名古屋検診

1月28日、50年水俣病患者の診察を続ける緒方俊一郎先生と、名古屋検診へ行った。
4年前の今頃、東海の患者さんたちから「水俣病の申請をしたいが主治医が診断書を書いてもらえない」「ほうぼうの病院をあたって断られ、ある病院からは「裁判に加わるなら書く」と言われたが、裁判をする気にはなれない」と電話があった。患者さんたちには、東京で毎年行っている検診においでいただいたが、それでも東京までは行けないよという患者さんもいて、「このままじゃ俺は死んじゃうよ」の言葉に、東海検診を計画をした。
東海には、集団就職で金の卵と呼ばれた人たちと、その人たちを頼って働きに出た若い世代の不知火海周辺出身者が多く移住している。会場には検診希望者に加え、4年前の東京検診受診者、水俣まで検診を受けに来た人、ある患者会の人など、バラエティーに富んだ。会場は、今井光代さんにご好意で名古屋駅からほど近い場所をお借りし、鍼灸師の杉本泉さんに、東海の患者の今後の診察をお願いすべく見学に来ていただいた。

緒方先生に次々に患者さんを診てもらい、ちょっと休憩しながらということで次の患者さんから聞き取ったことをお伝えしていると、今井光代さんが昼食を運んできてくださった。美味しい味噌の香りにお腹が鳴る。杉本泉さんが、煮物と赤かぶの甘酢を持ってきてくれて、みんなで食事を囲むと場が和み、笑いがたえない空気になった。杉本泉さんは、治療を受けたいという声が多すぎて、座学と実践が逆になったのが反省だけど、多くの患者さんを診てもらえたのはありがたかった。また今年中に東海検診を行うことになりそうなので、その時にガッツリと見学いただきたい。

この日は東海の支援者も、応援に駆けつけてくれた。この支援者の方とは今年の1月に初めてお電話でその存在を知り、そしてお誘いしたのだった。病院のことは、この方達も気がかりだったそう。「おそらく国や大学病院の圧力があってね、これまで三十人四十人と診察してくれていた先生たちが、一気に手を引いたの。「もう書けん」といってきた」と言う。だんだん謎が解けてきた。

今日は色々しなきゃならないことがあったけど、一日死んだように眠ってしまった。

夕方の今、昨日会った東海の支援者からメールを読んでいる。
「この東海地方(愛知・三重・岐阜)に未発掘の患者さんはおそらくは4桁に上るかもと考えています。そんななかで、詳しい医師に検診いただけることは大変意義があり、ありがたい事です。私たちも、出来たら若い医師を見つけて勉強してもらえればとも思いますが、これからの課題です。現在の取り組みは、時々ある患者さんからのさまざまな相談に乗って、できることをお手伝いすることです」とあった。この支援者の方たちと、「助けて」の声をあげた患者さんたちがつながってくれたのもまた嬉しい。この方達もまた、金の卵世代だ。

圧力が及ばなかったり、権力に負けない関係を作っていくこと、患者さんを理解する人たちの存在を草の根で広げていくこと、そんな目標を持ち続けて、東海の関係をコツコツとつくっていきたい。

※検診の前日も、京都への移動中、また講話直前にも携帯電話にかかった。静かな場所でお話を聞きたくて、急遽、出町柳駅の近くの水俣茶を扱うお店「かぜのね」さんで場所をお借りして患者さんからお話を聞きました。美味しいごはんもありがとう。

