韓国へ行きました。韓日の私たちの市民レベルでの対話のために、現在水銀汚染の被害を受ける韓国の現状を知るために。「蔚山ジャーナル」の]이동고記者が記事にしてくれました。タイトルに、泣きました!!翻訳機にかけたものを掲載します。
“水銀汚染は他人事でない”
【インタビュー】水俣から来た永野三智さん 素朴だがねばっこく連結された韓日民間交流
[蔚山(ウルサン)ジャーナル]移動高記者=蔚山(ウルサン)未来共生研究所は2016年4月15日、熊本県で強度6.5の地震が起きるとすぐに民間交流と復旧支援でそちらを訪問した。 本来は近所共同体の村を訪問する予定だったが周辺の勧誘で水俣市を訪問することになった。 水俣病センター相思社の常任理事である永野三智さんとの縁の出発だった。 最近浦項(ポハン)、兄山江(ヒョンサンガン)水銀汚染度心配になって韓国に訪問したいという話を聞いて蔚山(ウルサン)未来共生研究所キム・ヨンスクさんは永野三智さんを招いた。 インタビューをした日はちょうど午前に頭洞(トゥドン)小学校訪問オリンドゥルに水俣の話を聞かせて降りてきた道だった。 インタビューする終始永野三智氏は始終一貫低くておとなしく落ち着いて同じ言葉で答えた。
1.永野三智はどのように韓国にくることになったか?
韓国に対する関心を持つことになったことは蔚山(ウルサン)未来共生研究所キム・ヨンスクさんのためだ。 2016年福岡、熊本県地震被害をこうむった時民間交流次元で日本に支援活動をきたが水俣地域まできて会うようになった。 当時福岡空港で一時間半分ほどかかる‘糸島’は福島事態以前にも山、海、川が皆あって貴寸志で脚光を浴びる所であった。福島以後に若い夫婦、家族、アーティスト、職人が本格的にこちらで移住してきて地域共同体が活発になる所だ。 その中環境運動する韓国人が水俣に行けば互いに役に立つつもりだとして水俣に来たものだった。 約20人程度が5日間あった。 人々がみな他のキャラクターなのに大家族のような感じなのでとても気楽だった。 とても独特だと考えた。 最近キム・ヨンスクさんに活動する水俣の話をしたくて浦項(ポハン)水源地域に水銀汚染問題が生じて韓国に行きたいといったが便宜を見るから来なさいして訪問することになった。 今日頭洞(トゥドン)小学校を行った時も子供と両親、先生が一緒に集まって家族と同じ雰囲気なのでとても良かった。 頭洞(トゥドン)初を訪問したところ学生たちが私の話を耳をそばだて聞いたし予想できない質問を投げて先生も驚いたという。
2.浦項(ポハン)、兄山江(ヒョンサンガン)流域で水銀が過多検出された時韓国取材陣が水俣市を訪問した。 今回浦項(ポハン)を見回したか?
兄山江(ヒョンサンガン)下流にシジミが出てくるのに浦項市(ポハンシ)長で環境部取り締まりに基準値以上の濃度が出てくることによって明らかになったことだった。 市(詩)に通知をしたし浦項市(ポハンシ)は‘兄山江(ヒョンサンガン)でシジミ採集をするな’という消極的な対応をした。 その垂れ幕を見た浦項(ポハン)MBC放送局PDが取材をする過程で明らかになった。 チャン・ソンフンPDは水銀中毒に対して調査をして水俣、ソチ社を取材したが‘どうしてそんなに執拗に取材ができるか’という気がした。 すごい方だと感じて今回の韓国にきたついでに兄山江(ヒョンサンガン)を行ってみた。
現在ある水俣県立記念館は公立だと見ると公務員が随時変化する。 水俣病センター相思社は45年間活動をした専門家たちであるから信頼ができる。 水俣病を一緒にした人々、専門家、医者たちネットワークが発達していて浦項(ポハン)市会議員が来年に招けば助けになろうとする。 今浦項(ポハン)地域韓国の人々は自分の生計が関わっている問題だからまともに話すのを敬遠してする傾向があるようだ。 今私のように水俣病を先に体験した人々がきて話すことが問題を解いて行く所はるかに易しい。 国際交流と連帯が必要な理由だ。 2017年7月26日浦項(ポハン)MBC放送によれば兄山江(ヒョンサンガン)と会う浦項(ポハン)鉄鋼団地につながる九分け千川底で発見した水銀数値が916mg/kgで許容量の1万3000倍に出てきた。 この汚染濃度は日本水俣病が発病するほどの水銀濃度であった。 現在の浦項市(ポハンシ)は九分け千近くに兄山江(ヒョンサンガン)開発プロジェクトをするのに開発行為よりさらに至急なのが環境保護だと浦項(ポハン)市民団体は見ていた。
