起して場所から外してあげて、「今、お話途中でやめましたけど」と言って、あと10分や15分ぐらいは俺は喋るぞと当然覚悟していました。話せなく なったら横についておこうとか、覚悟ができていたと思うんだけど。そういうことも含めて、今は例えばこの人と同じような人がもしいたとして、なんかの関係 で知り合いになっていて、やっぱりこの人に話してもらおうと思った時に、言えるかなと。少々自信がなくなってきているのは、自分にそういう覚悟というかそ ういう自信が薄れてきたなというふうに思っているっているのが一つね。

遠藤:なんで?

利夫:語彙が少ない吉永さん流に言うと、めんどくさい、大変。めんどくさいっていうのは、かなり気を使ってよ、 そうはいっても。ヘラヘラはしているけどかなり気を使って、その人のある意味では自信話を聞かせてもうらならいいんだけど、どっかでマイナスの話をしてよ という部分があるじゃない。別に恥ずかしいことと思うなよっていうのはもちろんあるんだけど、とはいっても気の重いことをさせるんで、気を使ってやってい るんで。例えば正実さんに今でも頼むね、正実さんは1時間じゃ無理という、1時間半は欲しいという。吉永さんの役割は、要するに正実さんも1時間半は、っ て言われた時に、他のやつは言えないわけよ、正実さんがああやって熱心に話している時に、横から言って「正実さんそろそろいいですか」っていうのは、それ こそ俺だけだよ。俺も平気じゃないけど、かなり気が重いけど、言わないとバス出られないとか、船次乗るんだけどみたいな仕事をしている。そういうのもあっ ていろんな気を使うんで、その気持ちは自分の中でも緒方正実に言うぞ、ここは言わなきゃな、後5分しかないじゃないか、みたいなことでやっているわけだか ら。それは結構私としても、結構なエネルギーなんだよ。それを持ち続けていくのは少しめんどくさくなっているね。なんでかというと、今の仕事をもうやめよ うと思っている。要するに、簡単に言えばそういう覚悟、エネルギーみたいなものが自分の中で少しなくなっているのは、実は理巳子さんとこの何か月かどんど ん盛り上がっているのは、水俣病資料館を俺らのものにしようぜという気持ちになっている。市立の水俣病資料館だけど、このまんまあのままで終わらせていい のかと俺らもう六〇歳になっちゃったから、いくら長生きしたって80歳ちょっとやろ、と。こんなことやってられんの後10年だぜ、と。この間にあのまんま やらせんのか、俺らが死ぬまであの程度でいいのか、さっき言った商品にならねぇじゃねーかっていうのも含めてよ。どんどんこの人たちいなくなっちゃうんだ から、みんなみたい人が水俣に来て、リピーターになってくれないよ、と思っているわけ。ということをやりたいと思っていて、そっちにエネルギーを使いたい というのもあって、ちょっとそういう気になっている、という。

遠藤:補足が二つあります。一つは実はその決意と覚悟って結構大変なんですよね。つまり水俣病患者の話を、それ を時間通りに切って「よし、これにて終了、次」っていうのは意外と大変なんです。だってすっげー悪い人になるんだもん。盛り上がっている話の途中に、「す みません、もう時間ですから終わりですよ。あと3分で閉めてね」と。結構意義のある話しているわけだから、力のある感じでしか「もう終わり」って言えない よ。もちろんみんなは話を聞きたいわけだよ、聞きたいわけだから。そこんところは結構理解されないし、軽いようにとられているよね。単にお前が時間管理す るからそんなことを言っているだけだろっていうね。

もう一つ、自己開示を迫った失敗例がありますよね。被差別部落の解放運動の中では、部落民宣言というのをやらせた時期があります。それは、「私は部 落出身なんです」ということを学校とかクラスとか、先生が主にやらしたんだよね。もちろん自己開示をすることによって、元気になった子どももいると思うん だけど、そのことがトラウマになった。要するに言ったことがどんどんマイナスになったケースもあります。家でもお父さんお母さんに「お前も余計なこと、先 生の口車に乗って言って、ろくなことにならない」とか言われる。どんどん自信を失っていく。本当は自己宣言は自信をつけるためだったんだけど、残念ながら フォローも含めて難しかった。

ただね、水俣は一応そういうことについては右肩上がりかなと思っている。僕と吉永さんにはまだ続ける意志があるので、不利益になるかもしれないけ ど、一応まだ継続中なのでなんとかなるかなとは思います。決意と覚悟は変化してきたと言われると、これは別に話をつけないといけないという課題です。

学生J:補足ありがとうございました。利夫さんがきっかけとして開示を迫る決意をするときに、今の話だとある 第三者に向けて開示をするという話、患者の人が。ただ利夫さん自身は、自分は開示を迫ることが聞き手だったのか、それとも介入役というか場を設定する役割 が自分にあるからっていうのでやったのか。

利夫:それははっきりしています。場を設定するためです。もちろん聞きたいとも思うよ。でもやっていることは場を設定している。

学生J:その開示を迫るきっかけとしては、自分が話を聞こうという思いとかはありました?

