資料紹介「不知火海 過去・現在・未来―獅子島調査報告―」

紹介する資料は、「不知火海友の会」が1988年に行った獅子島の調査報告書です。獅子島は水俣の正面に見える島で、空気が澄んでいる冬はとても近く感じられます。

この獅子島調査は、水俣病を含む不知火海の抱えている諸課題を考える前段階として「基本的な生活の在り方、歴史などをできる限り、そこに暮らす人々に密着した形で理解すること」(資料2 p.1)を目的に行われたものです。「不知火海友の会」は、「様々な人が集まって構成されている、民間の郷土史研究会」(資料1 p.1)と説明されていますが、相思社職員や生活学校の参加者も名前を連ねています。不知火海の沿岸地域には「海を共通の媒介としてひとかたまりの生活圏、経済圏、文化圏が色濃くあったと思わせる(環不知火海文化圏)」(資料3 p.1)ということに着目し、この調査だけでなく陸と海の地図作りやシンポジウムの開催など構想があったようですが、実現はしていなさそうなのが残念です。

聞き取りの記録自体も大変興味深いものですが、この報告書は、農業、漁業、食生活、交通などの項目でまとめられており、獅子島の生活が様々な要因で変遷していることがわかります。読むだけでも、グラフや地図をみるだけでも面白い資料です。

水俣から見ても分かりますが獅子島は平地が少なく、したがって耕地も少ないため自家用の半農半漁と物々交換という生活だったようです。カライモ(さつま芋)は主食の一部であり換金作物でしたが、純粋な換金作物としての甘夏の栽培が拡大していき、「 “今はぜいたく貧乏だものなあ” というお年寄りの言葉」(資料2 p.32)は暮らしの変化を表しているのでしょう。また、特に平地が少ない集落は養殖漁業に転換していったようです。
醤油が店で買えるようになった→麦の栽培が止まった、九電の進出→冷蔵庫の普及→肉を食べるようになった、という生活の変化も見られます。産業についていえば、林業は九州の炭鉱地帯に出荷される坑木が主な用途でしたが、炭鉱の閉山ともに衰退しています。また、その仲介は不知火海の他の島民が行っており、不知火海内での活発な人の行き来がわかります。ほかにも、物品を購入するルート、医者にかかるときのルートなどの人の移動がありますが、鹿児島県に属する地域よりも水俣、天草などとの結びつきが強いのは興味深いです。

この獅子島調査の後、状況はどのようになっているのか気になるところです。
出稼ぎで島を離れていた人たちは島に帰ってきたのでしょうか。不知火海をつないでいるネットワークはこの調査の後にはどう変化しているのでしょうか。うーん、気になります。今度、獅子島を訪れようと思う小泉でした。

〈参考〉
資料1 不知火海友の会「不知火海  過去・現在・未来-獅子島調査報告-」(1988)、相思社資料番号1903
資料2 不知火海友の会「海路と陸路の聞き取り調査について」(1987)、相思社資料番号70707
資料3 不知火海友の会「不知火海友の会 アンケート調査(無記入)」(1987)、相思社資料番号59055

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