青空が戻ったときに

四日市の公害患者、野田之一さんが亡くなられた。2016年6月。生まれて初めて四日市の地を尋ね、伊藤三男さんにご案内をいただいた。その時に、「ここに、野田之一さんが住んでおられるんだよ」と、お住まいの集落までお連れをいただいた。漁村近くで生まれた私は、そこで漁師をしておられた野田さんを、勝手に身近に感じた。1972年の判決の際におっしゃった「青空が戻ったときに『ありがとう』と言いたい」という言葉に、人として、自然を冒涜したことへの謝罪をなさっているのではないかと感じ、そのお人柄を思った。その後、同じ目的を持って活動をする同級生の家族が、四日市ぜんそくの被害者であり、彼女が病気に耐えきれず自死を選んだことを知り、私には分かりえない壮絶な苦しみを思った。その後、我が職場、水俣病センター相思社に来た四日市に住む水俣病患者の連れ合いがぜんそく患者であることを知った。あれから三年が過ぎようとしている。それぞれの人生を狂わせた公害病を知るにつけ、「青空が戻ったときに『ありがとう』と言いたい」の言葉が私の中で重みを増していく。

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