利夫:もちろんそうだと思うけど、やってきたことと今やっていることは、要するに理巳子さんにとっては生まれて 水俣病に出会ってというか、そのまんまじゃない、あるとかないとかじゃなくて水俣病の中に暮らしてきたわけでしょう。私は逆に外から来て、いいも悪いもな いのよ。この人にとっては不幸なものだったよ、水俣病ってね。だけど私にとってはおじさんたちがおばさんたちがカッコ良くチッソに迫っていたり、知事に向 かってわーわー言っているおじさんたちが水俣病なわけ。すっごい面白いわけだよ。要するに偉そうにしている部長とかさ、その頃は20歳だからね今のみんな とあんまり変わらないから、みんなの年齢で知事に向かって「バカやろー」なんて普通言えないじゃん。ということを平気でやっているおじさん、っていうのを 後ろから見ていてやっているんだから、ものすごく水俣病ってすばらしいもの、吉永にとっては。もちろん帰ってその人の家に行くと、旦那が寝たきりで大変な こともあるんだけど、そういうことも含めてすごいわけだよ、何年も寝込んじゃっているなんてすごいと思えばすごいじゃない。みたいなことなわけ俺にとって は。「なんでそのことを自分から言わないの?」と思うぐらいの重みがあるわけよ。だから僕らと出会った頃のこの人たちの思っていることからすると、全く違 いますよ、水俣病に対する価値観というのが。俺らは金出してもお前ら聞けだよ。さっきあなたが言ったみたいに、この人の話を聞くなら「10万円出せよ」と 思っているぐらいにすごいことだから、ある意味で言うと「あんた早く言ったら、とってもいい話だよ、それ」みたいに言っているんだなと思いますね、多分 ね。

遠藤:ちょっと補足。要するに話す人がいて、聞きたい人がいて、場があるということが、この三位一体になってい ないと話を聞くというのは成立しませんよね。実は水俣の中でもこれが成立したのはそんなに古くない、90年代初頭がやっとだと思うね。それまで相思社でも やっていたけど、相思社のは運動だったからどちらかというと政治的扇動ってやつですね。要するに自分たちの主張をみんなに納得してもらうためにやってたこ とであって、決してその話す人の自分自身の人生であるとか暮らしであるとかを話していたわけではなくて、聞きたい人に聞きたい話を聞かせていただけ。極論 にすればね。それは語りとはちょっと違うんだよね。

安藤:僕、今これ大事なとこだと思っているんだけど、この自己開示っていう言い方って、多分みなさんにとってみ るとあんまり使わないと思うんですけど。ましてや自己開示を迫るって使わないと思うんだけど、自己開示を「カミングアウト」っていうような言い方をすると みなさんにとっては極めて身近な、日常的な話になってくると思うんだよね。みなさんが言っているカミングアウトみたいな問題とここで言っている自己開示っ て共通しているとこが多分違うとこがあるんじゃないかなと思っていて。

学生J:君はそのこと自身は卒論にしているところがあると思うから、ちょっと自分にとってみるとカミングアウトとはどういうことなのか少し説明してくれますか? その場とか聞く人、話す人の関係が違うと思うのね。

学生J:卒論でテーマが「障がいを持つ人のきょうだい」、健常児のきょうだいが、きょうだいの障がいをカミング アウトすることに関しての調査をおこないたいと考えています。そのきっかけは、自分自身の兄が障がいを持っていまして、自分がその当事者であるということ で、そのカミングアウトっていうことの課題意識があるのかなと。

僕が使っているカミングアウトっていうのは、自分を孤立させないためというか、自分がカミングアウトすることで、相手とのつまり自分自身でつくって いる壁を取り壊して、その人と関係性を結ぼうとか、更に強くしようとか、その人に話すことでその人との関係性の中に自分の場所をつくる。自分を孤立させな いためです。というのは、やっぱり水俣病の差別・偏見とはちょっと種類が違うと思いますが、障がい者に対する差別・偏見の目っていうのを自分の近くに何か 感じているのかな。自分も小学校、中学校と周りに兄が障がい者だっていうことは言えなかったんですね。そういうところの言えない、隠さなきゃいけないとい うのか、そこに関するもどかしさ苦しさなどがありました。ただ、それをほっといても大変なだけですし、それを自分から何回か語ったことがあるんですよ。そ の受け手の反応っていうのが、自分が想像しているものではなかったんですよ。そんなに本当差別する人とか、自分と距離を置く人っていうのが、話した後で 「ああそうだったのか」って受け止めてくれているというか。そういう経験もあって、やはりカミングアウトすることっていうのが、自分の生きづらさっていう 壁を打破していくためには、自分自身でその術があるんだっていうふうに思って、それが研究のテーマにしたいなというふうに思っています。

安藤:要するに、何かを言えない自分を抱えている生きづらさを持ってきたわけじゃない。そのJ君にとって水俣に行くというのは、どういう意味があったんですか?

学生J:僕らが合宿に行って何をしているかというと、患者の人の話を聞くわけですよ。その人にとってはつまり、 言えないことを言う、その場で言うってことで。それってやっぱ自分自身が潜在意識の中で求めていたことっていうか。自分はその時は聞き手ですよね、でもそ れを自分の立場の問題として思った時に、その語るっていうことがやはり人間関係の壁をつくらずに構築していくっていうか。やはりそれは毎年毎年合宿に参加 して、何年も同じ人にお会いして、やっぱり1年目とは違うし2年目は2年目で違うし。それは自分が聞き手としてどんどん合宿に参加していくことで、人間関 係が濃密になっていくということを感じました。その中でやっていたことは話を聞く、向こうの方は語るっていうことで。なんかそれは自分にとってのものすご いヒントになっているなと今は捉えています。

安藤:遠藤さんにしても吉永さんにしても、何のために来ているんだ、という問いかけをされているわけよね。何かモノ好きなのかとかさ。

学生J:一言でいうと、僕がお話を聞くというのは、どこか水俣病の話っていうのが自分の人生と共通することがあるな、というふうに何か感じていて、それを今四年生になり、言語化できるレベルで意識をできるようになってきたなっていうふうに思っています。

安藤:これは本当に何度も行っている人と1回目の人と全然経験が違うと思うんだけど、当面その辺についてみなさんの方から自分なりのあれを言っていただけるといいんじゃないですかね。いかがですかね?

