どうしようもできないことを

行政の職員からヘルプの電話。水俣病患者さんから制度に対する苦情の電話があっている。制度で決まっていることなのでどうしようもできないことを、この二日かけて話したけれど、もうワタクシには対応しきれない。正直な電話。
どんな話をしたかを聞くと、延々と制度の話、患者側の制度に対する認識の誤りを説明したという。少しだけ怒りを持って、「あなた方に助けを求めているのだから、私ではなく、あなたが、話を聞いてほしい。何に納得しておられないのか、何を求めておられるのか受け止めて。解決を一緒に模索して、それでもだめならまた電話をください」とお伝え。そのあと私も少し冷静になって、彼はせっかく助けを求めてきたのに、二日間悩んだのかもしれないのに、あんな言い方をしなくても良かったのではないかと思い、いやしかし、やっぱりあの方が話を「聴く」べきだと思い。30分後、やはり対応がしきれないというヘルプ。患者さんの番号を聞いてこちらから電話。
制度の何に対して怒っているのかを聞いた。確かになかなか難しいと思いながら、話の途中でご自身のことを質問すると、言葉が溢れた。
昨年の終わり、脳溢血を起こし、麻痺が残り、構音障害が残った。うまく話ができないことが、私の気持ちが伝わらないことが、悔しくて、悔しくて。
不知火海の周辺出身で、県外の製鉄所で父が働いていた戦時中、父についていって暮らした場所は、何も食べるものがなくって、わたしたちは一家でひもじい思いをしたの。敗戦後、父の実家に帰ってきたら、食べ物が、なんだってある。目の前の海に行きさえすれば、魚が食べたいしこ、とれる。畑では麦や野菜をつくって食べて。そしたらこんな目にあっちゃった。水俣病になったのよ。
中学卒業して、たった一人で東京に出て、不安でいっぱいだったけど、働いて働いて、こんな仕事をしたの。仕事を覚えて、海外に飛んで、必死だったけど、本当に、楽しかった。仕事をやめて20年。こんなことになるとは思わなかった。私はね、馬鹿にされるような人間じゃないの。

そうして30分話をなさったあと、ふぅ、と大きくため息をついたその人は、「もう、よかぁ」と熊本弁でつぶやいて、相思社の電話番号を聞き、また電話するから、と電話を切った。
私の方はその人の、こどもの頃の不知火海で過ごした豊かな経験や、精一杯仕事をした充実感を聞きながら、あぁ、この人の人生が決して大変なだけではなかったのだと思い、なんだか幸せな気持ちになった。
魚を食べて、水俣病を抱いた人たちとの出会いの中で、私は一度も魚を憎んだり恨んだり、食べることにトラウマを持ったりした人に出会ったことがない。それどころか、「あの時代、食べるものがなかった時代、自分を生かしてくれた恩人のような魚を、水俣病があったけんといって、犯人扱いするなんて、俺にはでけん」という話を聞いたり、魚の美味しい加工の仕方を幸せそうに語るのを聞いたり、貝とりや漁の話を生き生きとする人たちの話を聞いたりする。魚の行商をしていたあの人は、いまも愛おしいものを見る目つきで魚を眺める。あの幸せな暮らしを壊されたって、「幸せだった」という記憶は変わらない。人生のなかにそういうひとときがあったということに、その幸せの記憶に、話を聞くたび、私が支えられている。
制度のことは、いまは手立てが浮かばない。でも、一緒に考えていこうと思う。

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