今回は名古屋の方たちへ行く連絡をすることができませんでしたが、次はできれば秋、名古屋での報告会を行いたいと思います。

名古屋での検診報告 「水俣病患者の暮らしや症状」編
緒方俊一郎先生に依頼し、東海検診を開催。報告1は検診までの経緯と当日の様子。
東海には、集団就職で金の卵と呼ばれた人たちと、その人たちを頼って働きに出た若い世代の不知火海周辺出身者が多く移住している。今回の検診の参加者は、50才から76才までで、移住当時は溶接を生業とした人は多かった。しかし彼らは20代終わりから30代終わりまでの間にその仕事をやめている。聞くと「手のしびれやふるえがひどくて」と言う。
Aさんは、15歳で不知火海の海べたから名古屋へ出て、必死で溶接を覚えたが、手の震えから30代で仕事を辞め、建設会社に再就職した。子ども時代、親は魚の行商をしていたため、売れ残った魚は全て食卓にあがり、どんぶりいっぱい鍋いっぱいの魚を食べた。
結果、10代から頭の中にセミが四匹も五匹も住んでいるような耳鳴りに悩まされ、手のしびれや震えに悩んだ。仕事道具のハンマーがまともに打てず、字を書く時ことが、どうしても恥ずかしい。故郷を離れてから、ご飯が美味しいと思ったことはない。食事会での「これは胡椒が効いている」「これはちょっと甘すぎる」といった友人たちの会話に疎外感を覚え、極端な薄味のため妻の作る味噌汁には必ず二倍の湯を注ぐ。いくつもの病院を転々として原因不明と言われ続けた。60年、病気と付き合ってきたAさんが「わたしらはね、ホウボウに謝って回らんといかんのですよ。海べたから山間部に向けて、魚を売って回り水俣病を振りまいて回ったと思うと、申し訳なくて申し訳なくて。わたしは、水俣病になることはできんと、そう思っておりました」、「病気は努力で治すと思い頑張ってきました」と言うのに、私には言葉が見つからない。

Bさんは、不知火海が濃厚に汚染されていた時代を水俣で過ごした。一度水俣病の被害者手帳の申請をしたけど棄却通知がきたと言う。「私は水俣病ではないのだ」と納得しようとしたけれど、「水俣病の症状が、全部あるんですよ。やっぱり納得しきれんのですよ」。「一番きついのはね、足がつること。夜寝入りばな、片方の足がぐーっとつるんですよ。堪えていると次はもう片方。もう眠れんの」「それから手足のしびれ。足先や手先の感覚がね、鈍い。味付けも自信はありません。夫からは味が濃いと言われてね」。棄却されて、我慢しよう我慢しようと思って8年、でもね、やっぱり我慢しきれない。
水俣病の特徴のひとつは、手先足先の感覚障害。Bさんが棄却された当時の熊本及び鹿児島県の公的検診医のなかには、その感覚障害を調べるために、血が出るまで、またはあざが残るまで、検査用の針で突いた人たちがいました。そんなことをしたら「痛い!」と言うに決まっている。患者を疑ってかかる検査に、写真を撮って熊本県や鹿児島県に抗議したこともあった。東海でも症状を持ちながらも認められなかった方が多くいるということを、この患者さんからお聞きした。

Cさんは以前から「姉貴ふたりはかなり水俣病。私はちょっと水俣病」という新しい表現で自らをあらわしていた。ときどき相思社に電話をくれる若いCさんのことが心配だった。母が劇症型の水俣病である。当日は二年前に緒方先生の検診を水俣で受けた、お姉さんのDさんも受診。「私の症状、私の病気」を饒舌に語る姉のDさんと、その陰に隠れるように座り母の話のときにだけ姉と掛け合いをするCさん。昨日、緒方先生が丁寧にCさんの体を診ると、しっかりと症状があった。診察が終わった途端、幼い頃からあった症状を語りだし。また、一緒に東海に住む別の姉が、「仕事に行く以外は体が辛くて引きこもり、仕事が終わると疲れ切ってぐったりし風呂にも入れない、今日も誘ったけど部屋にこもって出てこなくて、なんとかならんやろうか」と言われる。