院生A:最近思うのが、私は今年で水俣合宿が5回目になるんですけど、かかわり的に言えば6年目になるんです。 ふと思ったのが、1年生のころは私が行っていいのかなとか。水俣に行く理由を探しだそうとしてて、もがいていたところがあったと思う。でも6年目になって 「理由っているのかな」ってふと思ったりなんかして、単純に「今年は行かなきゃな」っていう思いがパッパッと出て来ていて。それが自分の中であったのか な。何に惹かれるのかなといったら、やっぱり自分のことを開示してくださる方を目の前にして、それで自分がその開示を受ける。そうすると自分の中で、さっ きJも言っていましたが、刺激されるものがあるんです。それで更にああいう環境、すごく開放的な環境があって。そうすると、それが言葉は悪いかもしれない けど、自分に追い打ちをかけるんです。すごくこう、自分もいろいろと話したいと思うようになっていく。さっきの話にも合ったけど、潜在的にそれを求めてい る自分に気づいたりとか、っていうところがあるんじゃないかなって。そういう時間が、場が楽しいんですよ。そこに魅力を感じている。水俣に行くと、学部の 1年生なんか全然知らなかったんですが、それまで全然かかわりはなかったのに、急激に仲良くなる。そういうところもある。それはすごく面白いし、それは先 輩としての魅力の一つかな。

安藤:Aさんの場合には、1年生のときからさ、歌にしたわけじゃない。歌をつくるわけね、自分でね。なぜ歌にしたんですかね?

院生A:高校ぐらいから自分で自分の歌をつくることがあって、ありがちな話なんですけど、歌の中に自分の想いを 込めるというか、そういう自分がいて。普段はあまり自分の思いを積極的に話せるほうじゃないんです。それで歌にしたいと思ったのは、水俣に行った自分って いうのが、そこに一番自分がいるというかいたというか。だからその時の思いを歌にすれば、それこそ本当に「正直な思いっていうのを表現できるんじゃないか な」ってその時は思ったのかもしれません。だから、1年生の合宿の最終日に私は歌を今回の合宿の経験を歌にします、ということで歌をつくりました。

遠藤:ちょうど彼女と一緒にギター持っていた男の子。1年下かな?

安藤:N君ね。はい。

遠藤:彼がレポートで、自分のお父さんとの和解の話をしてきましたよね。それまでお父さんとあまりいい関係じゃなかった。でもお父さんが脳梗塞で倒れて、水俣に来て水俣病の人の話を聞いてお父さんと話ができるようになったっていう話があった気がしたんですが?

院生A:はいそうです。

遠藤:Jくんの、カミングアウトもそうなんですが、話を聞いて自分自身を考えるようになった。水俣病の知識が 増えたなんて誰一人もいなかったから、俺良いなと思っています。そうじゃなくて自分自身を見つけるようになったって。Nくんがお父さんと仲良くなったのも いいし。そんなふうにして和解の話というのはなかなか面白いなと思ったし、埼玉大学ってなかなか次々面白い。

利夫:さっきから聞いていると、すみません水俣合宿では単位は当然出ているもんだと思ったし、自費だってことや何度も来ているリピーターがいるっていうのは、これはこの卒業生とみんなの今の話。何回か行った人の話を聞くと面白い。

遠藤:疑問が深まるやろ?

利夫:とても研究対象になる。なぜ続いているのか。基本的に言うとそれ以外の人っていないのかな?

遠藤:学生で来るのはなんかの補助がでるとか単位が出るとかが、そういうの多い。

利夫:うちもちゃんとそれを売りにして、大分のAPUはうちに来て4泊5日やると1単位っていうのを打ち合わせして。

学生J:合宿を自分たちで楽しんでいる。

学生K:なぜそのリピートするかっていうことなんですけど。おそらく、僕たち大学生の大学の環境っていうのは、 自己開示をすることをするのが難しい場なんじゃないのかなと思う、これはカンですけど。だからこそ、なぜ水俣に惹かれるかっていうと、自己開示をする人が 目の前にいるっていうことと、自己開示を迫っている人がいる。安藤先生もある意味では自己開示を求めている。なぜ僕たちが自己開示をしたいかというと、普 段できていないんだよね。もっとなぜ自己開示をするかというと、自己開示に対してJ先輩が言ったようにつながっていく人間関係だとか、A先輩のように自己 開示をすることが楽しみであったり、それがエネルギーになっているわけだよ。つまり自己開示っていうのは生きるためのエネルギーをつくっているもんなん じゃないかなと僕は思う。僕たちがなぜ水俣に惹かれるかっていうと、僕自身の考えなんだけども、一人ひとりの中におそらく自己開示を自分自身に迫っている 人がいる。一人の人間の中に自己開示を迫る僕と自己開示をする僕がいるわけ、そこのやり取りが葛藤を生むんじゃないのかなって思うし、モヤモヤを生むん じゃないのかなって思う。コラボっていうのはおそらく。

安藤:ここは大体が同じ学科(コラボレーション教育専修)にいるんですけども、KとGさん、2人は別の学科の学生さんなんですよね。

学生K:コラボっていうのは、自己開示を迫ってくる機会が多い。

安藤:それは吉永さんと僕が同じであるっていう仮説?