3.水俣病が明らかになった過程を説明してほしい。
水俣市は海と山を挟まれている林業、農業、塩、漁業地域だった。 1908年水俣市に‘打って(Chisso)’という会社が化学肥料工場を作ったがその時までしても大きな問題はなかった。 だが、事業を多角化して1932年化学薬品であるアセトアルデヒドを作って問題が生じた。 硫酸水銀を触媒で使ってメティルスウンが含まれた廃水を河川に流したのが水俣病の開始だった。 1932年初めて発病し始めたが魚を食べた猫がおかしな行動をポオッコ海に飛び込むことでして‘猫病’とも呼ばれた。 水銀ドクに露出した漁師は最も劣悪な位置にあったので発言権もなかった。 当時記者たちが取材をきたが村に起きたおかしな(支える)たまられるほどのエピソードで報道した。 1956年初めて患者を発見した時も記者たちは猫100匹、ネズミが及ぼして歩き回って本当におもしろくないかと記事を書いた。 その時記者が真剣に記事を書いたならばこのように問題が大きくなりはしなかっただろう。 水俣住民は故郷を背を向けて日本全域に散ったし、水俣出身という理由で就職はもちろん結婚もできなくなるとすぐに故郷を隠して生きた。 それだけ病気になっても永らく隠蔽された理由企画する。
4.問題が深刻化したのになぜ対処が遅れたか?
当時分狭い日本が生産するプラスチック材料の80%を生産するなど途方もない売り上げを上げていた。 東京でとても遠く離れた地域だと熊本県はその話を聞いても住民のための対策をたてなかった。 前後10年になった国家は戦後復興や経済成長が話題である時代であった。 1956年5月水俣内新日本窒素肥料付属病院院長が“正体が分からないが中枢神経系を破壊する病気が広がっている”という報告書を市(詩)公衆保険所に提出することによって世の中に知らされたが食品衛生法で措置を取らなかった。 その後にも公式に法律的に魚を食べたり捉えてはいけないとしたことがなかった。
窒素肥料工場の病院長細川ハジメは1959年7月工場の廃水が添加された食べ物を猫に餌にあたえる実験を通じて有機水銀中毒であることを確認した。 だが、会社はこれを隠して研究を中断した。 調査を継続してきた熊本対研究チームは1963年2月“新日本窒素肥料で川に流した有機水銀が海の中魚介類に蓄積されてそれを食べた住民の脳細胞を破壊した”という最終結論を下した。 それでも日本政府はこの日あの日対策を先送りしたし患者と死亡者は続出した。
5.本当に打って会社や熊本県、中央政府は何の措置を取らなかったか?
打って(新日本窒素肥料)側は自社を地域経済のつっかい棒と認定している世論(この会社および職員が水俣市の税収で占める比重は50%を越えたし、地域働き口の25%がこの会社と直間接的に連結されていた)を利用して1959年12月‘慰労金30万円支給契約’を患者らと締結した。 契約書には慰労金が新日本窒素肥料の‘後の’という点が強調されたし、今後新日本質素が原因とあらわれても新しい補償を要求しないという一方的な条項が入っていた。 以後分狭い肥料工場稼動を継続したし、被害は広がった。 小さい河川を通じて廃水を流して海を通ってしまって見たら水俣病で公式認められた患者数は2950人になったしその中千人余りが死亡した。 だが、非公式的には患者数が1万人余り程度になったと予測される。 当時熊本県支社は‘既存河川に流すのを海に送れば濃度が和らげて特別な問題がないこと’と考えた。 だが、水銀は食物連鎖を通じて人口に入ってくる時10万倍以上で濃縮されて帰ってきた。 その後措置は‘再び廃水排出口を河川にしなさい’という措置であった。 また、一つは水銀排出口入口に機械装置を設置して水銀と水を分離するということだった。 熊本県支社は網を入れた除去装置でより分られた水を直接飲んで“今は水銀がないです”という式のパフォーマンスをした。 以後記者たちは打って廃水は安全だと報道したがそれは嘘だった。 その後にも患者はずっと発生した。
1968年分焼死プラスチック製造法が変わった。 ‘アセトアルデヒド’を作るために触媒剤で水銀を使った工程でもう石油ですぐに原料を選ぶことで変わったのだ。 水俣病は1965年に発生したが1968年から戦いが始まった。
5.水俣病が認められ始めた契機は誰を通してだったか。