Eさんは「どうにかして、名古屋に来てもらえんかなー」と言っていた人。食事の時に「緒方先生に診てもらって、もう安心しきったわ―」と言った。今、認定申請をしても認定を受ける確率はゼロに等しい。「後天性水俣病の判断条件」が出されたのが、今から41年前だが、これは患者を認定・救済するための条件ではなく、むしろ認定申請を棄却するための条件だった。これによって多くの患者が切り捨てられ、患者たちは「オレたちは認定されて補償されたいから認定申請した。棄却されたくて申請したんじゃない」と口々に言い、運動が激化する。国の「認定をしない」方針は続いた。途中二回の「政府解決策」「政治決着」が行われ、和解した患者も多い。そこで対象にならなかった今回の人や、水俣病であることを隠したり気づかなかった人たちがあとどのくらいいるだろう。当日に応援にきてくれた、東海で長年支援を続ける人の話では、東海で潜在患者と呼ばれる人の存在は四桁にのぼると予想されるという。

Fさんは、水俣から愛知県に来て発病に気付きながら、長い間話せなかったという。20歳ごろから、耳鳴りや手のしびれなど症状が出たが、偏見や差別を恐れ、周囲に出身地を隠し続けた。2002年、名古屋市で水俣展が開催されたのを機に、心身とも病に苦しんできた半生を語り始めた人だった。Fさんは水俣市立袋小学校の出身だった。私も同校出身で、それが分かった途端にふたりで「青葉はー光る冷水(ひやすじ)のー、森を後ろにそびえ立つー母校の庭を見下ろせば―、茂道の松は濃緑に、袋の入江波静か―」と袋小学校歌を歌った。この校歌は、年の離れた私の書の恩師・溝口先生との唯一の共通の歌で、よくドライブをしながら二人で歌った歌で、なんだか一気に通じ合った気がした。するとその人は、なんと先生の教え子で私とは兄弟弟子の関係で新たな繋がりが生まれた。

Gさんは、以前の東京検診の参加者。緒方先生に会いたくてとお土産をどっさり持ってきた。普段は水俣を隠して生きるこのひとは、時々相思社に電話をくれる。自分が生まれた水俣を愛おしく思っておられる雰囲気で、最近はどんなふうですか?と聞いてこられる。私はリビングで、以前に孫の文化祭で「日本で起きた主な出来事」の中に第二次世界大戦などと並んで「水俣病」が出てきて、胸がドキッとした、という話を聞いたのを思い出していた。Gさんは気持ちが落ち込んだ。水俣が、最近私にまとわりついてくるんです。水俣が嫌いで、好きで、嫌いで。その胸の内を色んな世間話の中に織り込んで話してくれて。なんともすっきりとしない言葉は、それでも重く、切なく伝わってきたのを思い出した。
昨日は診察を受けることもなく、朝から夕方までリビングに腰掛けて、自分と水俣の繋がりを話す。小さい頃に見た猫の狂死や村に多くいた障害を持った子どもたちが、舗装されていない道を、ぺたんと座ってずって歩く光景を話し、また他の患者さんの話に相槌をうった。

途中、お電話をいただいた愛知県在住のHさんは、頭が痛い、足がつる、しびれる、全身が痛い、耳鳴りに気が狂いそう。水俣病はもう治らないと思って諦めとるけど、辛くてね、心の安定がほしくて電話した、とのこと。IさんJさん夫婦はインフルエンザで来られなかった。前の週に相思社にお電話があった、匿名のKさんも。

夕方、患者さんから電話があった。「本当にね、不安で不安で仕方なかったのよ。自分の体がどうなっていくのか。17歳から悩んでいたの。緒方先生に診てもらえて、今までのことぜーんぶ分かってもらって、安心したわ。鍼灸もね、昨日の杉本さんはすごいねー、きついところをすぐ当ててくれるのよ。もう、みーんな、僕のことを分かってくれた。」
昨日の帰りの電車の中で、金の卵と同世代で、水俣病患者を50年診察し続ける緒方俊一郎さんが言った「病気を抱えて働くというのは大変なことですよ」という言葉を思い出す。

分かる場を、語れる場を東海に。少しずつ、広がっていくといいと思います。

今回は名古屋の方たちへ行く連絡をすることができませんでしたが、次はできれば秋、名古屋での報告会を行いたいと思います。

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