学生K:うん。

理巳子:自己開示をすると楽しくなるっていうのが、私が体験したのはあるんですよ。水俣病が嫌だったころは、私 のいとこも水俣病、彼女は本当に水俣病の症状も典型的にあるわけですよ。私はその人をずっと避けていたんですよね。水俣病のことを自分が本を読んだりして 考え始めた時に、私はたまたま生き残っただけじゃないかと気付いたんですよ。私はたまたま生き残って、水銀が入っている量が少なくて、手が動くだけじゃな いか、足が幸い動くだけじゃないか、言葉もまともに少しは出せるだけじゃないかということに気付いたんですよ。そしたらね、自分が一番身近な水俣病の人を 差別していたというのに気付いたら、笑いが出たんですよ。笑いが出た時に、初めて水俣病の人と話すことができた。それまで近くにいっぱい水俣病の人がいた のに、いやだと思っている時には話すこともできなかったです。だけどだんだん楽しくなってきたというのは、それからですよね。自分が本当に水俣病の人と出 会うようになってから、水俣病のことを考えるのが楽しくなった。学生Jさんが言われていたように、私も水俣病のこと嫌だと思ってずっと黙っていれば隠し通 せると思っていたんですよ。そしたら私が水俣病のこと話して、小学生の時の友達に会った時言われたのが、「本当は見えていた」。「私が水俣病のこと、お父 さんが水俣病だっていうのも知ってた」と、だけど「あなたが人から言われまいと思って、こうガチガチガチガチ守ってるのが分かっとったから、声かけられん やった」っていうの言われたんです。

安藤:それはおいくつぐらいの時?

理巳子:それは40歳過ぎてから言われた。それまで、本当、私は何だったのっていう。もっと早く返して欲しいと思うんですけど、してみないと分からない。体が楽になっていくっていうのは、少し自分の気持ちを開くっていうのはそういうことなのかなっていうのを体験しました。

学生K:自己開示が生み出すものっていうものは、楽しさであったり、人とのつながりだったり、いろんな快感だっ たり解放だったり、いろんなことが使えると思う。それはおそらく自己開示をしていくその人の言葉で、その人が考えている感覚で表せると思うんですけども、 おそらく自己開示が生み出すものっていうのは、よりよく生きていくためのものであるということはちょっと確信していますね。

利夫:遠藤さんが言ったこともあるからね、マイナスに働いちゃうこともある。

遠藤:それはその時の部落解放運動と今の水俣で、条件というか前提というか大分違うけど。

学生K:それはおそらく自己開示がなぜ失敗するかっていうと、場の条件が悪かった。つまり場の条件が合っていれ ば自己開示っていうのはうまくいく。より良きものとして回収することができると思うんですけど、その場の条件がやっぱり合わなかった時には、負の産物も生 まれてしまうということなんじゃないんですかね。

遠藤:個別的にはいろんなケースがあって、もう少しややこしい話はたぶん引っかかっていると思うんだけど、大筋は同じだと思う。

安藤:どうですか? 3年生。やり方は毎年いろいろなんですけど、今年は学生Lさんが中心なってやってくれたんですけど。たぶん、1年生の時にまさか自分が中心になってこんなことやるとは思わないでしょ?

学生L:思っていないです。そういえば、これは単位も出ていないし、お金もかかるし、結構な負担だなと(笑 い)。でもそれでもやっぱり進んで足を運んでしまうのはなぜだろうって考えていて、まだ答えがでなくて。今思ったのが、私は海と空とか好きだっていうのを 言っていて、それがずっと続いているからって思っていたんですけど、多分それだけじゃないんですね。例えば1年目にお会いした人と次の年に会いたいと思う 気持ちとか、例えばその時はあまり話せなかったけど、2年目になったら話すことが出来るとか。

個人的に今年は永野さんに名前を呼んでいただいたことがとってもうれしくて。永野さんは1年生時からお会いしていたんですけど、今年初めてそういう ことがあって、それがすごくうれしかったとか。あとは、話し手が話すっていうのは聞き手がいて成り立つことだから、話す-聞くっていう関係性が生まれると か。自己開示とかカミングアウトとか結構そういう重いもの、難しいところまではいけないんですけど、自分が話す、自分の思っていることとか自分が抱えてい た悩みとかを誰かに話すとか聞くとかすると、私は勝手にその人との距離が縮まったなっていつも思うんです。だからこそ、そういう自分の体験されてきた辛い 出来事とか苦しいこととかを話していただけるというのはやっぱり有難いことだと私たちは思いますし、そういう関係をずっと続けて来てくださっているってい うのも。そういう積み重ねがあって、どんどん距離が縮まっているんじゃないかなって思っていて。その関係性を望んでいただけている中でこうして毎年来させ ていただけるっていうのは本当に幸せなことだと思いますし。今年中原八重子さんにお会いした時に「来年も再来年も会いに来てください」っておっしゃってい て、それが私はうれしくて。最初に遠藤さんが埼玉大学は評判がいいとおっしゃっていたが、そういう中の一員として来られているのは幸せなことだと思うし、 今年は特にそれを感じて去年とか一昨年とか何で来ているのかとか特に考えてはいなかったんですけど、そういうのが知らないうちにあったのかなと思って。こ のメンバーで来れるから私も来ているのかなって、この埼玉大学として来ているから。

安藤:今日の話で、自己開示って結構重たい話が出ているんだけど、一方でみなさんからでてくるのは例えば覚えててもらえるとか、名前を呼んでもらえるとか、記憶されてるとか。それはどういうことなんですかね? 僕だって名前呼んでいる、何なんですかね?