1956年5月1こと分小企業付属会社意志(医師)が最初に発見、認められたことでその後1959年 7月熊本大学で有機水銀による病気だと明らかにされたのだ。 だが、こういう見聞きした有力な学者によって不正当だった。 水俣病の原因が最終有機水銀ということは1968年9月に最初に明らかになったし公害病と認められた。 1969年に患者は正式裁判に行くことになる。 患者が補償金をかけて1972年に勝訴をした。 以後で自身も患者だと主張する人がずっと出てくることになった。
チッソの経済的な余力のために患者と認められるのは少数であった。 裁判もたくさん起きるので裁判は裁判で国家から和解勧告がたくさん出て合意する場合が多かった。 1995年まで和解した人は1万3000人で2016年まで和解した人が6万5000人で合計7万8000人だ. 正式に患者と認められた人は2000人強で今は水俣患者と認められることがさらに厳格になった。
6.現在も続く水俣病に対して知らせてほしい。
水俣患者に対する賠償が遅くなされている。 1968年以後水銀がこれ以上排出されないために1969年11月30日生まれた子供まで認めてくれる。 水俣に住むという理由で以前に差別を受けたし結婚もできなくて申請を出来ない場合が多かった。 また打って関連会社を通う人が多かったが、申し込むことを敬遠した人々もからだがとても苦痛だからそのまま患者になる場合も多かった。
有機水銀は人内蔵でも行かない脳に行って脳を破壊する。 女が妊娠すれば子供に影響を及ぼす。 激しければ全身にけいれんを起こしたり意識がなくて死ぬ。 今水俣病にかかった人々は頭痛、異名を訴えたりからだが疲れたり味を誤って受け取ったりするような症状を訴える。 指足の指など末端の部分だけマヒがくるのに最も多く使われる身体の部分にマヒがくることだと見れば良い。 50代おばさんは手の感覚がなくなって火でも沸いているお湯にレンタルも、鎌質に指が切られても苦痛を感じることができない。 普通の人3倍の頭痛がくる。 水銀が入れば半減期があって70日ほどならば排泄物で外に出てくるがからだの中を回って長期と脳を損傷させると見れば良い。 水俣海岸で出る魚をずっと食べるので半減期が意味がない。 ひとまず破壊された脳細胞は本来対に戻らなくて今気兼ねするのは後遺症だ。
私たちのソシシャ団体は水俣患者の苦痛を話した。 病院看護師は“相思社団体は偽患者を作り出す所”としながら“町内が暗くなって疲弊されるだろう。 裁く人には止めろ”と非難した。 3年が過ぎるとすぐにその看護師が病院を止めて私たちの団体に申し込みにきたよ。 びっくりして“患者を非難した人がここになぜきたか”と尋ねるので“からだも痛くて経済的に大変だから不安になって申し込みにきた”暑く。 以前水俣看護師は注射をまともに置くことができなかったし、患者の脈をとることもできなくて聴診器で脈を分かった。 看護師は患者と認められることができなかった。
6.今の水俣地域とチソはどうなのか?
水俣市人口が5万人なのに5000人が仕事をしていた。 水俣市長の前職はチッソ工場長だった。 市議会議員の半分がチッソ出身だった。 水俣には何でもチソと関連している。 子供たちチッソに就職したがる。 現在分狭い廃水を分類して送るのに国家環境性で厳格にチェックする形で放流する。 今はデジタル液晶を作るのにたくさん作る時液晶の46%を作り出したし、今は30%程度を生産する。
今は発病をしても患者と認められ難い。 ‘50年前魚食べた領収書を持ってきなさい’という式で要請する。 1年に300人程度が患者申し込みに訪ねてくるのにそのうちのただ1人が水俣病患者と認められた。 幸い領収証があったのだ。 今は条件がさらに強化されて家族の中に和解も認められる人がいてその当時魚領収書がなければならない。
1997年まで40年の間漁業禁止令が下された。 今である魚を捉えることができるが初期漁獲量の1/3~1/4程度に落ちた。 水産業が直撃弾を受けたし地域水産物に対するイメージは薄れた。 水俣地域住民たちは水俣が持っているイメージで偏見と差別を受けている。 今は地域の人々が自然農法で謝罪も閉じる生産するのにそれを売って相思社の活動経費に使っている。 活動家が販売活動もしなければならないからとても忙しい。
http://m.usjournal.kr/news/newsview.php?ncode=1065619310669678&fbclid=IwAR2iSe8cWw16cV6cO2gs0dBYDJGXkz8T1EgJJKhRo6gagIAoxrfJVGBGAvU#_enliple