原田正純さんが逝去されました

昨夜(6月11日)、午後10時12分、急性骨髄性白血病で原田正純さんが逝去されました。享年77歳でした。

原田先生の業績などはいろんなところに書かれていますので、ここでは原田先生の思い出話をいくつか書いてみたいと思います。

原田先生の思い出

原田先生と初めてお会いしたのは水俣にやってきてすぐの1985年のことだったと思います。相思社で講演されたのをお聞きしたのが最初だったと思います。

次にお会いしたのは、その少し後、熊本のご自宅でした。当時わたしは水俣生活学校にいたのですが、この生活学校の仲間たちと熊本市内に研修に行った時のことだったと思います。少し風邪気味だった女性が研修中に熱が高くなって、ぐったりしてきたので、研修生を引き連れていた柳田耕一氏が、「近くに原田先生のおうちがあるので診てもらおう」と言い出して、夜分にご自宅に押しかけて診察をしていただきました。そのときの先生の言葉がふるっていました。

「医者の出す薬というものは役にはたたんもんだ。玉子酒でも飲んで、暖かくして寝ているのが一番だ」

その次の年だったと思いますが、外国(確かインドだったと思います)から水俣に来られたお客さんを原田先生のご自宅までお送りした時に、「君、ボクんちに泊まっていかないか」とお誘いを受け、泊めてもらったことがあります。夕食後に一緒に焼酎をごちそうになっていたとき、

「僕はね、外ではどんなお酒でも出されたものを飲むのよね。焼酎も芋だって米だって何だって飲むのよね。でもね、家ではね決まって地元の焼酎を飲むの」と生まれ故郷の芋焼酎を飲んでおられました。

そのちょっと後のことだったと思います。胃ガンが見つかって入院手術するとの話を聞いたときのことでした。

「先生、もうすぐ入院手術だそうですね」

「うーん。実は家内に病気は早期発見、早期治療が肝心だから、念のために健康診断を受けときなさい、って言ったらね、わたし一人じゃいやだって言うんで、仕方がないから僕も健康診断を受けたらね、ガンが見つかっちゃったのよ」

「もうすぐ入院手術ということなら、しばらくはお酒は飲めないですね」

「まあ、入院しちゃうと飲めなくなるから、入院するまでに飲みためているのよね」と笑ってられました。

退院後しばらくしてお会いする機会がありました。

「退院されたばっかりですから、お酒は飲まれないんでしょう?」

「うん。ビールを飲むと胃がチクッとするから、退院してからは焼酎ばっかり飲んでるよ」

「えっ、もう飲んでるんですか」

「うん、退院した日から飲んでるよ」

何か、原田先生の思い出というとお酒の話ばかりのようですが・・・。

最初の入院手術の後、原田先生は精力的に本を書かれていました。

「水俣病のことと三池の一酸化中毒のことは書いておかないと死んでも死にきれないからね。胃ガンは3年、5年再発しなければ大丈夫だなんだけれど、今はまだどうなるかわからないから急いで書いておくのよ」

それからしばらくしてからだと思いますが、「秋津レークタウンクリニック」が開所することになりました。

「この医院はね、水俣病と職業病と地域医療のために作るの。水俣病患者のための医院、皆さんのための医院だと思っていいのよ」との言葉に甘えて、開所してすぐの頃から週に1~2回、毎週、水俣病患者連合の会員を診察していただくために通いました。いざというときのために一人一人の会員の詳細な診断書を作っていただきもしました。これは結構大変な作業でした。

しかし、その診断書を使うことなく、1995年の水俣病の政府解決策が示されました。水俣病患者連合も「苦渋の決断」をしてこの解決策を受け入れることになりました。原田先生にそのことをお伝えに行ったときのことです。

「うーん。患者の人にとっては仕方のないことでしょうね。この機会を逃したら10年は解決が遅れるでしょうからね。でもね、僕は医者だからね、医者として正しいと思ったことは言い続けますよ」

原田先生の思いではほかにもたくさんあります。

相思社に突然電話がかかってきて「僕だけど、今日の講演会、どこでやるんだったっけ、君わかる?」ってこともありました。

講演会のスケジュールが立て込んでしまって、新聞連載原稿を書く時間がなく、大阪に移動中の飛行機の中で原稿を書いたとのことで、そのときたまたま私も大阪にいたのでに「君、いいとこにいた。この原稿、急いで新聞社にファックスしておいてくれない」ってたのまれたことも懐かしい思い出です。

あるとき、あまりに忙しそうなので、「先生お忙しそうですね」と尋ねると、

「そうなのよ。これを見て」とスケジュール手帳を見せて、「ずっと裁判所の証言が入ってるの。僕は医者で、弁護士じゃないんだから、裁判所ばかり行ってるのはおかしいと思うのよね。ほかに医者もいっぱいいるんだけど、患者側の証人に立つと医学界のお偉方ににらまれるからみんな証言にたちたがらないのよね。だから僕が証人になるしかないのよね」という話には黙るしかありませんでした。

いろいろと思い出は尽きませんが、これ以上書いていると、「君、もういい加減にした方がいいんじゃない」としかられそうです。

先生、安らかにお休みください。

合掌

 

 

 

 

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