学生K:名前を呼ばれるとそこにいるっていう感覚がすごい。

学生L:自分を認めてもらえる。自分がそこに、その人に会いに来ている意味があったのかなっていうか。そういうのを。名前とかじゃなくていいんです、どっかで見たっていうのを言ってもらえるだけでも。

安藤:もうちょっと、どうですか?

学生I:聞きたいこと、理巳子さんになんですけど、自己開示っていろいろあると思うんですけど、私も人に話して いないことって結構あるんです。私がそれを人にあまり話さないのは、別に人に受け入れてもらえないからではなくて、やっぱりテレビとかでも悪いことをした 人の話とか悲しい人の話とかあるじゃないですか。それってやっぱり人が聞きたいと思っちゃうからじゃないですか。本当に親身になっちゃうとかじゃなくて、 興味をそそられるような話だからテレビとかでやるわけじゃないですか。ここの人たちを信頼していないとか一切そういうのではなくて、自分が話をすること を、興味をひかれる話だからっていう意味で、そういう気持ちで聞かれるの怖いんですよ。本当に自分のことを理解してくれると言うよりは、人間の興味がそそ られるから聞きたくなるじゃないですか。

安藤:興味本位で聞かれることは怖くありませんか? ということ?

学生I:そういうことです。

永野:野次馬みたいな?

学生I:そういう。

安藤:言って自己開示して、受け止められればいいんだけど、受け止められない可能性だって十分あるわけだよね。

学生I:それについて反対されるんじゃなくて、ミーハー心って言ったらいいんですかね。受け止めているっていうよりは、ミーハー心みたいに聞かれちゃうことに抵抗はないのかなって思って。

理巳子:ありますよ、それは実際に興味本位で聞かれるっていうことも多分あると思います。だから怖くはないって いうか、本当に私だって全部が全部話しているわけじゃないです。本当にまだ話せないこともあります。だから自分がここまでは話せるっていうのでやっぱり話 しますよね。もしかしたら2人になったらまだ私が話せないことをもしかしたら話すかもしれない。だから私は資料館で今語り部をしていますけど資料館にはい ろんな人が来られるわけで、そういった意味では観光で来られたお客さんも、みなさんみたいに水俣病の学習をしてくる方もいらっしゃいます。だから私は自分 でここまで話すと思ったことは話してます。このことを言うとこの人傷つくなっていうことは、やっぱ話せないことがありますね。だから興味本位でっていうこ とがあるかもしれないですけど、自分が話せるだけのことは話しています。このことは自分で伝えたいし、話したいと思うことは話している。だけど、自分が話 せることと、話していいことっていうのはあると思うから、それは自分の中で考えて話しています。

学生I:それでもお話をされるのは、自分の為なのか、伝えるためなのか、そういうのってありますか?

理巳子:8割方自分のためなのかな、話しているのは。

学生I:話してよかったなって、今までを振り返ってそう思われますか?

理巳子:話してよかったと思いますよ。話すことで聞いてくださることがあるじゃないですか。話さないと分からな いですよね。だから水俣病についてどんどんなんでこうなのかな、と自分の中で深まりができてきたというのがやっぱりよかったなって思います。まだ話せない 時には、考えつきもしなかったことなんだけど、話してみてどんどんやっぱり水俣病の不思議さっていうのが自分の中で湧いてきたから、その点はよかったな と。それとね、水俣でお話を聞いてもらって小学生の時に聞いてもらった人が、もう高校生になった人なんですけど、いまだに年賀状をくれたり、手紙をくれた りしてくださるんですよ。そうすると、歳の差を超えてそんな交流ができるっていうのは、あんまりないんじゃないのかなって。おそらく水俣病があってのこと なのかなっていうのを思います。

利夫:今聞いてて思ったのは、普段私がやっているのは、この人たちが語り部で話している時って200人、300 人の子が同時に聞いている。アンケートとってないけど、ほとんど聞きたくて聞いているわけではない。いやいやっていうか「なんで俺たち修学旅行水俣なんだ よ」って。水俣ってなんだよって聞いている子どもがほとんどで、更に正直3分の1から2は寝ている。そうでない子どもいるよ。この人たちはそれが見えてい てしゃべっているから、そうとうひどいことさせているっていうのがみんなに言われて思ったこと。

もう一個はね、今日は話すことのエネルギーをもらって帰ると思いますよ。こんなに真面目に聞いたことを考えてくれる人が東京にいる。だからこの人た ち、正実さんたちの話を聞かせたいのは、これでも多いぐらい、10人ぐらいだと思っている。もう一方で、資料館は評価が人数になっているというのがちょっ と気になっている。本当は人生これだけ変えてくれましたっていうのが、何万人っていうのが評価になっていかないといけないなと。評価は人数だけじゃなくて 聞いたやつの何かを問題にする。

安藤:1年生あたりどうですか?

