土呂久

土呂久(とろく)の公害患者で佐藤慎市さんの叔母の、佐藤アヤさんの歌を、時々読み返します。心を鷲掴みにされたようになります。決して彼女の存在を、彼女の苦しみを、彼女が生きたということを忘れないぞと思います。佐藤アヤさんの歌です。
・我が疾病(やみ)を砒素中毒と切り離し低額迫る行政に泣く
・山咲の花も豊かな故さとに何時の日かえる土呂久の村よ
・夜の間にどんどん燃やす毒煙 土呂久の村は雲海の如く
・あれ程に煙害散らしおきながら害少しとうそぶく彼等
・梅の香も未だ匂わぬ春浅く朝膳運ぶ手に力なし
・今一度生まれ変わりて来る時は汚染なき地に生を受けたし
・来世に我も嫁ぎて妻となりて母ともなりてみたしと思う

写真は、土呂久山荘。アヤさんの甥っ子の佐藤慎市さんと川原一之さんが地域を案内してくださり、妻のマリ子さんが語ってくださり。夕飯にいただいた、慎市さんが捕らえたイノシシの味をいまも思い出します。その夜に聞いたヤエさんの話も。マリ子さんは土呂久の産物を加工販売しています。私は出張時、誰かのお宅に泊めてもらうことが多いのですが、そんなお宅に貼ってあったりするマリ子通信の味のある文章。思わずぐっと励まされます。

新聞記者時代に土呂久鉱毒事件の被害者と出会い記録作業に取り組んでいる川原一之さんから教わったことには、土呂久では、1920年から62年まで、農薬や毒ガスの原料になる亜ヒ酸という猛毒を作る鉱山が創業し、塩害防止策のない精錬がまが吐き出す毒煙と汚染水によって、多くの住民が病気に苦しんでいたそうです。そのひとり、佐藤鶴江さんが公害報道に接して「私も公害患者」と認識し、1970年に宮崎地方法務局に訴え出ました。しかし、鉱山会社はすでに倒産、病気と鉱山創業の因果関係も明確にできず、調査は行き詰まりました。そんな時、地元の小学校教師が埋もれていた公害の掘り起こしを始め、絵地図を作り、教育研究集会で発表、マスメディアで大きく報道され、社会問題になります。この記事の写真にあるのがその絵地図です。宮崎県はただちに調査し、いったん公害否定の中間報告を発表しますが、すぐに軌道修正をして、環境庁に報告、73年に慢性ヒ素中毒を「第四の公害病」と定め、その病気の多発している土呂久を指定地域にしました。宮崎県による患者認定は、現在も続いています。
川原さんは言います。全国の公害資料館の中には、「四大公害病」という言葉をつくって、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、水俣病、新潟水俣病の4つをあげるところも出てきている。しかし「四大」と呼ぶのは全国に先駆けて起きた公害事件や訴訟だからであって、公害病を大小でもって「四大」というのは間違っていると。
これを聞いた三年前、衝撃を受け、共感し、講演などで土呂久やカネミ油症、三池CO中毒や大気汚染、騒音、振動、悪臭など他公害についても話をするようになりました。

今日その川原さんと会い、いま、土呂久の資料を残そうという取り組みが始まりつつあることを知りました。特に、地元の小学校教員がつくった絵地図は大変貴重なものですが、劣化が進み、修復が必要な状態だと。ずっと、ヤエさんのことに取り組みたいと思ってきましたが、水俣と同じ状況にある土呂久のことを改めて知り、一緒にできることをしたい、と思った今日。

土呂久 砒素ミュージアムのHP↓
http://toroku-museum.com/

上記のHPにあるアヤさんの紹介
認定患者が少しずつ増えていくのに、自宅で寝たきりの佐藤アヤさんには、なかなか認定の通知が届かなかった。アヤさんは、不自由な右手にボールペンをはさみ、辛かった体験を手記にし、魂の叫びを短歌に詠んだ。著書「いのちのかぎりー萎えし右手に筆をくくりてー」のあとがきに、こう書いている。
「他の人は皆んな被害者の集りに行って確かな口で訴えるが、足の利かない私にはそれが出来ない。だから文書で訴えるより他にない。このどよめきに何もかも、思い出すままかいて、かいて書きまくろう。求めよさらばあたえられん、ということわざもあるではないか。曲った右手にペン取れば、痛み、しびれも何処へやら。只もう無我夢中でした」
アヤさんは“土呂久の歌詠み”として、病床から魂の叫びを発しつづけた。

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