水俣病センター相思社の設立メンバーである石牟礼道子さんが、2018年2月10日未明、亡くなられました。90歳でした。
1959年には、当時まだ「奇病」と言われた水俣病患者の姿に衝撃を受け、「悶々たる関心と控えめな使命感をもち、これを直視し記録しなければならぬという盲目的な衝動」に駆られ「海と空のあいだに」を執筆。『サークル村』、『熊本風土記』に断続的に連載します。これが後の『苦海浄土』となりました。68年、水俣病第一次訴訟を支援する「水俣病対策市民会議」を発足するとともに、故・川本輝夫さんらの原因企業チッソと対峙した自主交渉運動を支えるなど、徹底的に患者に寄り添いました。
73年、同じ苦海浄土がフィリピンの国際賞「マグサイサイ賞」に選ばれた際に受賞した際は、その賞金の全てを水俣病センター相思社の設立にあてました。その後も相思社の活動をこれ以上ないくらいに支え続けてくださった石牟礼さん、私たちの心の拠り処でもありました。社会全体にとっても重要な方を失われたと思います。石牟礼道子さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
1972年、水俣病センター相思社設立委員会発足の際に石牟礼さんが寄せた文章を掲載いたします。
夢の中から
石牟礼道子
「ああもう! こういう話は,夢じゃ夢じゃっ!」
浜元二徳青年が,大声で寝言を云いはじめ,寝入りばなの患者さんたちは,夢の中でいきなりケンカでもしかけられたように,きょとんと飛びおきてしまいました。
「なん? なんや二徳」
「ああもう…センター話のなんの,出来るもんけ!」
「うーん」
ひとびとは,あ,そのことかと,ぼんやり,夢の中にいる彼に返事をし,やれやれ寝言ぞと,またひっくり返る。
寝言は続きます。
「夢ぞうっ! こういうもんは・・・・・・。だいたい,いまの世の中に,そういうもんを見たこともなかぞ」
ひとびとは,しんとしてくるおなかの中で,彼の寝言に,そうじゃそうじゃと相槌を打ちます。誰しも,ことにその夜,そのように思いながら床についたのですから,いやここ二年ぐらい前からそのように考えていたのですから。
たぶん,仮称水俣病センターの話というものは,そのようなえたいのしれない<不安>として,患者さんたちのねむりの間にさえ宿りはじめ,<外側>にむけても患者同志の間柄でも,夢の中から寝言をもって問う形で,対話者を求めはじめているのです。
それは,水俣病裁判の結審近い九月六日公判の熊本の宿屋で,告発する会の本田啓吉さんが茶呑み話に,出来あがった粗案を説明した夜のこと。
患者さんたちの胸のうちを記してみれば
「裁判が終っても,どこにおんなはるかわからん,世のひとびとに,お礼にゆくこともかなわん・・・。
ぼんのくぼは疼く。足はかなわんごつなる。わが身だけじゃなしに,家のうちに重病人はふゆるばっかり。やっぱりもう,支援の方々の,これまでの御情も薄うなろ。水俣病は,はじめから銭の来る病気じゃと,来んうちから憎まれて。裁判で銭の来ると決れば,倉の立つじゃろと地元は言うにきまっとる。きっと,また次の公害の勃発して,助けてくれた人たちも,こんどは,そっちの方に行ってしまいになるかもしれん。
センターちゅうもんの,ひょっとして,出来でもしてみればこれより上のことはなかろうが・・・。そのことでまた,地元から憎まれはせんじゃろか。ここまでよそのひとがたに助けてもろて,これより先も,人間ひとさまになお縋ってもよかろうか。見捨てられても,もう欲を云うてはならんとじゃなかろうか。
親も殺され子も殺されて,いっぺんは自分も死んで,ただの娑婆じゃなかところに,生きあがらしてもろうたが,人の情とわが煩悩で。この先しかし,何年生きてご厄介かけることじゃろか。荷物にならんじゃろか,見も知らんひと方にまで。とてもじゃなかが,この上自分どもから,お頼みできることじゃなか。自分の業ば,ひとさまにうちかぶせるごたる気のして。」
患者さんたちもわたくしたちも
(センターというものの,目に見ゆる形はまだ夢の世の中のこと。見えぬところは,やっぱり恐(おとろ)しか銭の娑婆。そこらあたりがな・・・・・・)
とため息をついています。そこから先へは,うつつの足をどっぶり漬けて,転生しえたものたちは,まだひとりもいる筈はなく,けれども,患者さんたちが,その(夢の世の中)でひとつの柱,ふたつの目の柱と,建てたりほぐしたりしては,火傷でもしたように手を振り払い
「ああ! そげんとは,夢じゃ夢じゃ!」
とひっくり返ったりする。
これはまことやっぱり,賽の河原のことなのでしょうか。