学生M:自己開示っていうのは、水俣病やる前から自分のテーマだったりして。自分の思いだったり、今まで隠した ことをいう時に、合宿のための事前学習でレジュメに書いたりするときに、不安に駆られながら書いたりする。不安だけど、けどこれがいつも自分なんだって 思ってレジュメを書いたり何かを話したりしてます。でも言った後は、それで自分を知ってほしいっていうのが強いんで、よかったということはいつも思うんで すけど。でもたまに不安がまさってしまって、自己開示というか、思っていることを言えなかったり、書けなかったりっていうのがあります。言った後書いた後 の楽しさはわかるんですけど、でもその不安をどのようにすればいいのかなって結構悩んでいるところでして、出来れば聞かせていただけばいいなと。理巳子さ んに。

理巳子:言ってしまえば、不安といっても自分でそこを耐えるじゃないですか。私は自分で言っただけのことは、そ んなに耐えられないようなことを言ってしまうということは、多分ないんだと思うんですよ。自分で言ったということは、それだけ自分に自信があると思うんで す。本当に言えないことっていうのは、自分がまだ耐えられない時には言わない。私も何のきっかけで水俣病のことを話すようになったんですかって言われるん です。それは一つは私は時間です。この歳になりました、40・50の歳になりました。その人にとっての出会いの時、その時間っていうのはあるんだと思いま す。だからまだまだ開示できないことっていうのは、もしかしたらあと何十年かの人生を積み重ねていく中で出てくるんだと思います。私は根っこに、ずっと水 俣病のことが嫌だと思いながら、ずっと自分の中に残っている、抱えているということをずっと分かっていたんですよ。それを出すタイミングっていうのが、 40年、50年かかったんだと思うんですよ。だから、時期はまた必ず来ると思うから、耐えられる自分になった時にはでてくるんじゃないかと思うんですけ ど。

安藤:ここは足りないとか、あれば。

遠藤:シンプルなんだけど、例えばこの4月から県内の教育事務所で人権担当の先生を集めて話しているんですね。 話したことに質問ありませんか、って質問しても疑問を言う人はいない。なぜかというと、人に質問するって人の言ったことが分かっていないとうまく質問でき ないし、トンチンカンな質問して恥ずかしいなと思うからしない。ということが多いと思うんだけど。Mくん、何の不安なの?

学生M:自分が認められないことに対する不安ですかね。

永野:埼玉大学に関する感想。毎年来るたびに、何人か心が揺れて揺れて帰っていくというのを見てきています。そ れはやっぱり自己開示した人たちなのかなって、すごいと思っています。水俣に来て、心が揺れたり不安定になることを認めてくれるのが安藤ゼミだと思ってい る。このゼミが続いている理由の一つがそれなんじゃないかなと。

利夫:補足みたいなものなんだけど、このメンバーってやっていること自体が自己開示を内包しているんでしょ。

安藤:自己開示は、こういうところポイントだなと思った。今回。

利夫:そういう意味ではこの場そのものが、自己開示を考えさせるような関係性があるんだなって、さっきからずっ と聞いていて思いました。だからリピーターになってくれてんのかな。それから、これが自分なんだということをMくんは言っていたけど、これが自分なんだと 思えるかどうかだと思う。ちゃんと論理立てて、説得しようとする自分がいたりさ、この人にはそういうふうに言わないといけないとか。いろいろあるんだけ ど、どうせそんなことは俺はできないと俺は思うから、そういうことをちゃんと自分で理解しているから、自分でそう思えればいいんですよ。

遠藤:勝手に総括的なことを言うと、2月1日に緒方正人、緒方正実、吉永夫婦を呼んで座談会をやったんですけ ど、あのレベルの議論ってほとんど出ていないんですよね。この場はそれに匹敵します。ただ「課題がいっぱい残っちゃったな」と思うし、考えなきゃいけない んだけど、埼玉大学の学生とこの4人でそこまで突っ込めたって望外の幸せです。

利夫:こんなやっぱり真面目にちゃんと、水俣のこととか、水俣で会った人のことを考えてくれているっていうのは、本当にありがたいと思う。仕事やっててよかったなと思いますね、自分でね。どうもありがとうございました。

理巳子:今日はありがとうございました。私は水俣の子どもたちと一緒に設定できればと思うんですよ。是非、水俣 の高校生であったり、中学生であったりする子たちがここに入ってほしいなと。これだけ水俣のことを自分のこととして考えているみなさんがいるんだっていう ことは、水俣の子どもたちはまだ分からないんじゃないかと思うんですよね。だから是非、水俣でこういった場を持てればと思いました。今日はありがとうござ いまいした。
永野:相思社に入ったおかげで、自分が水俣病に対して抱いていた感情とかどんどん変わってきて。みんなが来ることで、私が嫌だなって思っていたり当たり前 の風景が、どんどん特別なことになってきたのは幸せだと思っています。相思社もそうだし水俣の人たちがみんなと触れ合って、そういう感情が抱けるように なっていけばいいなと思っている。

自己開示っていうことを今回初めて考えて、去年と一昨年に不登校の立場で話すということを初めてやったんですね。自己開示をすることが生きることの エネルギーになるということを聞いて、何かがすとんと落ちたなっていうのを感じています。「今日来てよかったな」っていうのと、これからもずっとこういう 関係が続いていけばいいなと思います。私もみなさんの中の自己開示をこれからしていきたいなと思いました。一緒にがんばりましょう。

安藤:本当に4人の方ありがとうございました。とてもいい議論ができたんじゃないかと。ありがとうございました。

一同:拍手

座談会を終えて

吉永理巳子

その節は大変お世話になりました。そして最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました。

学生の皆さんに、受け入れてもらえるかどうか、少々?年齢の開きがありますから、当日は少し緊張して会場に向かいました。安藤先生はじめ皆さん方には小心者の私たちを温かく迎えていただき感謝しています。

今回の学生さんとの座談会は水俣病を次世代に語り継ぐ、課題を抱えている、語り部としても、わたしにとって大学、大学生の意義を考える良いきっかけとなりました。

水俣は、大学がありません。水俣の人がなかなか、水俣病への理解が進まないひとつの要因に、このことがあるかもしれません。他人の意見に耳を傾け、 議論し、そして一緒に飲み食いできる、仲間であることはとっても魅力的な時間であり年数を重ねて熟成していく期間でもあるのかと思います。中学、高校生で は余りにも短期間であり、社会に接する機会が少なすぎて地元で議論できる環境が作られないままになっています。もし水俣に大学があったならば、様々な地域 から様々な人たちが来るでしょう。出身地が違うと当然、それぞれが育った環境の違いが見えてきます。自分と他人、地域を考える刺激的なところになります。

みなさんの自己紹介から、水俣に足を運ぶ理由に、水俣の自然の美しさ、いごこちのよさをあげる人が多く見受けられました。

非日常を感じられる距離、星が輝いて見える適度な暗さ、時間をかけて、年齢も暮らし方も違う人と出会い語る、そんな空間に身を置く事が自己を開示する土壌づくりになっているに違いありません。

水俣の若い人たちも、外から来た同世代の人に問いかけられることで自分に気づく。事あるごとに、外の空気に触れる機会が欲しい

ほんのひと時でも、人、モノ、場所、風景、時間、食を共有することで何かが生まれる。

座談会を終えて

吉永利夫

九州の片田舎から見ていると、東京も埼玉も群馬も茨木も同じようなものであるのに、そこに住み暮らしている人々は、「東京じゃないぞ!」「埼玉だ ぞ!」と、誇らしげにそしていつもの様に反応する。大都会には安らぎや安心感、満足感や充実感、人とのふれあいや交流、緑の風や秋の風情など無いものだと 勝手に整理してしまう「田舎」。

東京との出会いは、この所そんな感じが続いている。大量生産、大量消費の権化の様な東京の人々が、3万人にも満たない小さなまちで、それも50年も 60年も昔に起こったことに、あんなにしっかり反応してくれることには、少々畏敬の念も感じてしまう。いったい都会の人々は、いったい都会の若者たちは、 水俣の何が気になっているのだろうか。いったい何に引っかかってしまったのだろうか。

水俣の魅力は真夏の朝の澄み渡った青い空。名前も知らない人から、思いがけないもらい物がある夏の午後。水俣の魅力は不知火海に浮かぶ、夕焼け雲。 見も知らない若っか者に、腹いっぱい食べさせようとするばあさんの明るい声。数日間車を止めておくと、あちこちにはびこる黄色と黒の怪しげな女郎蜘蛛の 巣。「ノラ犬にエサを与えないで!」の看板を無視して、せっせと野良犬にエサを運ぶ知り合いのおやじ。水俣の魅力はボーナスもなく、昇給もなく毎月15万 円で、まじめに働く青年がいること。水俣病資料館で語りを続ける語り部が、思いもよらない哲学を語っていること。水俣湾の親水護岸に立つと、「長崎に落と された原爆のきのこ雲が見えた」との話を思い出すこと。水俣の魅力は会いたくもないヤツに、やっぱり会ってしまうこじんまりとした空間なこと。ふらりと何 の前触れもなく、熊本県庁の役人が遊びに来てくれること。どこで会っても、歴代市長が、親しそうに挨拶を返してくれること。水俣の魅力はやっぱり毎朝道路 を掃除しているおばさん、おじさんがいること。

こんなまち水俣に、大学を創ったら学生さんは来てくれるのかしら。こんなまち水俣に、大学を創ったら青年たちが、元気に故郷を往復してくれるのかしら。こんなまち水俣に、大学を創ったら青年たちは、このまちでどんなことにふれあうのかしら。

座談会を終えて、若い人々のまじめな笑顔と出会い、少々やる気が無くなっていたおやじの頭も、少し整理された様で、もう少し元気を出して明日のこと を考えてみようと、思えたのです。大学から単位も出ない水俣行きを、何年も続ける大学生がいるとは、まだまだこの国も捨てたものではないと、まじめに考え た。

ありがとうございました。

 

座談会を終えて

永野三智

9月9日、埼玉大学安藤水俣合宿メンバーと意見交換会を行った。参加は、吉永理巳子さん・利夫さん、相思社の遠藤と永野だ。毎年合宿で相思社に宿泊 をする安藤ゼミは、とても礼儀正しく活発な人たちだ。最終日には必ず集会棟近辺やトイレ掃除まで念入りにしていく。この一つをとってもこのゼミの性格がわ かるだろう。

今回の意見交換のテーマは「自己開示」。自己開示とは何かと調べてみると「自分についての情報を、率直にありのまま伝えること」と出てくる。安藤ゼ ミの学生たちは、毎年水俣に来、水俣病を生きる人たちと出会う。自己開示する人の言葉を「受け取りたい」と思って聞くことで、水俣の問題を自分の問題と重 ね合わせる。

私もそうだが、私たちの世代は「自己開示は恥かしい、カッコ悪い」と考え、また環境的にも自己を開示しにくい空気がある。だから周りにも本来の姿や考え、根っこの部分がなかなか伝わらない。見た目には優雅に見えても、水面下では必死で水をかいている白鳥と同じだ。

それが水俣に来ることで患者から強烈な自己開示を受け、返報性のルールを意識下で意識しつつ、自分自身の誰にでも言えない問題や、それを解決しよう とアヒルのように必死で水をかくかっこ悪い一面をさらけ出す。このルールの中には、返さなければならないという責任とともに、一つの意思というか欲求も働 いているように思う。自己開示している人を目の当たりにし、自己開示したいという欲求が起こる。そこに合宿で目に見えて心が揺れても受け止める、という安 藤さんの姿勢が大きく影響しているように思う。その環境があって初めて学生たちは自己を開示し、ステップアップする。そして確固たる自分ができあがってい くのだと思う。

感情がそこでどれだけ解放されたのか? 受け入れられたのか? 自分と向き合えたのか? それによって水俣は故郷になり、自分にとって水俣病はより特別なものになっていくのだと思う。相思社でもそういった場づくりをしていきたい。

それには私自身が自己開示をしながら、同時に自己開示とは何を自分に迫るものなのかを考え続ける必要がある。今回の意見交換会で宿題をいくつもも らった。来年この宿題を、安藤水俣合宿のみんなと共有できることを目標にして、1年間自己開示とは何かを考えていきたいと思う。

座談会を終えて

遠藤邦夫

この意見交換会は2011年度水俣病情報発信事業の補助を受けて実施した。相思社が補助事業を行う理由は、本来自身の事業として実行したいのだが、 金銭的な制限から行うという選択が決心できない事業の場合が多い。事業内容は、「講演会『水俣病を生きる~自己を開示すること~』と座談会『水俣病から何 を学ぶのか』の二つを計画している」を融合させて、埼玉大学安藤水俣合宿メンバーと吉永理巳子・利夫夫妻と相思社職員(永野三智+遠藤邦夫)で、テーマに 沿って合宿経験を振り返りながらの意見交換会となった。

吉永夫妻も私も、「最近の若い者は」というような年となったが、私たちは本当に「最近の若い者」が何を考えどう行動しているのか、知っているのだろ うか? また水俣では水俣環境大学が取りざたされているが、「若い者」は、どんな大学を望んでいるのか いないのか? 実は良く分かっていなかった。今回 の意見交換会で、改めて埼玉大学安藤水俣合宿の参加者たちのことは少し分かった。

「今の大学は大学じゃない」という大学教員の安藤さんの自己批判的な叫びは、裏を返せば学生たちに「ホントの大学を味わってもらいたい」になろう。 意見交換会の後の飲み会で学生K君に、「安藤さんは僕たちに大学らしい大学を経験してもらいたいと思っているの違いない」と聞いた。彼からは「僕たちは埼 玉大学教育学部の中では、落ちこぼれみたいなものなんだよ。要領の良い奴は、既存の教育システムにうまく乗っかって、それに疑問は持たず良い成績を取るこ とだけを考えている」とも聞いた。私たちの時代には「大学は労働力再生産機関だ」と批判して、路上で機動隊と衝突を繰り返していたが、そのような牧歌的な 状況は今の時代どこにもない。大学を卒業しても新卒で就職できなければ、アルバイトや派遣社員の道しかない。私などはろくに大学を卒業してなくても、就職 に困ったことはないし、生きていくこと自体が困難と考えたこともない。そしてK君に「学生時代はさんざん好き勝手なことをしたくせに、ちゃっかり良い会社 に就職して退職後は年金生活で安泰だなんて、ふざけるなって感じですよ」と言われ、言い返すこともできず「そうだよな」とうなずく自分がなんだか罪深い存 在に思えてしまった。

埼玉大学安藤水俣合宿のメンバーたちは、意見交換会でも「自分の兄弟が障害者なんです」とカミングアウトして、多くの学生たちが「モヤモヤ」してい る自分と向きあっていることを語ってくれた。この「モヤモヤ」にこそみんなが水俣に来る、水俣に来なければ掴まえられない何かの表現なのではないか。私の ように年ととってしまうと、先の方が短いので「モヤモヤ」している場合ではなく、一つひとつを「これはこうだ」と決めつけて生きている。いろいろと困難を 抱えているのかも知れないけど、それでも「モヤモヤ」しながら考えてもらいたいと思う。なによりも、ちょっとくさい表現だけどそのことを共有できる安藤水 俣合宿の仲間がいることが、「ホントの大学」に迫っているように思う。お互いの話に耳を傾けることができる、と言ってもいつでも肯定してくれるというわけ ではない。安藤水俣合宿は、安藤さんのキャラクターと参加者が共有している「モヤモヤ」があって、続いているように思う。

私たちは様々な自分を演じていることもあるが、人生全体がドラマと思えば演じている自分も決して虚偽の自分ではない。「今の大学は大学じゃない」な らば、どうするのか? ホントの大学を作るのか? 大学ではない何かを求めるのか? 私たちはいったい何を求めて生きているのだろうか?

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